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魯ー孔子が登場するまで2

この頃、それまで緩衝地帯であった宋、鄭、蔡、陳が明確に楚連合に入っていた。前592年には、同盟の再編を図る晋のもと、魯は再びこの同盟に参加している。この際、晋は斉を同盟に取り込もうとするが、斉の晋の使者に対する態度への報復として、斉の同盟への参加を拒否した。斉もまた晋に対して挑戦的立場に立ったと言える。翌年、前591年には晋・衛連合軍が斉に侵攻、斉を屈服させている。
前590年、魯では代替わりがあった。この年、斉と楚が結んだという情報が駆け巡る。これに対応すべく魯は、対斉戦を喧伝して丘甲の制と呼ばれる兵役の改革を行い、戦力の増強に努めている。
翌年、前589年には斉が魯の西部に進攻、晋、魯連合軍がこれを破っている。楚は斉を救援すべく進軍しているが、とくに衝突もなく講和が結ばれている。さて、この戦役の戦後処理にある逸話が残されている。
勝利を収めた晋が、捕えた斉の捕虜を周王に献上した。だが、周王は、この際の晋の使者を正規の待遇では礼遇しなかった。周王は、晋の斉に対する勝利を身内同士の抗争として、それほど高く評価しなかったのである。
周王の政治的なバランス感覚はさておき、今回は晋が勝ったとはいえ、晋と斉の勢力が拮抗しつつあることは誰の目にも明らかであった。こうした情勢下において、魯には選択肢が2つ用意された。晋をバックに斉を牽制するか、斉について徐々に取り込まれていくか、という2つの選択肢である。
先の戦役でも見て取れるように、魯は、晋をバックとして斉を牽制する道を選んだ。そして、この頃から魯では三桓氏と呼ばれる有力公族が権力を掌握するようになる。この三桓氏のバックについていたのが晋であった。
魯は、成公(在位、前591年〜前573年)、襄公(前572年〜前542年)まで晋の覇者体制のもと、安定した統治が展開されており、対外的にも楚や斉への牽制に成功している。

ヘッダー画像、前回に同じ

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