第7回 就職3年の壁 -変革されるべきは会社の体質―
1.新規採用見送りの無念さ
コロナ禍のため、来年度の新規労働者採用を見送る企業が相次いでいる。就職氷河期、リーマンショック、東日本大震災など、景気動向によってこうした事態が繰り返されることには、致し方ないと思いながらも割り切れない気持ちが残る。未だ新卒採用が中心である日本においては、たまたま来年度就職する年齢になっているというだけで長年の夢を奪われてしまうかもしれず、その無念さは察して余りあるものがある。
2.なぜ、3年我慢できないのか?
もっとも、幸か不幸か、最近の若年層にとっては、新卒後の就職はあくまで最初の就職先であるという感覚が強くなっており、年配者が考えるほど深刻な事態ではないのかもしれない。現在、公務員を含めて、第1希望に就職したにもかかわらず、3年を経ることなく転職してしまう人は少なくない。いったん就職してみたものの、自分の夢を捨てきれないという人もいるであろうが、全体としては、仕事ないしは組織に愛想が尽きたという例が多いものと想像される。自らのイメージとは違っていたという理由を耳にすることがあるが、当該イメージの甘さを指摘することで事を済ませようとするのは、逆に事業主側の甘さであると言えよう。多くの企業において、年功型賃金は縮小し、長期雇用に対する魅力は低下している。さらに、企業の業績が飛躍するといった夢も抱きにくい時代となっており、将来への希望や生きがいのために我慢をするという動機は湧きにくい。今の自分を犠牲にすることで、将来の自分像を描くことができないのであれば、3年我慢することに意味はないのかもしれない。
3.激変している労働環境
子どもに対して、少なくとも「3年は我慢して働け」といった言葉を投げかけて、現在の仕事の良い点を見出す努力をすることや忍耐力を鍛えることを期待する親は少なくないものと思われる。確かに、一定の時間を拘束される対価として、報酬を得るという「労働」の性質上、心身に何らかのストレスを生じさせる場面があることは当然であり、我慢を必要としない仕事などは存在しない。自らの経験として、苦労を重ね、一定の立場を得るか、もしくは仕事をやり遂げたという達成感を持つ人にとっては、子どもの世代が頼りなく思えてしまうのは理解できるところである。
しかしながら、「労働」を取り巻く環境は、思いのほか変わっていることを自覚する必要はあるかもしれない。個人単位でパソコンに向かって仕事をすることやノルマを課されてその達成を求められることの多い現代の職場においては、労働能力の差は一目瞭然となる。仮に親世代の職場環境が、現代基準でいえばブラック企業レベルであったとしても、長期雇用による安定への期待値は相対的に高く、さらに、労働組合による連帯感の醸成、たばこ休憩も自由に認めるなどの労働密度の低さ、結果だけでなく過程を認めてくれる組織の柔軟さなど、会社を取り巻く環境ははるかに緩やかであったと言えよう。
現在、ゆとりをなくした企業の中には、労働者を使い捨てにすることを厭わない所がある。ブラックであると感じながら我慢して働くより、自らの経験と周辺の情報を信じて異なる選択をすることは、決して責められることではなかろう。仮に、次なる選択もブラックであったとしても、現在の不条理から逃げ出すことは何よりも重要である。
4.自殺に追い込まれる若年労働者が抱く葛藤
就職後、3年を経ることなく自殺してしまった若者の記録を多く見てきた。経験的には、最初の1年を超えることが難しく、続いて3年というハードルが立ちはだかるように感じられる。3年間、会社に居続けることができれば、自らの立ち位置や仕事の展望も見えてくるのであろうが、若者にはとてつもなく長く感じられる時間なのかもしれない。
なぜ、若年労働者が自殺という道を選んでしまうのか。その理由や背景は多様であり、共通点を見出すことは困難であるも、仕事において生じた葛藤ないしは挫折を読み取ることはできるような気がする。例えば、「理想とは違う組織や仕事」、「力量のない自分への失望」、そして「将来への希望の喪失」である。一所懸命にやっているのにできない、誰も分かってくれない、相談すれば自尊心が傷つく、といった具合に自分を追い込んでいく経緯には、性別、学歴、職種などに差はない。真面目で、相当程度仕事ができる人ほど、自分で逃げ道を閉ざしてしまい、袋小路に入り込むパターンとなる。
5.仕事に求める自分価値と社会価値
仕事に関連して自殺もしくは精神障害に罹患した若年労働者には、仕事に対する2つの心理が見え隠れするように思われる。1つは、仕事が自分の人生において糧(喜び・達成感)をもたらすものであるかという「自分価値」であり、もう1つは、仕事が社会において価値を有するものであるかという「社会価値」である。前者は仕事が自分の成長もしくは楽しみになりうるか、後者は、胸を張って語れる仕事かもしくは見栄えが良いかである。そして、両方を満足させること、つまり、「困難な仕事をこなせる自分がいて、その成果が社会的に価値あるものと評価される」ことが理想となる。
もちろん、そうした理想が容易に実現するものでないことは、自殺に至った若年労働者も理解しているのであろう。同じく自殺者が多い中年男性の場合とは異なり、若年者は、人を責めるのではなく、自分の至らなさや未熟さを悔いる言葉を残すことが多い。「やればできるはずだ」といった類の上司による激励の言葉は、度々自己嫌悪を助長し、また、結果を求める風潮は、当該仕事の成果に意味があるのかといった疑問にすり替わる。
6.「残った者」によって作られる企業風土の危うさ
新卒者が3年の壁を越えると、良くも悪くも当該会社の社員になる。葛藤を乗り越えたという事実は、逆に言えば、色に染まったことを意味する。「自分価値」の修正と「社会価値」の放棄が、「社会人になる」ということであるのかもしれない。
会社に限らず、人間が集まる集団・組織が変化することは難しい。組織の体質は、当該組織に残った者が作り上げるものであり、その「残った者」とは、当該組織に組み込まれる道を選んだ者だからである。3年内に辞めてしまうか、もしくは精神的な病気になってしまうような人間は脱落者であり、仮にその人物が高い能力を持っていたとしても、集団・組織は気に留めようとはしない。抜ける者がいて、また、入ってくる者がいる中で、集団・組織は1つの目標に向けての連帯感を高めていくものであり、出て行く者に対して未練を持つことに意味はない。しかし、若年労働者が度々早期に退職するような会社では、在職している従業員には気づきえない体質ないしは組織構造上の問題があることが少なくない。近づき過ぎると足元が見えなくなる、もしくは見えていても見ぬふりをするといったことは、特にヒエラルヒーが強固な組織においては多く生じるように感じられる。
7.組織体質の変革に向けて
コロナ禍を契機として、働き方の変化を話題にされることが多くなっているが、労働者の採用や雇用管理のあり方についても、見直しをする機会にしてみてはいかがであろうか。「自分価値」や「社会価値」は幻想であるとしても、これを感じられる職場は、若年労働者には魅力的なものなのである。ヒエラルヒーに縛られない情報や技能の伝達、自主性を重んじながらも追い詰めない導き、存在自体で意義を認める組織の寛容さなど、アフターコロナに試される企業の受容力は、表面的な働き方の改革に留まるべきではない。会社に歩み寄る労働者だけではなく、会社から歩み寄って労働者を受け入れる姿勢を持てば、単純に企業風土に染まり、保守的に仕事をこなすに留まらない、新たな発想をできる労働者が育つ可能性が広がるのではないだろうか。
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アフターコロナの雇用社会と法的課題
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