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晩翠怪談 第9回 「般若たち」「墜落火」「闇夜を駆ける」

■般若たち

 八橋さんは現在、40代になる会社員である。
 彼が暮らす実家の近所には、無人の八幡神社がある。
 徒歩で五分もかからない距離にあるそうだが、30年近くも足を運ぶことはないという。

 原因は中学時代に遡る。
 ある日の夕方、父から学校の成績のことで𠮟責を受けた八橋さんは、怒りに任せて家を飛びだした。
 向かった先は、件の八幡神社である。境内に気の済むまで身を潜め、父を心配させてやるつもりだった。石畳の参道を突っ切り、小さな拝殿の裏手へ回る。
 夕闇に染まる拝殿の裏には、裸の女がふたり立っていた。
 どちらも真っ白い般若の面を被っている。髪は首のうしろで束ねていた。
 ふたりは互いに顔を向け合い、胸の前に突きだした両手を繋ぎ合わせている。そんな姿勢を保持したまま、裸足で地面を踏みながらくるくると回っていた。
 ふたりが回る足元には、白い子犬がぐたりとなって横たわっている。
 子犬はぴくりとも動かない。おそらく死んでいるのだろう。
 白い般若の面を被ったふたりの女は無言のままに、死んだ子犬の上を一心不乱に回っていた。

 何をしているのかまるで理解できなかったが、女たちを目にしてまもなく、勝手に膝が笑いだし、歯の根が勝手に震え始めた。
 自分は見てはいけないものを見ている。
 直感を抱いた八橋さんは、女たちに気取られぬよう、縺れる足でどうにか神社をあとにした。

 自分は何を見てしまったのだろう。
 家路をたどるさなか、思いを巡らせてみたのだけれど、さしたる答えが出てくることはなかった。
 ただ、お化けのたぐいではないと思った。女たちの姿は夕闇の中でも仔細がはっきりしていたし、足が地面を踏み鳴らす音も耳に届いてきた。
 おそらく生身の人間だろうと思うのだけれど、普通の人間とは思えない。どこの誰かは知れないが、もしも近所に住んでいる女だったらどうだろう。想像しただけでも胃の腑がすっと冷たくなった。

 その晩遅くのことである。
 自室で寝入っていた八橋さんは、違和感を覚えて目が覚めた。
 目蓋を開いて首を動かすと、目の前に般若の顔が迫っている。
 悲鳴をあげて身体を反対側へ転げた先にも、般若の顔があった。
 八橋さんが寝ている布団の両脇に般若の面を被った女たちが寝そべって、がっしと両腕を掴んでいた。
 
 そこで意識が途切れてしまい、気づくと朝になっていた。
 夢を見たのかと思ったのだが、それにしては記憶が生々しい。
 起きあがろうとすると、両腕に鈍い痛みが走った。寝返りを打った弾みに筋肉痛でも起こしたのだろうか。
 一時はそんなふうに考えたのだが、痛みは二週間近くも続いた。痛みが消えると今度は皮膚に軽い痺れを感じるようになり、こちらは一向に治まる気配がなかった。
 結局、30年近く経った今現在も、痺れは残ったままだという。程度は軽く、どうにか生活に支障はないものの、医者に診せても原因は不明だと言われた。
 八橋さんとしては、件の般若女たちの仕業だろうと考えている。
 だから神社には二度と行かなくなった。
 一度出くわしただけで、こんな目に遭わせてくれた相手である。
 その正体がなんであれ、もう一度姿を見る羽目になったら、こんなものでは済まないことになるのではないか。
 そんなことを考えると無性に恐ろしく感じられ、神社には未だに足を向けられないでいるのだという。

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