「すすむ屋茶店」ができるまで。
こんにちは。すすむ屋茶店の新原です。
いつもありがとうございます。今日は僕が運営している「すすむ屋茶店」の誕生の歴史、ストーリーを少しだけご紹介させていただこうかと思います。
実をいいますと、2020年の11月11日をもちまして鹿児島本店が誕生して丸8年の月日がたちました。
のらりくらりと続けてきた、この大切なお店も8年。あっという間ですね。最近では、お店のことや、僕たちのことを知ってくださる方も増えてきて本当に嬉しい限りです。ありがとうございます。
正直いうと僕の中ではまだまだやれるあぁ。という思いのほうが強く、節目というよりは通過点という認識でいるのが正直な気持ちで、これからの僕たちの展開を今までよりも楽しみにしていてほしいのですが、8年というタイミングも何かを残すには良いタイミングかなと思いnoteを書くことにしました。今回は、すすむ屋茶店が誕生したときの話をさせていただこうかと思います。
いつも、すすむ屋茶店をご利用くださるファンの皆さんや、たくさんのお客様、日本茶に興味がある人、ない人も。全ての人に読んでいただけたら幸いです。またすすむ屋茶店のクルーをはじめ、これから一緒に働いてくれるであろう未来のすすむ屋クルーにも読んでもらえたら嬉しいです。よろしくお願い致します。
※2012年オープン前、商品も入っていないすすむ屋茶店。まだ暖簾もジャパニィズティーの文字もなかった。
始まりはバレンタインデーの日から
僕は、鹿児島で代々日本茶卸売業を営む家の長男として生まれました。がっつり日本茶の家系ですね(笑)。でも日本茶に全く興味がありませんでした。自宅にお茶はあったものの毎日飲んでるわけでもありませんでした。
でもやっぱり普通の家よりは飲んでいたのかな。急須はありましたから。その程度です。父にも日本茶の会社を継いでほしいと言われたことはなかったと思います。祖父は言ってたかな?祖父には言われていたかもしれません。子供の頃の記憶ですからはっきり覚えていないですね。
学生時代の友人たちは知っていますが、特に勉強ができるわけでもなく、特段運動ができるわけでもないのに、根拠のない自信と負けん気だけがあったしょうもない人間でした(笑)。しかも、なぜかかっこつけていたんですね(笑)。今書きながらも笑っちゃうような人間でしたね。まぁ今も成長してないか。
※お店をはじめて3年目くらいの僕とカミさん。このころは、よく二人でお店に立つことも。
大学も「都会に行きたい」という理由だけで東京か福岡の大学に行きたかったんです。結果福岡の大学に進んでアルバイトと遊びに明け暮れてましたね。就職もアルバイト先のセレクトショップのユナイテッドアローズで拾ってもらうことになりました。
ユナイテッドアローズは見かけによらず?体育会系な会社で、すごく楽しかったですね。常にお客様満足の向上を意識していて、僕自身もお客様に喜んでいただくことが、こんなに嬉しいものかと学ぶことができました。確実に今の僕の基礎になったと思っています。
僕は、そんなユナイテッドアローズで商品部に所属したかったんです。商品部とは、商品を企画したり買い付けする重要な部署。会社の中核だと思っていて、実際にそうでした。だからいきたかった。会社の中核として役に立ちたかったんです。商品部はシーズンごとに商品構成を決めていく。流行を自分たちでつくっていくという気概のある人ばかりが集まっていたと思います。
僕は、男に好かれるタイプなのかすぐ皆さんと仲良くさせていただきました。その中の一人、森さんがニューヨークに買い付けに行くとの話。僕は同じ日程でニューヨーク行きのチケットを自腹で購入。森さん連れてって。と申し伝えたら「よし。」と言ってくれたんです。ちゃんと未来を見るならね。って。
僕は、当然「ハイ!」といって約束を取り付けたんです。(笑)。
そんな僕に、衝撃が。
丁度、チョコを食べていたのかな。バレンタインデーの2月14日に実家から電話が鳴ったんです。父が、くも膜下出血で倒れたと。
僕は、父方の祖母も母方の祖母も、くも膜下出血で亡くしたので、もう父は死んだもんだと思って。急遽鹿児島に戻ったんですね。
ニューヨークで見た景色
そう。結局僕は父親の意識が戻らないうちに、ニューヨークに行くことにしたんです。というか行かせてもらったんです。これが最後になるかもしれない。と森さんに伝えたら、「そんなことは知らない。」と言ってくれたのが大きかったんですね。買い付けは僕の夢でもあったし、その時点ではユナイテッドアローズに貢献したいという思いがまだ強かったんです。とても好きな会社でしたから。
ニューヨークでは本当に様々な世界を見ることができました。国内のセレクトショップに洋服が並ぶまでの一部始終を見ることもできましたし、ニューヨークコレクションにでるデザイナーに直接あって、挨拶して、ハグして、モノづくりについて話すことができました。現地でアテンドをしてくれたディストロビューターのまさこさんも素敵でした。
僕がニューヨークで感じたこと。本当にかっこいいと思う人たちが、かっこ悪いんですよね。普通で。(笑)。全然格好をつけていないんです。自然なんです。それがとてもよかった。自分はどこの国からきて、どういった人種で、どういった家族で。という自分の生い立ちや背景を自然に話す。そして大きく見せようとせずに、自分自信を受け入れようとしているし、他人を尊重して受け入れているんです。その場にいたトップデザイナーもユニクロいいよね。みたいなことを言い出すんです。自分の販売している洋服10分の1くらいの価格で売っているユニクロをですよ。(笑)ちょうどソーホーにユニクロができた後ぐらいですから、12.13年も前のことです。その感じが自然だと思ったんですね。何も知らない20代前半の僕には衝撃でした。
僕には、ニューヨークでもう一つ忘れられない景色があってそれが朝なんです。だいたいこういった団体での行動は9時ごろロビーに集合でしょ。僕は時差ぼけで毎日5時には起きていましたので、集合までの時間を使って毎日3時間くらいマンハッタンの街を歩いたんです。昨日は北に、今日は南に。という具合にですね。冬のニューヨークですからまだ暗かったと思うんですけど明るくなると同時に人々が街に出てくる。その人たちが創り出す風景がなんかよかった。その人たちも同じく皆自然なんですね。ニューヨークヤンキースの帽子をかぶっていたり、スーツにランニングシューズ。すごくよかったんです。
そして通勤前だと思うんですけど、コーヒーショップで沢山の人たちが朝のチャージをしてるんですね。その景色が本当によかった。僕は羨ましく思ったんです。皆、幸せそうに見えたんです。こういった喫茶文化をもっているニューヨークアメリカの人たちのことが。僕たちにはこんな時間があるんだろうか。と。
その景色を毎朝見るたびに、僕たちの、日本の喫茶文化って何だろう。考え始めるんですね。ニューヨークにきて洋服でも日本の洋服づくりについて考えていましたし、なんか日本のことを考えていましたね。(笑)。
そして、日本に帰って新しい日本の喫茶文化を作りたいなぁ。と思いはじめるんです。僕たちらしい日本の。日常に根差した喫茶文化を。
甘くなかった日本茶の世界
もう僕は帰りの飛行機の中では決めていたと思います。「日本の新しい喫茶文化をつくろう。日常に根差した喫茶文化ができれば必ず皆豊かになる。」と。その時に天命だと勝手に思ったんですね。父が倒れたことも、日本茶の会社を継がなければならないことも。日本には、そして故郷の鹿児島には日本のお茶があることも。(森さんごめんなさい。(笑)。)
それに、ニューヨークでは、おかれた環境を楽しんでそこで咲く自然な人たちに惹かれていたんです。だから生まれた環境、つまり日本茶の製茶問屋の息子として生まれたのであれば、その環境を楽しんで、それを堂々と販売していけばいいと思ったんです。そのほうがかっこいいかなと。(笑)。
しかしね。当たり前ですがね。
日本茶の世界はそう甘くはなかったんです。当然ですよね。しかも会社で仕入れをしないといけないのは僕一人。農家さんとも交渉しなければいけません(笑)。まぁ皆さんの想像通りです。そうです。買えないんです。お茶が。売れないんです。お茶が。そして、すべてのお茶が同じに見えるんですね。皆さんも築地にいってマグロ見ても分からないでしょ。たぶんその状態ですね。みな同じマグロなのに値段が違うんです。お茶もそれと同じなんですね。
もうね。どうしようもなかったんです。だって分からないんですから。
そこで、僕がとった行動。誰よりもはやく市場にいって誰よりもお茶を飲んだんです。そして迷ったお茶は思い切って買ってみたんです。体育会系のノリです。あとはどうにでもなれ!という気持ちで飲んで美味しいお茶をピシャリと買いまくっていきました。飲みまくって買いまくる。多分当時、僕、日本で一番お茶を飲んでいたんじゃないかな。そのくらい飲みました。そしてお茶を触って審査してまた飲んでやりました。(笑)。
僕の入札スタイルは当時から誰よりも「あて見本」をもつスタイル。つまりサンプルを沢山準備するんです。昔ながらの人は、結構これを馬鹿にする人がいるんですけどね。僕は人間の感覚だけではだめだ。人は必ずミスをするから。というタイプなんです。誰よりも見本をもって。誰よりも飲む。お茶に対して傲慢にならないよう謙虚にね。
まぁそれにしても、一度の取引で数千万円にもなる新茶時期の茶市場ですから頭おかしくなってたかもしれませんね。いやおかしくなっていたと思います。しばらく前までは1万円の洋服を買うのに慎重になっていたくらいですから。(笑)。
※農家さんから買うお茶は1つ30kg。最初はこの量に戸惑いました。だってお茶って100gで売るもんですよ。
当時はだいぶ損切りもしました。お茶って相場モノですから。勉強代って高いですよねー
※今になってこの経験が本当によかった。各社50歳以上のかたがメインの茶市場で20代でお茶の仕入れを最前線で経験できたこと。たぶんお茶に触れて実際に仕入れをしていた量は日本一だと思う。本当によかった。すすむ屋のお茶の基礎となりました。
やれるかも
やっぱりね。やればそれだけかえってくるもんです。少しづつ僕からお茶を買いたいという人が出てきてくれたんですね。当時は小売販売はおこなってないので、日本茶の玄人たちにそういった人たちがでてきてくれたんです。嬉しい限りです。と同時にそのころになると今まで同じように見えていたお茶が全く違う表情をしていることに気づくんですね。
焙煎の後に美味しくなるお茶や、見かけだけ良くてダメになるお茶等々。いわゆる仕上げ映え、出世するお茶も分かるようになってきました。
そして品種のお茶の魅力を感じたのもこの頃なんですね。当時の鹿児島は品種のお茶の人気が今一つだったんです。ゆたかみどりというコクのある品種くらいかな。さえみどりも人気が出始めでしたかね。
僕は自分のスタイルを重視して、飲んで美味しい。心のそこからお勧めできる茶葉を集めました。そうすることで噂が噂を。お客様がお客様を呼んできてくれました。
僕自身も、ようやくお茶を一般のお客様に。という思いが芽生え、いよいよお店作りがスタートするのです。
石蔵にて。ライムライトにて。
僕が鹿児島に帰ってきて直ぐの頃に、鹿児島市の湾岸沿いの住吉町にすごく素敵なお店を見つけたんです。お店の名前は「DWELL」。石蔵をリノベーションしたお店でした。僕は全国の色々な洋服店をみてきたつもりだったので鹿児島にかっこいいお店なんてないのかな。とも思っていたのですが「DWELL」は本当にかっこよかった。しかもダントツにかっこいいと思ったんです。しかも鹿児島のクラフトマン達の作品ばかり販売してるんです。木工のそーいさん。秋廣兄弟。革小物の飯伏さん。磁器の城戸さん。他にも地元の方ばかり。更には、2階が事務所になっていてそこを間借りするような形で、後にすすむ屋のロゴをデザインしてくれたjuddさんや大迫さんがいました。
もう一度言いますが本当にDWELLはかっこよかったんですね。僕がニューヨークで感じたローカルのかっこよさみたいなことを、誰よりもどこよりもはやく発信していたと思います。当然僕は通うことになり、たくさんの人たちと出会うことができました。
お茶のお店をつくるなら「DWELL」に相談したいと思っていたので、お店の店員さん。皆に「委員長」と呼ばれているかたに相談したんですね。「日本茶のお店をつくりたい。」と。委員長さんは「いい人紹介するよ。」と言ってくれました。その紹介してくれた人が後にお店を一緒に作ってくれた人、ランドスケーププロダクツの中原慎一郎さんです。
中原さんには鹿児島のコーヒー店ライムライトで初めて会いました。「僕が新しい日本の喫茶文化をつくりたい。」と話したら、乗り気になってくれて「早速やりましょう。」と言ってくれました。多分暑苦しいプレゼンだったと思うんですがね、日本茶を素晴らしいものにしたい。と伝えました。ちょうど中原さんも海外の案件が増えているタイミングで日本を見直すいいきっかけになるから。とも言ってくれました。
※現在のすすむ屋茶店 鹿児島本店の図面
このライムライトでも忘れられないエピソードが。
話がトントンすすんでいつから始めますか?予算は?という話になった時に、僕は予算は500万です。といったんですね。でも本心は300万だった。本当にお金なかったんですね。(笑)。そして生意気にも日本の喫茶文化を新たに作るくらいなので東京に出してもいい。みたいな話をしたんです。
今考えれば馬鹿になれるってすごいですよね。中原さんも吐き気がしたんじゃないですかね。(笑)。500万じゃ今、小屋くらいですかね。当時の僕はどうだ。みたいな感じだったので中原さんにはご迷惑をかけたかもしれません。(笑)。
※物置と化していたお店を改修。改修費もかかりました。
結局、日本政策金融公庫に600万借りることができ、合計1100万でお店をつくることができました。銀行にもプレゼンというか半分以上は脅迫でしたね。(笑)。
あと、最後に。委員長さんが「DWELL」のお店の方ではなくて僕らと同じ、一般のお客様側だと知ったのは、しばらく後のことでした。本当にビックリしましたよ。(笑)。
※今現在「DWELL」は閉店。「goodneighbors」と店名を変え。同じ場所で営業しています。
お店がスタート
まぁ。何とかお金も集まり、商品も揃いお店がオープンしたんですね。お店が出来上がった時の感動は今でもはっきりと覚えています。openの日は、忘れられないですね。身震いするっていうのかな。震えていましたよ。その日はずっとね。中原さんもオープン前に来てくれて今までの内装したお店の中でもトップクラスに本当に良いお店になった。と言ってくれました。元々は祖父がつくった日本茶店をリノベーションしたんですが当時の床や壁が本当の良かったんです。祖父が石が好きだったようで今の時代じゃどこを探しても見つからないような石を壁に使っていたので軽く仕上げるだけで本当に良いお店になったんです。ありがたいことです。
※はじめた頃の僕達。
お店は、最初の1か月、とても順調でした。沢山の友人知人が駆けつけてくれたんです。本当に嬉しかった。
でも、友人知人の来店が落ち着く2か月目3か月目。急にお客様がこなくなるんですね(笑)。今になって考えると、「そりゃそうだろ。」と思うんですけど。当時はそんなことは分からないし余裕がなかった。元々お金もなかったんで人通りの少ない場所。知名度もない。商売の厳しさを知りました。お店を開ければ開けるほど赤字ってやつです。しかも借金して始めたお店でしょ。きつかったですね。もうすでに父の事業も引き継いでいたのでそっちでもバタバタ。入札のあとに仕分けを終えてお店に駆けつけてまた、工場に戻るみたいなことをずっとしていましたね。すぐに、自分の能力の低さに気づきました。学生時代に勉強しておけばと心の底から思いましたよ。(笑)。
でも耐えて、耐えて笑顔をつくって、お客様一人ひとりに美味しいから買ったほうがいいです。買わないと損します。とお勧めした。というか耐えるしかできなかったんですけどね。能力がないから。
ご来店していただいたお客様には、こんなへんぴな場所にわざわざお茶を買いに来てくれるなんて本当にありがとうございます。って心の底から思いました。だからそれを必ず伝えました。お店を出られるお客様に「ありがとうございます。またお待ちしております。」って。
でもこれは決して大げさな話ではないと思うんです。お客様がわざわざお店に来てくれて、お茶を買ってくれて更に「ありがとう。」と声をかけてくれて帰っていかれるんですよ。世の中には他にたくさんお店があるなかで私達のお店を。お茶を選んでくれた。やっぱりこれは奇跡なんです。
当時は限りなくゼロに近い売り上げが続く毎日。でも少しづつ奇跡が奇跡を呼んでくれました。お客様がお客様を。また次のお客様が次のお客様を。という具合にだんだんとお客様が増えてきました。本当にありがたいです。
今でこそ沢山のお客様が来てくれるお店になっていますが、やっぱりそれは奇跡だと思います。今いるお店のクルーにも感じてもらいたいし、僕も絶対忘れたくない。お客様が来てくれるということは奇跡の連続だということ。当たり前ではないんです。だから僕たちの行動次第ではすぐに消えてなくなるものだということも自覚しなきゃいけないんです。だって奇跡ですから。
これからも感謝の気持ちを忘れずに「ありがとう。」という気持ちで。これからもお客様をお迎えしていきましょうね。それを少しづつつみかさねていきましょう。
あーそれにしても、地獄の1年目でしたねー(笑)。
レジ(売上)はお客様の投票箱。この言葉が沁みましたよ。
「すすむ屋茶店」店名の由来
そういえば「すすむ屋茶店」というお店の名前の由来について話してなかったですね。すすむ屋茶店(法人名株式会社すすむ商店)は祖父の影響を受けてつけた名前なんです。
祖父、新原仁次郎は鹿児島の茶業に尽くした人でした。
もともと山川という鹿児島南部の港町に産まれその後、鹿児島市内に。現在の鹿児島中央駅に勤務していたようです。戦後は祖父の父。新原嘉左衛門が営んでいた日本茶店を引き継ぎ事業を拡大させます。鹿児島県茶商業協同組合の理事長を長年務め、現在の茶市場、茶業団地を設立等々。身内の話はこれくらいにして。何を言いたいかというと尊敬しているんですね。祖父を。僕は祖父にとって、長男の長男だったからかとてもかわいがってもらっていました。その祖父が好きだった言葉が「積極前進」。前に進むことが大切。しかも前に進むだけじゃなくて積極的に自分達から動く。という意味だったようです。
※鹿児島の茶業団地に銅像がある。僕の記憶の中ではヤンチャな少年、優しい人というイメージ。
いい言葉ですよね。僕もとても好きなんです。だからお客様満足の為に、前にすすめる、成長し続ける商店でありたいから「すすむ屋茶店」(すすむ商店)なんですね。いいでしょ?
よく、すすむ君??と聞かれれるんですが、自分の名前は最初から付けたくなかったんです。だって日本の喫茶文化のスタンダードを創造する会社ですよ。将来は、確実に全国展開、クルーもすごい数になる。多くの人で運営する会社になるんです。だから個人名はおかしいでしょ。これからも皆で、前に進める。成長できる集団でありたいと思っています。
あと、実はすすむ君とよばれるのも嫌いじゃないので是非。
デザインについて
僕には明確に作りたい景色があったのでそれをデザインに落とし込んでくれるように内装チーム、グラフィックチームに伝えました。最高の日本茶体験が当たり前になるように。高級で一部の人たちが嗜む茶道の世界でもなく、無料のお茶の世界でもなく、生産工程のすべてが見える化された最高に美味しい日本茶を日常的に味わえるようにすること。それが僕らの作りたい景色。僕がニューヨークの朝に見た景色です。
最高の日本茶を大衆のものにする。取り戻す。赤ちゃんからお婆ちゃんまで。美味しい日本茶が味わえる環境をつくる。提供する。今でも変わらない私達の目標をお店で表現するとしたら。お店自体も周りのモノもどんどんシンプルなものになっていきました。
僕たちの経営理念「新しい日本の喫茶文化のスタンダードを創造する。」
大衆に日本茶が受け入れられることその文化こそが、私たちの考える「新しい喫茶文化」であり、それを「日常化」できたとき「スタンダード」になれるんじゃないかなと。デザインはそれを表現するツールだと考えています。
※先日発売したばかりのティーバッグシリーズ。ここでもやりたいことを明確に。
あと、もう一つすすむ屋茶店が考えるデザインには優先順位があるんですね。お茶(商品)と人(クルー)の魅力が十分に。かつ正しく伝わること。これが過度であってもダメ。少なすぎてもダメ。「お茶」は商品パッケージではなく中身の良さを形にしたもの。だから余計な情報は省く。不要。「人」は、働いている場所がステージだということ。お客様からみて、輝けるような作りにしています。すべてのお店でそうなってます。だって歌手だって、芸人だってそうでしょ。みんなステージの上で一番輝いている。だからすすむ屋クルーにもそう思ってもらいたいし、実際にそうだ。皆に今働いている場所はステージなんだって声を大にして伝えたいですね。だからこそステージの作り方、演出にはこだわりたいと思っています。これからもね。
※ステージ(お茶を淹れるところ)を間近で見れるのが嬉しい。少なくとも僕は。
オリジナルの茶道具を。「すすむ屋茶具」
すすむ屋茶具の構想は創業する前からあったんですね。お店のオープン前に茶器を探しても全くいいのが見つからない。自分たちが販売したいと思った急須や湯呑みが全く見つからなかったんですね。ユナイテッドアローズでもスタイルフォーリビングというラインがあってそこで少し生活雑貨を置いていたのですが、形はきれいなんだけどお茶が美味しくはいる理想の道具がなかった。
また、僕たちが提案したい日本茶のスタイルは新しいもの。だから既存のモノでは少し小さすぎだと思ったんですね。あと少し高価かなとも。
お茶の道具はスタイルや楽しみ方そのものだから、それごと、ライフスタイルごと提案しないとだめだなと思っていたんです。だから、私達がつくりたい景色にあったお茶の道具を開発するのは当然の流れでした。デザイナーは誰がいいかなと考えることなく大治将典さんに頼むことに決めていたんです。勝手にね。
※左からデザイナーの大治さん、すすむ急須を作ってくれる梅原タツオさんと奥さん。
すでに大治さんは沢山の生活用品をデザインされているかたでちょうど代表作にFUTAGAMIやJICONがあります。大治さんにお願いしたいな。と思った理由は、いい意味の「フツウ」のプロダクトをつくる方だなと思ったんです。僕がニューヨークで感じた「フツウ」にとても近かった。フツウの中に日本の伝統工芸の美を兼ね備えた大治さんのデザインがすごく好きだったし、僕らの思いや考えを道具をつかって正しく表現できると思ったんです。大治さんとは池袋の、たしか皇琲亭だったと記憶しているのですが、そこの喫茶店ではじめて会いました。大治さんはとても気持ちのいい方ですぐにやることが決定。次は鹿児島で。という約束もそこでしました。僕は決断が速い人が好きなのですが、大治さんもまさにそうでした。中原さんの時と同じく暑苦しいプレゼンをしたと思うのですがながくなるのでここでは割愛。盛り上がったとだけ伝えておきます。(笑)。
まずはケメックスのような急須をつくろう。から始まったすすむ屋茶具プロジェクトもすすむ屋でも最も人気のあるプロジェクトの一つとなりました。常滑の梅原タツオさんと作った「すすむ急須」をはじめ、これまでにないすばらしい茶具が世の中に誕生することになりました。
美しくてお茶が美味しくはいる茶具。最高ですものね。興味がある方は是非。
将来は、茶具だけにとどまらず様々なものを作っていきたい。というか作ります。僕たちの作りたい景色に必要なものを少しづつ提案できればいいですね。
これからのすすむ屋茶店
さぁ、そろそろ長くなってきたんでこれからの話にしますね。
すすむ屋茶店はこれからも積極的にお客様との接点を増やしていけたらな。と考えているんです。どういう形になるかは分かりませんがもっともっとやれるしお客様にこの日本茶の素晴らしさを知ってもらいたいと思っています。具体的にはnoteででも少しづつ書いていけたらいいですね。
※すっかり街の一部となってきた(と思っている)東京自由が丘のすすむ屋茶店。
でも過度にアピールするつもりはなくて自然に日本茶の良さを伝えていきたいですね。よくオシャレに。とか皆さん言われるんですが、僕の中でオシャレって悪口なんです。自然ではないってことだから。余所行きってことですからね。僕はそう解釈しています。
自然に街の一部に、皆さんの日常の一部になるようにしていきたいと思っています。いつものルーティンにならなきゃダメですね。だって所詮お茶ですよ。日常品です。日常品にしなきゃいけないんです。すでに素晴らしいお茶をそのまま伝えていきます。敬意を表しながら、それを僕らが皆さん伝わるようにする。通訳みたいなもんですね。僕たち。
※鹿児島本店の外観。
最後までご一読ありがとうございました。
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