見出し画像

8/3 尾原昭夫先生の講座に参加して…

尾原先生から唄を学ぶということは、先生の足跡をともに辿ることなのだろうと思いました。

わらべうた採譜のため、全国各地をまわった採譜者の方々がいたということ……。これまでも想像してきたつもりでしたが、想像力が及んでいなかったようにあらためて感じます。

それだけに、直接、お話を聞いて、先生の歩いた道筋に少しでも思いを馳せられたことに、感激を覚えています。




前書き


昨年に引き続き、1975年発刊の『日本のわらべうた 戸外遊戯歌編』の名を冠した講座が、8/3(土)に開かれました。

尾原昭夫先生は92歳のご高齢であり、先生ご自身が出向いてくれて遊びをレクチャーしていただける機会があること自体、もはやどんなに貴重であるか分かりません!

言わずもがな、柳原書店の〝日本わらべ歌全集〟も、最近出版された〝日本子守唄集成〟も、先生が採譜・出版に携わられた資料の数々があってこそ、現在のわらべうた研究があります。

講座の感想と、自分の思うところ……を、本日の記事では書いています☺️



わらべうたと顔の見える関係



私は昨年の講座はwebでのみ参加しましたが、今年は念願叶って、直接お話を聞くことができました。


尾原先生は、ひとつひとつ全ての歌に『人の顔』を見ておられるのだな、と、強く心に残ったのはその点でした。

どのわらべうたに関しても、語られるときに、伝承者の〝人間としての顔〟を必ず情報として付け加えておられたこと、それが印象的でした。

「あの方は亡くなっておられるだろうか? 本当はひとりひとりのお墓に手をあわせに行きたいんです」

その言葉を聞いたときに、まず最初の衝撃が走りました。
唄のむこうにいるのは生身の人間なのだ。と、私は今更ながら気づかされた思いがしました。


私は平成元年の生まれです。
自分では、わらべうたを聞いて育ったと思ってきましたが、今では〝本〟に書かれているわらべうたを学んでいるようなところがどうしても強く、そうした人為的伝承(元歌の風景を知らない間接的な伝承)に感覚が慣れきっていることを否めません。

もちろん、人為的伝承が悪いということではなく、それをよく目的を整理して続ける必要があるというのは、著作『日本のわらべうた』にも書いてくださっている通りです。

しかし、自分の感覚と、実際に各地で採譜をして〝顔〟を見てこられた先生との感覚に、歴然とした違いを感じた気がして驚きました。

よく、人間関係でも、『〝顔〟の見える関係性を築こう』と言ったりしますが。もしかしたら、伝承者と現代の我々とのあいだにも、心において距離感の違う関係性があるのかもしれません。顔のない関係は、認識・理解に、どんな影響を及ぼしているのでしょうか。決して何も影響がないとはいえない気がしてきました。


尾原先生に歌について尋ねると、まずは人間について語ってくださいます。

どこで、どんな人が歌った。または、ご自身が採譜した唄でない場合は、『採譜の〇〇先生は……』と採譜者の人物像を入口にして語りはじめ、そこからどんな伝承がみえてくるかを紐解いていかれます。


今回、講座を受講しての一番の学びは、『生身の人間をベースにして考え続ける』ことを忘れてはいけない、という事でした。

歌を、血の流れていない何か物質的なものにしてしまってはいけないのだろう、ということを、考えさせられました。

これまでも、わらべうたをやっていて、『本には、本にできることしか載っていない(言語化・図象化できることしかない)』ということを、課題として意識してきました。本だけで遊びを伝えることはできない。だからこそ面白いのだと言えますし、人に直接会いにいく価値があるのですが……慎重さも求められます。

今回の講座では、その課題を、さらに次元の違うレベルで突き付けられたような……(なかなか言葉にしづらいのですが、)厳しさを感じました。

もちろん尾原先生が何かそういう厳しい言及をしたというわけではありません。自分のなかで勝手に重ねあわせたに過ぎないのですが、自分自身の課題が見えてきてしまいます。



狙いと目的を整理することのジレンマ


私は今、これまで学んできたことを、自分のなかでどう整理するか? ということに悩んでいます。

子どもの主体的な育ちを狙いの中心としたい。そうして大人都合ではなく、いわば子ども都合の、子どものための遊びをやっていきたい……と考えています。

何をするか、何のためにやるのか? 何がどう役立つのか? 自分の学びを社会にどう還元するか……? 
それを考えて整理することに、躍起になっている自分がいます。

しかし、「何に役立つか」という問いを、机の上でしているだけではいけない。そこに難しさを感じます。理論が先行して、肝心の人間を置き去りにするようなことがあってはいけないからです。
(私自身、とても頭でっかちで理屈屋なタイプですし、社会との交流にも不安があって、ここからどうすればいいのか決められません。悩みはつきません。)



最後に 質疑応答に感謝したこと - 複雑化も単純化もしなくていいと思ったこと


質問の時間に、「(北原白秋に代表されるような)歌詞による分類でなく、〝遊びにもとづく分類〟をするようになったのは尾原先生の時からなのでしょうか?」と質問しました。

それに対する先生の回答が『分類にこだわってはいない。(分類ありきで収集範囲を狭めるつもりはない)』というものだったので、非常に納得しました。

なるほど確かに、狙い(活動の用途)をしぼっていくほどリスト化はしやすく、分類がシンプルになります。
逆に、地域も遊び用途もしぼらなければ、さまざまな要素が絡みあっている伝承歌たちの、奥深さが見えてきます。

やたらと複雑にみせる必要もありませんが、無理に単純化する必要もないのだろうと思います。

単純で分かりやすく見えるものに頼って、どこか恣意的に理解しようとするのだけは改めなければいけないと、自戒の念もこめてそう思います。


いずれにしても、歌が先にあるのではなく、人間が先にあって歌があるという理解を、忘れてはいけないなと思いました。


いいなと思ったら応援しよう!