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わらべうたの口承性──記録(本や楽譜)で記すこととの相性の悪さ

【なぜ慎重に伝えるか、を考える  その1】

私たちは、わらべうたの講習会(大人の学ぶ会)で、お互いにツッコミをしあう。結構、入れる。最初はびっくりする人もいるかもしれない。

「今の、最後の音が違ったよね?」とか。
「元は〇〇の唄だから、テンポが~~どうかな~~」などなど……。

お互いに点検をしあうようなつもりで、指摘しあうのが大事、と思っている。

事前打ち合わせと練習をしていても、人前で心が急いたり、そもそも子どもと自然に遊んでいるものを大人で再現…するのは、かなり難しい。(言い訳ではないか?! もっと練習もします、ごめんなさい…。)

ツッコミがうるさいな~~、細かいな~~、と思っている人もいるかもしれない。

毎回そこの塩梅には悩む。我々のやりとりで参加者さんが委縮しないようにはしたい。

『どうしたら、場の空気を壊さないか…』
みんなで悶々と反省会をしつつ、でも最優先すべきは〝たしかに〟わらべうたを伝えることだと行き着くので、やっぱり適宜ツッコミはいれよう、となる。

 

一貫性があるかどうかを、お互いに少し点検していないと、と思う。

一貫性とは何のことか? わらべうたを〝たしかに〟伝えるとは、どういうことか? 

これから書くのは、あくまで、私個人の考え方だ。

 

人によって、活動理念(わらべうたをやる目的?)は違うだろうし、それぞれの会のやり方があるとは思う。でも考え方の確認はできるようにしておきたい。

(私は理屈があったほうが安心するタイプの人間で、自分のきもちを言葉で書き出す、という機会をいつも欲する。)(自分のために書いてみます!)




たしかに伝える とは 慎重に伝える ということ

 

◼︎ 違いであって間違いではない の整理


前提として、地域差や、変容性はある。

A子ちゃんとB子ちゃんの歌い方がちがう、ということは、あっていい。

しかし、C先生とD先生の歌がちがう、ということは避ける。(同じ事業所内では統一するのが望ましい。)

大人同士ならばバージョンを統一することができるし、どうしても統一が難しいならば、あえてその歌は扱わないという選択肢もある。

 

◼︎ この百年の振り返り 子育ての新たなフェーズ


今の世では、普通教育(職業・専門知識を手に入れるためでなく、全ての人が人間らしく生きるための一般教養があるということ)の考え方が、当たり前に社会に備わっている。まるでずっと前からこういう暮らしをしていたように錯覚しそうだ。

これが実は、まだ百年経つか経たないか、なのだ。
人類の歴史からみて、ほんのごく短い一部でしかない。

近代化以降の世界
(1852年、ハンガリーで欧州初の〝働く母親のために子どもを預ける施設〟が開設された。)
(1900年、エレン・ケイの著作『児童の世紀』が出版された。「家庭は学校の予備校ではない」教育とは何かを説き、人間観を問いかける。)

20世紀は教育改革の時代でもあった。
(大人都合で子どもを矯正する→子ども本人のために育てる)

また、今は社会で子育てをしている、という点がある。
核家族化もすすみ、地域社会としてチームで行っていくべき子育ては、さらに新たな領域に入ったと私は思う。


わらべうたを行う集団、場面、といったものも変化している。
子どものなかで歌い継いできたものを大人主導でやる、というところで、注意点はものすごく多い。


感覚的なものの共有を大事にしつつも、

なぜやるのか? どうやるのか? 目的とやり方は一致しているか? 

〝感じ〟を思考と言葉におこす習慣をつけなければ、社会としてそれを進めていくのは難しい。


共同体においても個々においても、「なんとなく」を「顕在化」する力が求められている、ということだと思う。
共有可能な思考にする力、そして丁寧に対話する力が要る。

100年のふりかえり。これから検証して反省……というのは日本の近代化(明治以降の政治)についても、確実にやらなきゃいけないことだ。



 



わらべうたは口承 記録(文字や譜)で記すこととの相性の悪さがある

 

口頭伝承であったものを、採譜・記録して残すために、西洋音楽の五線譜が用いられた。

音楽に限らず西洋文明というものは、何かを学問化すること、いわば学びの共通規格をつくることに優れている。枠組みを巧みに作ってきた。しかしそれは、〝縦の枠組み〟であったと思う。

ざっくりとした表現だが、西洋文明とは、〝縦〟に序列化して意味を振っていく文化なのだと思う。

専門分野を発展させて、専門家をうみだす。一方で、伝承のわらべうたに、そもそも専門家はいない。むしろどんな人でも扱える、そこがこの伝承文化のすごいところだった。

その代わり、この伝承には〝横のつながり〟を要する。環境的にあるいは精神的に、近しい人との関係のなかで育む要素があり、伝えていくことに時間がかかる。


子どもがまず第一に取り込むのは、母親をはじめ、日常の近しい存在がうたっている歌声、親しみの込められた子守唄・わらべうただ。遠い存在の専門家が与えるものではない。


印刷という発明以降、知識の伝播するスピードは速まりつづけた。

1445年に聖書の活版印刷がはじまり、1501年には楽譜の出版所ができた。

もっと歴史を遡って、グレゴリオ聖歌とグレゴリオ譜の時代が楽譜の起こりといえるが、その時代に読み書きができる唯一の階級はキリスト教僧侶たちだった。

今や、情報は瞬く間に世界中へと伝わる。
しかし、そのスピードに乗れるのはあくまでも〝情報化〟できるものだけに留まる。

つまり、言語化しやすいことは本にできる、記号化できるものは譜に起こせるが、そこから取り零されるものは絶対にありつづけるということだ。

具体的には?
おそらくは、身体運動+感情の高まりをもって、常に連動しているもの。
人の感覚に直接付与されるもの……『時間的進行』の単位である拍やリズムは、歩く・踊る・仕草するといった、くりかえしの行動によって体得する部分が大きい。

もっと曖昧なところだと、再現不可能なその場その場の力……、みたいなものも、必ずあると思う。

スキンシップとアイコンタクト、呼吸と気配、微妙な差異のある反応……
体験のなかでも非常に〝質〟的なものがあって、それらを、〝縦〟でなく〝横〟に伝えていくしかない、というところがある。

 

以下の養老孟司の記事はすごく面白かった。


「統計データは個人の差異を無視する」

「森に行け」


どちらも、養老先生が、近年くりかえし説いているテーマだ。


森に行け、は、以下の動画がものすごく良かった。

 


私も最近になってようやく感じるようになってきた。
私は本を愛していて、本屋さんや図書館に足を運んでは、たくさん本が並んでいるのを見ていつもニコニコしていた。しかし最近そうでなくなってきた。「あぁ、ここには、本にできるものしか無いのだ」と少し思ってしまう。

あくまで本にしやすいこと、言語化しやすい図描化しやすいものが本に残せるというだけで、人間の全てがそうやって〝意味化〟して本棚に整列してはいない。養老先生のおかげもあって、ようやくそのことに気づいた。

都市、人工物、差異がないもの、無駄を省いたもののなかだけで暮らしている。これは「脳で考えたものの中に人間が閉じこめられている」のだと、養老先生は言っている。

森に行って、妙な形のものをたくさん見て、風を浴びて音を聴いて……。
空間認知力・空間認識力をつけること。あるいはもっと、命の全体性を、ストンと心に落とすような経験をするということかもしれない。

現状、子どもたちが野山にアクセス可能かどうか(都会に住んでいるか里山近くに住んでいるか)で、体験格差がおおきく生じている。大人が積極的に連れ出すこと、その重要性を認識したい。



……話を少し戻して……。

本を読むことは大事だが、書物に著せるものだけが〝わらべうた〟ではない。

楽譜などを読み解くノウハウを伝えることは大事だが、楽譜は息をしてはいない。命はもともとそこにはない。そこから生きた歌を息吹かせる……人間らしい心身の体験を毎回引き起こしていく必要がある。

おそらく、そこに我々のジレンマがあるのだ。

(知識と体験、変化と不変、複雑なことをシンプルに伝える……。そこにある壁……。)


記録された知識は、停止している知識、いわば〝死んだ知識〟なのだ、と……誰かがうまいことを言っていた。(これも養老先生だったかな? 忘れた;;)
つまり、不変を求めた結果なのだ。動画や音声メディアも同様で、そこにあるものは判を押したように、そこに記号化して留っている。

劣化しない文字や記号というものを、人間は追い求める。

しかし〝生きた知識〟を〝生きた人間〟として伝えていくためには、文字や譜にはしきれない、もっともっと膨大な背景込みで──歌が生きてきた歴史と、エッセンスとして凝縮されている人間性についてなど──とてもとても大きなものを、少しずつ手渡していかなければならないだろう。

すぐに理解してもらうのは難しいから、慎重になる。

圧縮・凝結されたものを、解凍・読み解く。その読み解きかたが、実は千差万別であり、しかも正解がない時もある……ということ。
ものすごくデカい課題なのだ。

 



 (5/30)
※仮題で「なぜ慎重に伝えるか、を考える  その1」つけてます。おそらくあと1〜2本続きを書きます!

  



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