チェーンメール
「朝から精が出るな」
挽いた豆の香りが部屋中の空気に浸透していく。窓の外では、木に囲まれたグラウンドでサークル活動に励む若者がいた。
挽き終えた粉に熱湯を注ぐ。粉は質量を変えたかのようにモコモコと立ち上がり、室内に広がる香りはピークに達した。部屋の中は、無秩序に散らばる書物の匂いとコーヒーの香りが混ざり合い、飾り気のない部屋を不思議な空間へと仕上げた。
朝のコーヒーの香りは、自分が現実にいることを実感させてくれる。これ無しに一日は始まらない。
コーヒーの入ったカップを持ち、椅子に腰かけキーボードに触れた。目の前のスクリーンには既に多くのソフトがウィンドウを開いたままだった。
彼を目覚めさせる大切な日課がもう一つあった。それはメールのチェックだった。
メールには学会や大学からの事務連絡、仕事仲間からの連絡、迷惑メールがあった。その全てに目を通すことが彼の朝のルーティンだった。
迷惑メールは様々な言語で綴られており、脳の言語タスクを切り替えながら読む必要があった。文面自体も可笑しいことがある。彼にとって迷惑メールは大切な朝を演出する役の一つだった。
タバコに火をつけ、深呼吸するように吸って吐いた。コーヒーカップをクイっと傾け一口分含み、ゴクッと音を鳴らせ飲み込んだ。
「あぁ、そういやこれ、今日までか…」
彼は。机の上でネズミをコロコロと遊ばせながら呟いた。
迷惑メールを見るのはいつも朝のルーティンの最後だった。迷惑フォルダにはいくつかのメールが溜まっていた。どれも意味のないメールばかりだ。だが、彼にとって無責任に読めるメールは、もはや一つの娯楽と化していた。
ゆっくりと本を読むような感覚で読み続け、迷惑メールの最後の一通を開いた。すると、そこには一見不規則でランダムな数字がびっしりと書き込まれていた。
彼は少し見入った。仕事柄、数字を見るとつい見入ってしまう癖がついていたのだ。
「はは、このメールを送ってきた人間は、僕のことを知ってるんじゃないか?」
彼は誰に見せるでもなく微笑んだ。
その後、世界で起きているニュースを流し読みする。様々な分野のニュースがPCの画面に映し出された。
「宇宙の神秘ねぇ」
目ぼしいニュースは、夏が間近なことを知らせるものだけだった。彼は夏が苦手だったのだ。
最後にカレンダーを開く。今日の予定を見終わる頃には、すでに彼の脳は完全な仕事モードになっていた。
「今日は一限目から講義か。この曜日は朝急かされるから嫌いだよ…。」
カップに少しだけ残ったコーヒーを一気に飲み干した後、いくつかの本を手に持ち彼はそそくさと部屋を出ていった。
次の日、いつもと同じようにメールを確認した。
大切なメールを確認し終え、娯楽に勤しもうと迷惑フォルダを開いた。
「ん?今度は違う配列だ」
昨日とは違う数字配列が書かれたメールがまた届いていた。差出人はよく分からないアドレスだった。
「アドレスに使用できない文字も入ってるけど、これ使えるのか?」
彼は椅子に全体重を預けて、天井に向かって吸った煙を吐いた。体制はそのままで少しの間考えた。
部屋にはシンとした空気が張り詰めた。真夜中のような静寂が一瞬部屋を包み込んだ。
「先生!」
突然、静寂をいとも簡単に破る声が響いた。彼は驚き、椅子を軋ませた。
「先生、いるんでしょ。約束してた論文見てくれましたか?」
「あ…、どうぞ」
部屋の扉が開き、女性が入ってきた。
「先生、寝癖ついてますよ。ちゃんとしなきゃ生徒達に示し付きませんよ」
「はは。講義がない日はどうもね…」
目の前には、大きな目を携えた小顔で背の低い可愛らしい女性がいた。少しでも大人の女性を装おうとしているのか、長い前髪をかき上げている。
「クラウドに置いてるので、見といてください」
そう言いながら、彼女はコーヒー豆を取り出し挽き始めた。コーヒー豆を蒸らしている間、彼女は部屋の窓を全て開け放った。
「湿度がすごいね…」
彼は少し嫌そうに窓の開いた外を眺めた。空は曇り湿気を含んだ温い風が部屋に吹き込んできた。
「夜は晴れるみたいですよ」
コーヒーを淹れ終えた彼女は、椅子に座りスマホをいじり始めた。覗き込んでみるとそこには動画が流れていた。
「あー、そういえば今日あれなんですよね」
「あれって?」
「あれですよ。あれ。えーっと、とにかくあれ!」
「わからないよ…」
「そう、午後から博物館見学」
「なんの?」
「よく分からないですけど死体とか展示しているみたいですよ」
「いい趣味してるね」
彼は皮肉を込めて、苦笑いしながら言った。
「その教授の趣味よ。有名なんです。まぁ単位のためなら仕方ないですよね」
彼女はそう言いながらコーヒーを飲み終えて立ち上がった。
「さて、人を待たせてるんでそろそろ行きますね」
「えぇ、人を待たせてたのにコーヒー飲んでたのかい」
「ええ、そうですよ?」
彼女は、彼の言っている言葉の意味が本当に分かっていないように首を傾げた。
「では」
彼は常に様々な謎を抱えていた。彼女の存在はその多くの謎の一つとして彼の脳内の一部分を常に占領していた。
「やっぱり不思議な子だなぁ」
そう呟きながら窓の下を見ると、小走りの彼女が見えた。
朝。
彼は眠たそうにコーヒーを淹れていた。床にはミルに入れそびれた豆が散らばっていた。
豆をパキパキと踏みながら、椅子に腰掛けてメールソフトを見た。その瞬間、違和感が訪れた。
迷惑フォルダの未読アイコンを見ると、いつもより多めの数字が表示されていた。彼は先に迷惑フォルダを開けた。そこには、数字の配列が書かれたメールが何通も届いていたのだった。差出人はやはり不明だった。
彼は気になり、例のメールを最初から順にじっくり読もうと考えた。
「おっと…」
何かを忘れていたように立ち上がり、部屋の扉に外出中の看板を掲げ鍵を閉め耳栓をつけた。集中したい時、彼はいつもこうした。
メールを順に見ていく。一見不規則に見える数字の羅列は、やはり何を表しているのか分からなかった。
何か規則性はないか、よくある数字の並びは何か、文字数ごとに何か変化は起きていないか、凡ゆる可能性を考察した。もう既に仕事のことは頭になく、彼はただひたすらにメールを見続けた。
大半の数字を見終えた後、ふと視界に違和感を感じた。目線をモニタの上にずらすと、部屋の中が真っ暗になっていることに気付いた。パソコン内臓の時計に目をやると、既に午後十時を過ぎようとしていた。
「もう、こんな時間か…」
彼は立ち上がり、部屋を出た。すると扉に何かが当たる音がした。目を下にやると紙袋が置いてあった。
「ん?」
中を見ると、その中にはゾンビを模した食欲の失せそうなクッキーが入っていた。
彼はクスッと微笑みながら、袋を部屋にそっと置き、夜の学内をゾンビのように彷徨い始めた。
研究で行き詰まった時、いつも行く場所があった。そこは広い学内の隅っこにある、竹や木が密集している空間だった。
誰もいないことを確認しタバコに火をつけて、空を見た。竹の隙間から覗いている月と目があった。細い三日月だった。
ぼーっと夜空を見ていると、脳内をグルグルと回っていた数字達がふとどこかに消えて、代わりにゾンビのクッキーが現れた。こんな月夜にあんなゾンビが現れたら怖いだろうな。ふと考えて鼻からふっと息が出た。
その時だった。脳内が軽く衝撃を受けたように何かが迸った。それは正体のわからない、微かな閃きだった。
彼は目を閉じ、脳内でその正体を追った。とても小さいものだ。見落とさないようにゆっくりと探した。そして、その閃きは突如として大きくなった。
彼は目を開け、研究棟へ走った。閃きはいつも脳のリラックスがもたらす。彼はつくづく思わされた。
「全く、あのクッキーに感謝することになるなんてね」
自分の研究室へ入り、紙に殴り書きで数字を羅列し、その紙を無意識に丸めてポケットに入れた。
部屋を勢いよく出た彼は、趣味が天体観察の教授の部屋へと向かった。彼がいることは、外から帰ってくる前に彼の部屋の明かりがついていたことで確認済みだった。
「先生、私です。お願いがありまして」
「お、こんな時間まで仕事熱心ですな」
鼻下に白い髭を蓄えた細身の紳士が、開けた扉からヒョイと顔を覗かせた。
「天体望遠鏡を貸して頂きたいのです」
「あぁ、いいですよ。実は私も今日見ようかと思って…。快晴ですからな」
「ありがとうございます」
屋上へ着いた彼は望遠鏡をある一定の角度で覗いた。
「何か見たい星が?」
「恐らく生命の存在する星です。私の元に通信が届いて」
「なんと」
彼はスマホでメールを見せようとアプリを開いた。すると、迷惑フォルダに一件の未読通知が届いた。見ると、やはりランダムな数字が並んでいた。しかし、法則を見つけた彼には解読は容易かった。
「まさか」
その時、見上げた夜空から一つの星の灯火が消えた。
彼は部屋へと戻り、椅子にドスンと腰掛けた。その衝撃でポケットからクシャクシャの紙が押し出されるように落ちた。彼は気にせず、ゾンビのクッキーを一枚手に取り口にした。
「星が前触れなく忽然と消える現象は、今に始まったことではないのですよ」
紳士の言葉が頭を輪廻する。
「光を越える力を手にして、なお抗えない何かが宇宙にはあるのか」
戦いの火蓋は既にきって落とされた。宇宙のチェーンメールを受け取った星の滅亡へのカウントダウンは、既に始まっていた。
あの星の爆発は、光の速度で地球へとその死を告げた。
その速度より早く地球に届いた通信は、一体どれだけの速さだったのだろうか。
彼は深い思考へと陥る前に、首を振った。
「今夜は、もう帰ろう…」
彼は家に帰ろうと部屋を出た。真っ暗な廊下はゾンビの出現を彷彿とさせる。彼はまた鼻で笑った。今は、あの無邪気な笑顔に癒されたいと思った。
階段を一階降りると、明かりのない廊下の先から何かの音が聞こえた。まさかゾンビだろうか。彼の体は好奇心に連れられて無意識のうちに音の鳴る方へと向かっていた。
音の鳴っていた部屋の前に立ち止まる。何か嫌な予感がする。彼の第六感が警告を出し始めた。
彼は、少し開いた扉の隙間からそっと部屋を覗いた。
「…え?」
そこには、生きている時と何ら変わらない綺麗な姿で、透明な液に漬けられている彼女の姿があった。
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