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魯と孔子13ー三桓氏の変質ー 「牛人」をめぐる国際情勢(5), 叔孫豹の葬儀

前566年、魯は、対斉戦の要衝である費を城塞化した。費は、季孫氏の領地である。
この費の城塞化に功績をあげたのが、季孫氏の家臣である南遺(なんい)と、叔仲帯(しゅくちゅうたい)なる人物である。
叔仲帯は、人足は自分が何とかすると言って、費の城塞化を南遺に提案した人物であった。

功績をあげた2人は、前538年までに、季孫氏の家中で大きな発言力を持つようになっていた。
豎牛(じゅぎゅう)はこの2人に接触を図った。

この年、叔孫豹の葬儀が行われた。
激動の国際情勢の中で魯国の立場を守り抜いた元勲である。
昭公は、魯の国君として杜洩(とせつ)に命じて葬儀を主催させた。
世間的にも、やはり杜洩が叔孫氏の家宰として認められる存在であった。

杜洩は、叔孫豹が前549年に周王から下賜された車を葬儀に利用しようとした。
すると、南遺と叔仲帯の二人は、杜洩のやり方を批判して、季孫宿に対してこう言った。

叔孫豹は生前、あの車に乗らなかった。
なのに,葬儀に使用するのはおかしい。
それに首席の卿である季孫氏ですら持っていない車を、次席の卿である叔孫氏が使用するというのも、やはり間違っている

これに納得した季孫宿は、杜洩に車の利用をやめるよう伝えた。
だが、杜洩も譲らなかった。

叔孫豹は、魯の先代の命で、周王のもとに赴き、この車を下賜されのだ。
それに、先代も周王の御意志に従ってこれを認められている。これは明確に記録された彼の功績である。
貴方がこの車を使用するなと言うならば、それは君命を破るものではないか。

結局、杜洩の反論によって、叔孫豹は、周王から下賜された車で冥府に送られることとなった。

この杜洩への攻撃を裏で動かしていたのが豎牛であった。
叔孫氏を完全に掌握するために、豎牛は季孫氏の力を利用したのである。

さて、この豎牛が叔孫氏を掌握するために仕掛けた戦い
意図せずして…いや、あるいは意図してかもしれないが、
ここで2つの権力闘争が同時に発生している。

一つは豎牛と杜洩の、叔孫氏内部のお家騒動である。

そして二つ目が、
三桓氏の中でも最大氏族と化した季孫氏による魯公の君主権力に対する挑戦である。

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*ヘッダー画像:Wikipedia「ミーノータウロス」

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