靄のかかる空間で

 悪魔が嘲笑っているような鋭い三日月が、闇を仄かに照らしている。その笑い声はやがて風となり、地上を強く吹き荒らす。夜の静寂は全ての生命を浅い眠りの迷路へ誘う。

 もう大丈夫さ。一時はどうなることかと思ったけれど。

 現実と夢の狭間で声が響き、遠く向こうのほうから夢が押し寄せてくる。

 あ、ダメ。離して…。

 夢想の津波が足を掴んで離さない。私は必死で足を振り解くが、その力は強く、引き摺るように私を連れ去ろうとする。

 抗う術も無く、私は波に身を任した。
 まぁいっか、私は微笑む。

 その時、波が掴んでいた足を離し、さぁっと引いて行く。

 また明日…。

 誰かが確かにそう言った。

 刹那、黒く暗い現実が私を飲み込んだ。


 爆音が私の今日と言う一日の幕を開けた。

 浅い眠りを漂っていた私は、幕開けと同時に目を見開く。鼓動が早くなる。

 「ねぇ、今の音って…」

 ここにいる誰しもが何かを予感した。

 「おい、起きろ!爆撃だ!奴らが来たんだ!」

 皆を包んでいた布団が一気に羽ばたく。そのすぐ後、さっきよりさらに大きな音が鼓膜を激しく揺さぶった。

 建物は地響きと共に小刻みに揺れている。

 「ねぇ、まだ警報は…」

 「とにかく逃げろ、逃げるんだ!」

 三回目の爆音が聞こえた。

 「外に出ろ!それぞれ近くの壕に逃げ込むんだ。とにかく…、皆無事でいられることを祈る…」

 一人の男がそう言いながら、押すようにして、ここにいる人間を散開させた。

 後ろから悪魔の足音が近づいている。

 「ねぇ、萌。一緒に逃げよう」

 親友の雫が目を潤ませながら私の袖を引っ張ってきた。

 「うん、早く逃げるよ」

 今まで苦楽を共にしてきた仲間が、また散り散りになって行く。一体、いつまでこの地獄は続くのだろうか。私は終わりの無い絶望に心底うんざりしていた。

 「私達、死ぬのかな」

 「分からない。けど、とにかく今は逃げよう」

 多くの人が不恰好に、我先にと走っている。空は黒と赤が混じり合い唐紅に染まっている。

 私達はとにかく走り続けた。少しでも悪魔から遠ざかるように、息をするのも忘れて走り続けた。

 「ほら、あそこ!」

 小高い丘の側面に、爆撃から逃れるための壕が掘られてあるのが見えた。

 私達は滑り込むように壕の中に入った。闇に支配された空間で、多くの人の荒い息遣いや泣き声が聞こえた。

 「もう、これ以上入れねぇ!」

 入口で怒号が聞こえる。既に多くの人で埋め尽くされた壕には、もう誰一人入る余地は無かった。

 「運が良かったね…」

 雫が小さく泣きそうな声で呟いた。

 「うん…」

 私は雫の手を強く握り、爆音が止むのを待った。

 爆音は、引いて返す波のように方々で鳴り続き、私達を恐怖のどん底へと陥れた。

 大きな音の中に、たまに何かが軽く跳ねる音が混じっていた。その音と同時に外から聞こえる悲鳴や叫び声が増幅しているように感じた。

 「早く終わると良いね」

 ふと背後から声が聞こえた。雫とは違う、聞き覚えのない優しい声だ。

 「そう…ですね」

 「あら、ごめんなさい。ついお腹の子に話しかけちゃった」

 「あ」

 私は少し頬を赤らめながら、続けた。

 「お腹に赤ちゃん…。大変ですね」

 「ふふ、そうね…。でも、この子がいるおかげで生きなきゃって思うの。死んでたまるかってね」

 「死んでたまるか…か」

 反芻した声が脳内で反響する。

 私は闇の中で切に祈った。平和な世界の訪れを。

1945年3月10日はこうして幕を開けた。




 「あれ、ここは?」

 私は、気がついたら白い靄のかかった空間に立っていた。

 何も分からないけれど、何となく、目の前の階段は登らなければならない。そんな気がして一歩を踏み出した。踏み出す足音だけが、妙にこの靄のかかる不思議な空間に響き渡った。

 「そっちはダメよ」

 突然、背後から優しい声が聞こえた。パッと振り向くと、髪の長い、女性と思われる人がいた。顔はよく見えない。

 「私、あっちに行かなきゃいけない気がするの」

 「あっちは、ダメよ」

 その人は私の手を取り、そのまま階段を下り始めた。

 「いいの…かな」

 そう思いながら、私は優しい何かに包まれるような心地よい感覚を覚えた。

 「ねぇ、あなた何歳?」

 「28です」

 「そう。私と同い年なのね」

 階段を降りる音が空間に響き渡る。

 「間に合ってよかったわ、ほら、もう着くわよ」

 女性はこちらには一切顔を見せず、ずっと前を見続けていた。

 階段は最後の一段となった。随分歩いたような、そうでも無いような不思議な感覚が私を襲った。

 「さぁ、あなたは扉の向こうへ行くのよ」

 「あ、はい。あの、あなたは…?」

 「私はいいの。…。ねぇ、顔をよく見せてくれないかしら」

 「あ、はい…」

 よく分からないまま無防備に立っていると、女性は私の両頬にそっと触れた。その手の温もりは、遠い昔何処かで与えられていたような気がした。

 「じゃあね」

 空間に張り巡らされていた靄が晴れていく。
 天から差す光が全てを暴くようにその人を照らした。

 「え?」

 そこには、もう一人の私がいた。

 



 「お邪魔します」

 室内に古い木の香りが漂う。柔らかな温かみを含むその香りは、常に付き纏う不安や恐怖を少し和らげた。

 「遠慮しないでね、今お茶淹れるから」

 「そんな、花さんは座っていてください。私がやるので」

 「いいのよ。誰かをおもてなしするなんてことずっと無かったから…。私がしたいのよ」

 平家建てのその家は、決して広いとは言えなかったが、この狭さが今は心地よかった。

 「本当、災難だったわねあの日は…、雫ちゃんは元気?」

 「はい」

 あの日。私達はじっと闇の中に潜み続けた。

 悪魔の笑い声は、やがて大火を猛火へと変え、街の全てを焼き尽くした。

 この家がある西の方は爆撃の被害に合わなかったようで、今こうして私を温かく包み込んでくれている。

 「あなたも災難ね、萌ちゃん。つい最近こっちに出稼ぎにきて、こんな目に遭うなんて」

 「いや、花さんとそのお腹の子に比べたら…」

 「とにかく、家も無事だし、私もあなたもこの子も無事だから良しとしましょうね。生きてさえいれば、また明日は来るから…」

 お茶の香りが居間に漂う。おぼんに乗せられた急須から湯気がゆらゆらと、行く当ても無く出て行く。

 「ごめんね、お茶しかなくて」

 「とんでもないです、ありがとうございます」

 ふと、タンスの上を見ると、ある写真が視界に入った。

 そこには袴姿と振袖姿の男女が仲睦まじく写っている。モノクロ写真のはずのそれは、何故かとても鮮やかに視界を彩った。

 「これって」

 「私と旦那よ。この地獄が始まってすぐの頃だったかな。いつ死ぬか分からないからって、そんなプロポーズあるかしら。ふふ。あの人写真が好きで、ほら、そこのアルミ箱の中に」

 「あ、ほんと」

 「萌ちゃんはまだ…よね?」

 「まだですまだです。全然もー相手も出来なくて」

 「萌ちゃん、可愛いからすぐできるわ。私が男だったらほっとかないもん」

 微笑む彼女の顔が一瞬少女のようになる。

 「ねぇ、この子が生まれたら会いに来てくれる?」

 「もちろんです!」

 「ふふ、ありがとう…」

 地獄に生まれ堕ちる天使はどんな人生を歩むのだろう。願わくばその道が平和でありますように。私はそう強く願った。

 




 木枯らしが木々を大きく揺らす。風は金木犀の甘い香りを病室に運んできた。

 「あなたが交通事故に遭った日は…」

 「そうだね」

 末期の認知症を患った母だが、この話だけはいつまでも覚えている。

 「本当に助かってよかったわ」

 そう言いながら、母は窓の外を遠い目で見つめる。

 「そろそろ…」

 看護師が扉の向こうで言う。

 「あ、すみません」

 面会終了の時間が訪れる。この時、いつもこれが最期にならないようにと祈る。

 廊下に出て出口に向かおうとした時、ふと隣の騒がしい病室が目に入る。

 痩せ細ったお爺さんが何か言いながら、腕に繋がれた管を引き抜いているのが見えた。家族は皆、泣くことを忘れて驚いている。

 その光景は、人の数だけ物語があることを私に教えてくれた。そしてそれは、きっと何処かで繋がってることも。

 窓の外を見ると、色づき始めた葉が一枚散った。それはまるで何かの終わりを告げるかのようだった。

 






 

 遠くから赤子の泣き声が聞こえる。全ての音を遮るように、激しい耳鳴りが鳴り続けている。

 ねぇ、神様、もう悪夢は見飽きたよ。私は心の中で呟く。始まりも終わりもいつも思いもよらない形で目の前に訪れる。そう、今日だって…。

 「花さん!」

 土気色の顔をした女性は目を閉じたまま答えない。

 「花さんは…」

 赤子を腕に抱いた老婆は軽く首を横に振る。

 「あぁ、そんな…」

 鉄の雨や火の噴水が容易く人の命を散らせていくこの時代で、その地獄を掻い潜り生き抜いた強く優しいその人は、銃声も悲鳴も聞こえない静寂な畳張りの居間の一角で、新たな命の誕生と同時に死出の旅路についた。

 力なく横たわるその手を握ると、まだ微かに体温を感じられた。

 老婆に抱かれた赤子が大声で泣いている。まるで母を心配させまいと、生きていることを必死で伝えるかのように。

 私は決心して、その手を強く握る。その時、確かにぎゅっと私の手を握り返す力強さを感じた。

 







 「お母さん」

 鼓動と連動した電子音が室内に響き渡る。

 母の手を強く握る。私はここに居ると知らせるために。

 その時、母は弱々しく目を見開き、手を強く握り返しながら私を見つめた。必死で何かを伝えるように。

 「お母さん、私は大丈夫だからね。今まで本当にありがとう」

 その瞬間、母は少し微笑むように吐息を吐き、その目を虚にさせた。

 また一つ物語が幕を閉じた。










  母の葬儀が終わり、私は母の遺品を整理していた。

 きっとここに何かあるだろう。そう思いながら、母がいつも大切なものを保管していたアルミの箱を空けた。

 案の定、そこには遺書と書かれた封筒があり、中に何枚かの紙が入っていた。

 紙には必要な情報が几帳面に全て書かれていた。

 「お母さんらしいな」

 そう呟き、最後の一枚を捲った。

 「ん?最後に、あなたに伝えなければならないことがあります?」

 私はそこに書かれた文字を口にし、先を読んだ。

 「え?」

 そこには綺麗な字でこう書かれてあった。

 【それは、あなたの本当の母親は私ではないと言うこと。今まで隠していて本当にごめんなさい。どうしても言い出せなかった。あなたの産みの親の名は花さんと言います。あなたの命と引き換えに28歳という若さで彼女は旅立ちました。花さんは全てを包み込むような優しさを持った人でした。美しく、明るく、ユーモアもあって初めて出会った日から彼女に惹かれたのを覚えています。あなたは本当に花さんに似ているわ。持ち前の明るさでいつも私を助けてくれました。本当にありがとう。華子の親になれて本当に幸せでした】

 私は嗚咽した。震える手は溢れる涙を拭いきれず、やがて文字のインクを滲ませ始めた。

 「わたっしも、幸せっ、うぐ、でしった、ありが、とうあぁぁ…」

 堪えきれず三歳児のように泣き喚く。この涙が整理のつかない今の私には必要だった。

 ふと、重く腫れた目で、手から落ちた手紙を見る。

 「ん?」

  手紙の後ろに小さな紙があるのに気付く。

 腕を伸ばし、それを手に取る。

 そこにはモノクロ写真のはずなのに、とても鮮やかに視界を彩る幸せそうな男女の姿があった。

 「なんだ、出会ったことあったのね、お母さん」

 あの日、白い靄のかかる空間で。

 


 

 

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