中野信子著『努力不要論』を読む。
努力不要論と聞くと、トンデモ本だと思われるかもしれない。私も正直読む前までは、よくあるトンデモ本だろうと思っていた。しかしよく読んでみるとそうでもない。というより、正しくこの本を読んで理解している人も少ないのではないかと思う。この本は、努力不要論は努力は必要ない、努力なんてする価値がない、といった内容ではない。努力には正しい努力とそうでない努力(本の中ではそれぞれを「広義の努力」と「狭義の努力」として棲み分けを行っている)があり、間違った努力論が日本において蔓延していることを嘆いた内容になっている。その中で、「遊び」や「無駄」に目をつけることの大切さ、「意志力」を持つことの重要性についても説いているのである。これを成果主義や実力主義と関連して考えながら読むと、更に面白い。
今回はこの本の内容について、私の感想を交えながら紹介したいと思う。
努力とは何か
「努力不要論」を語る上では、努力とは何かを語らずには先に進めない。中野さんは努力には2つの概念があるのだとする(p.52)。戦略もなにもなく、ただがむしゃらに頑張る努力と、①目的の設定、②戦略の立案、③実行の3段階のプロセスを経た努力だ。それぞれを「狭義の努力」、「広義の努力」と分けている。そしてこの「広義の努力」こそが真の努力であるとし、がむしゃらに頑張る努力を批判的に見ているのである。(本の後半部分では真の努力は「努力しない努力」と書いているが、ここでは努力の中でも広義の努力の方が良いのだという意味で解釈してほしい)
ここまで読むと、中野さんが努力をいらないものと捉えていないことが明らかである。中野さんは「広義の努力」は「努力」と呼ぶことで「がむしゃらに頑張る」というイメージが付きまとうために、本当は努力と呼びたくないそうだが、便宜上努力と呼ぶことにするとしている。この部分を読み違えると、努力する奴はおかしいという誤読につながるのだろう。中野さんはあくまで戦後の日本の様子や明治維新の武士たちを引用しながら、「がむしゃらに頑張る」努力を否定しているだけである。
「遊び」や「無駄」の重要性
がむしゃらに頑張ることの何がいけないか。それは、頑張らない人を排除する方向へと意識が向くからだと書く。
努力するには、人間は多少なりとも我慢を必要とする。その努力の対象が嫌なもので消極的な気持ちで努力を強要される場合は特にそうだろう。がむしゃらに、やみくもにやらねばならない努力には我慢がつきものだ。しかしこの我慢の限界を超えると、人間は我慢でしなければならないことでも我慢できずにハメを外してしまうのだという(p.54)。「自分はこれだけ正しいことをしたんだから、許される」という言い訳を無意識のうちに脳がやってしまう。「努力は人間をスポイルすることがある」(p.55)、つまり努力しているというだけで、自分がすごい人間になったような錯覚を覚えるのだという。だからこそ、「努力する人は野蛮である」(p.90)という表現になる。正確に言えば、努力にしか目が向かない人は、野蛮であるということだろう。
「無駄な部分への視線がない人は、人を傷つけることを厭わないものです」(p.90)という表現は、素晴らしい。江戸時代などに大切にされてきた「遊び」を大切にしたり、「無駄」を楽しむ精神性が必要とされているのだろう。無駄を切り捨て、効率ばかりを追究する人に人としての余裕やゆとりを感じない。そうした余裕やゆとりを持たない人には魅力も感じない。教養というものは、そういった人間の持つゆとりの部分から醸し出されるものではなかったか。
「努力」が必要な理由もある
この本の中では、努力というものが批判対象として登場するので、努力そのものを否定的に見ていると勘違いされているようだが、中野さんは決してそのように書いていない。間違った努力を続けることで、怠ける人や何もやっていないように見える人を排斥しようとする攻撃性を当たり前のものとしてしまうような雰囲気に対して抗議しているだけで、努力そのものを本当に不要なものだとは書いていない。勿論それを努力と呼ぶことに対して違和感を持っているようなので、努力は不要となるのだろうが、目的や戦略を持って実行に移すような行動それ自体は全く否定していない。
努力(正しい努力)が社会において必要とされる理由としては、当然何らかの物事を成し遂げるために必要だからに他ならない。この際に考えると面白いのは、運と成功(努力)との関係である。ロバート・H・フランクは、『成功する人は偶然を味方にする』において、専門的な経験や知識が成功の大前提となる競争の激しい世界では、成功における運の重要性を教えることは、危険な戦略となると書いている(p.119)。運の重要性に気づくことで、途方もない壁に遭遇した際に、努力を放棄する可能性が出てくるからだ。運任せにしてしまい、努力をやめる。そうすると成功の確率はぐっと下がる。成功のために運は大きな影響を及ぼすかもしれないが、その人の才能や努力も大きく影響するからだ。努力を行わせるには、運の影響を否定し、実力主義的要素を前面に出す方が良いのだ。
なぜ、上のような話を持ち出したのか、疑問に思うだろう。それはそうだろうが、努力不要論と関係があるのか、と。勿論ある。これは努力と「遊び」や「無駄」に視線を向けることの関係性に照らしても同じようなことが言えるからだ。
つまり、努力を行うということは、それが正しい努力であったとしても、頑張らない人や何もしない人を排斥したり攻撃したりしても良いという考えは生まれる。我慢することが多少なりとも求められるからだ。それと「無駄」や「遊び」に視線を向ける余裕を持つことをどのように両立していくのか、ここを考えなければいけない。中野さんは、努力すること自体を否定せず、正しい努力はこれだと示したうえで、努力の危なさについても指摘している。その上で努力とどのように折り合いをつけていくのか、そこがポイントだろうと思う。「無駄」や「遊び」ばかりに視線を向けているようであれば、努力を続けることは難しい。
その折り合いをつけるものとして、中野さんは「意志力」(p.184)を取り上げるのである。
「意志力」とは何か
意志力とは何か。意志力の強い人とはどんな人か。中野さんは「意志力の強い人と弱い人の差というのは、「ヒトという生き物はそもそも意志が弱い」ということを知っているか知らないかという差」(p.188)であるとし、「自分の行動を観察する能力、そしてブレーキを掛ける能力になるので、前頭前皮質の機能が高いか低いかという違い」(p.188)になるとしている。
これをしっかりと持ち続けることで、遊びや無駄に視線を向けても努力を続けることができるというわけだろう。だからこそ「意志力」が大切になる。
その意志力を身につけるため方法の一つとしては、意志力を持って行動している人を真似ることを挙げている。これも興味深い。よく自己啓発書でメンターを探せというが、こういう意味で捉えると面白い。その人の考えや思想というより、その人の行動やその指針としての意志力を学ぶと考えるのだ。
だが、この「意志力」を持つことも、簡単なことではない。この本の中では簡単に取り上げる程度にとどめられているが、これだけを考えても良いくらいだ。
岸見一郎の『アドラーに学ぶ よく生きるために働くということ』に、努力をすることについて、面白い見解がある(pp.40-41)。岸見さんが看護科のある高校で勤務していたころのことである。そこには中学を卒業して看護師になりたいと思った生徒が入学してくるのだというが、その中には資格が取れるからという理由で入学してくる生徒もいるのだという。そうした生徒は決して簡単ではない看護の勉強についていけなくなるという。
学力が足りないのでも、努力が足りないのでもありません。モチベーションの問題なのです。「本当に私は看護師になりたいのか」と自分に問うて、それに対して答えが「なりたい」であれば、看護師を目指して学び、時に困難に遭遇することがあっても乗り切れます。しかし、「自分がなりたいのは看護師ではない」という結論に達した生徒は別の進路を目指していいのです。相談を受けたら、いつもそのように助言してきました。(岸見, pp.40-41)
ここで振り返りたいのは、モチベーションの問題である。これは意志力以前の問題だ。「自分はこの努力をすべきなのか」と自身に問いかける姿勢を大切にしたい。中野さんは、努力を盲目的に行うのではなく、時折一歩引いて、問い直すことが必要だとしている(pp.60-61)。
あなたが今している努力は、本当にあなたがしたいことなのか?
周りに流されてやってしまっているだけなのではないか?
身近な誰かに洗脳されてしまっているのではないか?
社会そのものに洗脳されているのではないか?(p.60)
こう問い直す時間を時折持つことによって、努力すべきものなのか、考え直すことで、意志力もより良い働きを持つようになるのだろう。
「努力をしない努力」とは何か
この記事の最後に、中野さんが本の最後で書いている「努力をしない努力」(p.213)が何なのかについて考えてみたい。中野さんは、これを「真の努力」であると考えている。中野さんの中では「狭義の努力」<「広義の努力」<「努力をしない努力」の順になっているのだろう。
この「努力をしない努力」というのは、単に努力信仰から抜け出し、努力による害悪をメタ的に認識しようとすることではないかと思う。努力ですべてが何とかなると思い、とにかくがむしゃらに努力する。そんな姿勢を顧みる努力、これが「努力をしない努力」だろう。だからこそ、自分よりも能力のある人、できる人を見つけることが大切になる。
ここで注目しておきたいのは、この『努力不要論』全体を通して、メタ的な視点を持つことの重要性が繰り返し主張されていることである。
○努力中毒にならないためには、「自分は今どういう状態なのか」とメタ的な視点で自分を顧みるクセをつけていくことがポイントです(p.59)。
○才能があるかないかというのは、自分が持っている適性を知って、自分の評価軸を確立できているかどうかということに尽きます(p.163)。
○意志力の強い人と弱い人の差というのは、「ヒトという生き物はそもそも意志が弱い」ということを知っているか知らないかという差です(p.188)。
メタ的な視点を持って、一歩下がって自分の周囲や置かれている状況を俯瞰して見ることで、努力に対する過剰な期待(p.228)も薄れていく。そうしたゆとりを持った姿勢で日常を見つめなおすことで、目の前にある毎日を豊かに味わうことができる。そうしたことを訴えかけるのが『努力不要論』だった。
現代はより個人化が進んだ社会である。個人化が進むというのは、一見良いもののように思われるかもしれないが、個人化が進むということは、責任も個人に帰結する場合が増えるということでもある。要するに、「あなたが選択したことはあなたが責任を取りなさい」という自己責任論の蔓延である。
これも良いように思うかもしれないが、どこまで自分の能力や才能、努力で成し遂げたものだろうか。工場を建てて成功をおさめた金持ちがいるかもしれないが、その工場に物資を運ぶための道路や水道設備、電気を通したのはその人の努力によるものだろうか。これはその土地に住む住民の税金により整備されたものだ。すべてが実力だ、すべてが努力の結果であると言いきれないという前提を忘れかけているのではないか。
努力しろ、頑張れ。失敗は頑張らないお前のせいだ。こうした論調は広がりつつある。日本においては努力の間違ったイメージが広がっているために、その悪影響は計り知れない。
ブラック企業なども問題になるが、そういった問題を人間の内側にある努力観に求めたのが本書の特徴だろうと思う。そういう意味で読むと、非常に面白かった。
参考文献
・中野信子(2014)『努力不要論』フォレスト出版
・ロバート・H・フランク, 月沢李歌子訳(2017)『成功する人は偶然を味方にする 運と成功の経済学』日本経済新聞出版社
・岸見一郎(2016)『アドラーに学ぶ よく生きるために働くということ』ベスト新書
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