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魯と孔子18ー三桓氏の変質ー「牛人」をめぐる国際情勢(10)ー「牛人」の最期
前537年、それは突然起こった。
叔孫鄀(しゅくそんじゃく)が、正式に叔孫氏の当主の座につくと、高らかと宣言した。
「豎牛(じゅぎゅう)は叔孫氏に災いをもたらし、嫡子(斉から迎えられた叔孫豹の二人の息子)を殺害し、私のような庶子をたて、叔孫氏の領地を勝手に他人に与えた。これ以上の罪はなく、ただちに豎牛を殺せ」
あまりにも突然のことであった。
豎牛は、あわてて斉に逃亡した。
ここで、豎牛をあっさり逃がしていることは、同時に家臣たちもすぐに対応できていなかったことを物語っている。
叔孫鄀の動きは、まさに電光石火であった。
さて、斉に逃れようと国境に向かう豎牛を、ある人物たちが出迎えた。
例の豎牛にはめられて殺害された二人の息子の、息子たち…、つまり叔孫豹の孫たちである。彼らは魯に入らず、斉に居残っていた。
豎牛は、斉に入る前に、彼らの手によって殺害された。
その首は、斉の国境内のイバラの上に投げつけられたと言う。
さて、ここまで「牛人」の話が長くなった。
だが、本シリーズではもう少し「牛人」の話が続く。
むしろ、ここからが本題である。
次回は、この「牛人」と魯の国内外の情勢との関わりについて考察していきたい。
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*ヘッダー画像:Wikipedia「中島敦」