不足の美
不足の美
私の好きな言葉です。
日本人の美意識について語るときに登場する言葉で、
完全なものよりも不完全なものにこそ"情"が入りやすいという意味です。
ここでは、正しいかどうかは別にして、私の思うところを取りとめもなく綴ります。
和の文化
わかりやすいのは、"和の文化"の世界でしょうか。侘び寂び、と呼ばれる美意識があります。不完全、不均整、非対称、質素、不便さ、などに余情を感じ、余韻や間を楽しみます。
たしかに、日本庭園、茶の湯、盆栽、華道、書道、陶芸などには、直線、対称性などの幾何学的な美しさではなく、曖昧な境界線、二つとない偶然性が好まれているように思います。
書道では墨のかすれや余白により格好良さを演出します。陶芸では器の歪さに趣を感じ、割れた破片を修復する技術"金継ぎ"にさえ美を見出します。
日本建築に見られる縁側や土間は、内なのか外なのかはっきりしない曖昧な空間です。境界を仕切っている障子や襖は、防音も断熱も強度もない、言ってみれば、たかだか紙っ切れで、実用的には一見不完全だと思うのです。しかしながら、その空間はとても快適で、居心地抜群なのです。
伝統芸能
また、狂言、歌舞伎、能、人形浄瑠璃などの伝統芸能の世界も、敢えてリアルさを追求しない不完全さ故の美しさを持っていると思います。黒子、能面、人形などのアイテムや仕掛けは、リアルさだけを追求すれば、ちょっと違った形になっている気がするのです。リアルではないところが芸能の魅力だったりするのかもしれません。
絵画・スポーツ・判官贔屓
子供が描く絵画の面白さも不足の美に通じるところがある気がします。けして上手とは言えませんが、プロには表現できない、なんとも心に響く絵があります。
他にも、プロ選手よりも下手なはずの高校野球が茶の間で人気だったり、赤穂浪士や義経のような負け組みを応援したくなる判官贔屓、これらも広い意味で不足の美ではないでしょうか。
美しい不足、美しくない不足
しかしながら、不完全なら何でも良いかというと、そうではないところが難しいところです。
デタラメでは美しくないのです。下手で弱くても感動するのは一生懸命さ、努力が背景に見えるからでしょう。
伝統的な様式、高い機能性、情熱、探究心、無邪気さ。このようなものが根本にあっての不足でないと、美しくはないのかなと思うのです。
人の有り様
人の有り様についも、不足の美 を感じることがあります。
私は、優秀で完璧な人よりも、不器用で要領の悪い人の方が好きな傾向があります。
身体能力、学力、仕事のスキルなどは、狭い領域で競争すれば、個人の優劣差が間違いなくあります。厳しい現実です。しかし、大概の世の中はずっとずっと想像以上に複雑で、一面的な分野の優劣だけで成り立っているわけではありません。合理的な歯車で動いているようで、なかなか理屈通りにはならない不思議がたくさん溢れています。
美しい社会
心身に障がいを持つ方に対して"不足の美"と言うと、とても失礼なことと怒られるような気がします。しかし、綺麗事かもしれませんが、障害者、お年寄り、子供、女性、貧困者などの社会的弱者と呼ばれる人々が普通に暮らしていける状況が、私の理想的な美しい社会、町です。
旅をしていると、例えば、地元のお年寄りが農作業に勤しんでいたり、地域の歴史をガイドしながら郷土料理を振る舞っていたりして、楽しく生き生きしている様子に時々出逢います。子供達が元気に無邪気に遊んでいる様子に出くわします。実に美しい光景です。
逆に、勝ち組と呼ばれる人々が楽しく過ごしている社会は、実に景気良く華やかですが、それほど美しくはないです。懐かしいですが、バブルの頃の東京のような、危うさ、寂しさを垣間見る華やかな街に感じます。
終わりに
このような、取り止めのないことを考えるようなったのは50歳を過ぎた頃からです。
若い頃は、心身共に頑張りが効くので、自分を表に出さないことができていました。やりたくない仕事も、楽しくない遊びも、なんなくこなすことができました。
が、50過ぎからは自分を誤魔化せなくなってきました。無理なものは無理。もちろん外見もしかり。髪、皺、しみ、背格好、歩き方。
周りの人達をみても、その人から滲み出る余韻を隠せなくなってきます。長年積み重なった生き様が、その人の余韻として、しっかりと刻まれて、恐ろしいほど生々しく発せられます。
こうなると、頑張って自分を完璧に装うことが難しいので、不完全なものへの眼差しが自然と優しくなるような気がします。
不足の美。
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