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第31回 職場における世代交代の意義と課題(1) -連帯感が失われる要因-

1.オリンピック組織委員会会長人事問題で感じること
 オリンピック組織委員会の森会長の差別発言と後任人事問題に揺れているが、過熱しすぎと思われる報道もやっと沈静化しつつある。政治家や著名人による失言は、日本に限ったことではないものの、日本の場合、そのレベルの低さには閉口してしまう。あらゆることが映像や録音に記録される現在、口が滑ったなどという言い訳は通らない。国民総監視社会の現実は、もはや中国だけの話ではないのである。
 様々な会議において議長を務めてきた経験で言えば、話をまとめきれないのは圧倒的に男性の方が多く、おおむねプライドや自己顕示欲が強い中年男性である。森会長が批判を受けた日の状況についてみても、会長自身が40分間話をされたとのことであり、他人を批判する人の多くが、自分のことは見えていないという典型例といえよう。

2.年齢差別禁止の欺瞞
 この度の騒動において私が興味を持ったのは、女性に対する差別問題ではなく、80歳代の男性がトップを務める組織員会について、表向きではないものの、老害であるといった批判が生じたことである。言うまでもなく、女性差別が許されないことと同様、年齢差別も褒められたことではない。しかし、私に言わせれば、女性差別と年齢差別の問題は似て非なるものである。女性や障害といった生来の属性や特性に基づく偏見とは異なり、齢(よわい)は誰もが平等に重ねるものであり、相応の社会的な役割は年齢によって自ずと決まってくる。そもそも年齢差別を全面的に否定すると、未成年者への権利制限や企業の定年制なども許されないといったことになってしまう。近年、一億総活躍社会などという掛け声のもと、定年制を緩和もしくは廃止するような動きが加速されているが、はたして妥当なことなのかは大いに疑問がある。高齢者が居座れば、その分若年者の雇用機会が失われるだけではなく、組織が新たな形に生まれ変わるチャンスも小さくなってしまう。今回と次回の2回にわたって、職場における世代交代をめぐる問題について考えてみる。

3.管理職になることを望まない労働者の存在
 近年、管理職になることを望まない若年労働者が増えていると言われる。もちろん、どのような生き方をするかは自由であり、また、会社がそのような選択をする人材も必要と感じているのであれば問題にすべきことではないかもしれない。しかし、通常、一生懸命働いていれば自然に知識と技能が身に付くものであり、これを次世代に伝承することと組織において年齢相応の立場に就くことは、喜びにならなければならないはずである。なぜなら、この点に喜びよりも負担や苦痛を感じるというのであれば、もはや仕事の目標は自己に完結してしまい、組織の一員であるという自覚は薄れていると考えられるからである。もし、幹部候補であるべき人材が、生活できる程度の収入があればよい、責任は負いたくない、自分なりに会社に貢献できれば良いといった発想になっているとすれば、それは当人に問題があるというよりは、会社組織に問題があると考えるべきである。

4.会社に抱く3つの絶望
 若年労働者がそのような意識になってしまう原因は、組織に対する絶望、仕事に対する絶望、もしくは上司に対する絶望のいずれかであろう。もちろん、仕事をしていく中で自分の実力のなさを感じたという場合や仕事は負荷がかからない程度にして趣味等に没頭したいといった、個人的な理由であるという場合も考えられなくはないが、仮にそういう理由があったとしても、就職後に意識が変化したというのであれば、上記3つの要因のいずれかがあったと考えるべきである。組織に対する絶望とは、責任があるのに権限がない、昇進すると多忙になる、金銭的なメリットがないといったものであろうし、仕事に対する絶望とは、やりがいがない、展望が見えない、顧客や取引先からのクレーム処理等が大変になるといったものであるかもしれない。そして、上司に対する絶望としては、話を聞いてくれない、目標となる人物がいない、といったものが考えられる。

5.共感を欠く職場の現実
 職場は、仮に多くの労働者がテレワークで働いていたとしても、組織であること、共通の目標を持っていることなど、労働者の連携で成り立っていることに変わりはない。組織への信頼と上司・同僚との共感がなければ、共通の目標に向かうことはできないであろう。上司の役割は、自分の後進を育てることであるが、無理な働き方をすれば部下は気持ちが萎えてしまうであろうし、経営者の顔色をうかがいながら仕事をしていれば「あのようにはなりたくない」との意識を生じさせるであろう。近年、権利ばかりを主張する若年労働者が増えたという声を聞くが、やる気を失わせる労務管理をするからそうした層を増殖させてしまうのだと思われる。権利を主張することは、それが正しい内容であれば大いに結構なことであり、共感を醸成する大きなチャンスであると受け止めるべきである。

6.連帯感がなくなる背景
 組織、仕事、上司への絶望のいずれについても、その根幹には、会社が連帯感をなくしていることに原因があるのではないかと思われる。テレワークでも可能となる仕事が多いことに象徴されるように、仕事は細分化されており、また、ほとんどの職場では、仕事を覚えてもらった途端に入れ替わってしまう非正規雇用労働者と一緒に仕事をすることになる。上司、部下共に、私生活にまで及ぶような深い付き合いをすると傷つく可能性があることを感じ取っているため、共通の敵がいない限り、打ち解けた話をすることはない。仕事をうまくこなせる力量を付けたいという向上心はあっても、ノルマや組織の圧力がかかると不安や焦燥感の方が勝ることとなり、結局、苦痛なものとなる。そして今、上場優良企業においては連帯感を支える最後の砦であったプライドさえ、風前の灯火となっている。「何々会社の社員」であるという自尊心は、コロナ禍による経営危機の経験により、必ずしも保障された価値ではないことを悟らされている。

7.会社員になることにメリットがあるのか?
 会社は、組織として成果を上げることにおいて、その存在に意味がある。そこには、共通の目標と達成へのモチベーションが不可欠であり、会社の成長が自らの喜びになることが理想である。近年、経営者がクライドワーカーなどの個人事業主を集めて仕事を振り分け、一部の成果を分配する方法が拡がりを見せているが、会社との決定的な違いは、組織に連帯感があるか否かである。逆に言えば、社員が組織や上司に絶望し、連帯感が失われているとすれば、もはや会社という組織である必然性はない。以前述べたように、若者には自己の才覚によって独立して収入を得る者が勝ち組であり、組織に屈服する者は負け組であるといった風潮があるが、社員になることにメリットを感じられる点があるとすれば、孤独から解放されるという点だけであるかもしれない。自由ではあるが孤独であるか、不自由ではあるが連帯感に支えられるかという2つの選択肢において、もはや連帯感はなくなっているとすれば、会社員になることには「不自由さ」しか残らないこととなる。

8.会社において求められる連帯感の意味
 在宅勤務が推奨され、また忘年会さえ拒否する現代の若者について、会社として組織の連帯感を醸し出すことは容易ではないと感じられようが、ここで言う連帯感とは必ずしも人間的な繋がりを意味するものではない。言うなれば、同じ達成目標に向かって協働するチームの構成員であるというアイデンティティを持てるか否かであり、より簡潔に言えば、一緒に仕事をしていくことが楽しく、また自らの成長につながる等モチベーションを引き上げる関係性があるかといった意味である。
 こうした環境を作り上げようとする際、旧来の組織構造に胡坐をかいてきた高齢労働者の存在が足かせとなる可能性は高いように思われてならない。仮に嘱託社員という位置づけであっても、過去に実績があれば配慮をせざるを得ないことになりやすく、逆に何らの実績もなければ単に邪魔な存在でしかない。仕事の効率と労働者の満足度を高めるために、どのように連帯感のある組織に育てていくのか、その際、感覚の異なる年齢層にいかに調和を求めるのか、次回続けて話をしていく。

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職場の実態を知り尽くした筆者による労務問題に携わる専門家向けのマガジンである。新法の解釈やトラブルの解決策など、実務に役立つ情報を提供するとともに、人材育成や危機管理についても斬新な提案を行っていく。

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