晩翠怪談 第6回 「てーん!」「筆まめ」「計3人」
■てーん!
仙台市内で会社務めしている藤見さんの話である。
真夏のある時、彼は都内へ出張に出かけた。
経費節約のため、足は往復高速バスである。行きは早朝発のバスに乗り、戻りは夜行バスでの帰還となった。
どうにか仕事を無事に終え、バスが都内を出発してからしばらく経った、深夜二時近くのことである。
小休憩のため、バスがサービスエリアに停まった。なかなか寝付かれなかった藤見さんは、用を足しがてら煙草を吸うため、降車する。
場内の片隅に設けられた喫煙スペースへ向かい、紫煙を燻らせていると、ほどなくひとりの女がやって来た。
白いサマーコートを着た50絡みの女で、顔つきは苦虫を嚙み潰したように険しい。彼女は藤見さんから少し離れた距離に陣取ると、スマホをいじりながら加熱式煙草を吸い始めた。
藤見さんのほうは、1本目を吸い終わる頃である。バスの出発時間までまだ余裕があったので、新たな煙草に火をつけた。
横目で見るともなしに女の姿を視界に留め置き、煙を吐きだしていると、女はふいにスマホの画面から顔をあげ、道路に面した暗闇のほうを向いた。
「てーん!」
頭上に掲げた片手を大きく振りつつ、女は叫ぶ。やはり顔つきは険しく、苛々しているような声風である。
「てーん! てーん!」
誰に向かって声をかけているのだろう。思いながら、女が見つめる暗闇の先に目を凝らすと、白い人影が見えた。道路側に面した駐車場のはるか先から、こちらへまっすぐ向かってくる。
細い身体の線から見て、すぐに女と分かったが、動きが妙な感じである。まるで棒が進んでくるかのような具合に、身体が少しもぶれることがない。
滑車に乗って進んできているような動きだったが、そうかと思って足元に視線を向けると、女の足は地面から少し浮いていた。
「てーん! ほら早く! てーん!」
「は?」と思うまにも、白い人影は女に大声で呼ばれつつ、こちらへ向かってすいすい近づいてくる。
しだいに輪郭がはっきりしてきた。とたんにぎくりとなった藤見さんは、慌てて煙草を揉み消すと、あとは脇目も振らずにバスまで駆け戻った。
こちらへ向かってきていたのは白い着物姿の女で、顔のまんなかがアケビのごとくざっくり割れて、血が滴っていたからである。
女はやはり、足元が宙に浮いていた。
バスへと逃げるさなか、はっきりその目で見たという。
「てーん」とは一体、何者だったのか。
呼んだ女も、呼ばれた女も、どちらも素性は分からずじまいだったのだけれど、どちらも顔だけは、今でも記憶に強く残っているとのことである。
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