罪を犯した人は、それ相応の罰を受ければ良いのか

 罪を犯した人は、単にそれ相応の罰を受ければ良いのか。そして、罪を「償う」とはどういうことか。島根あさひ社会復帰促進センター(以下、島根あさひ)のあるプログラムでの様子を聞かせてもらった。島根あさひは映画『プリズン・サークル』(2020)でも話題になった。「TC(Therapeutic Community、回復共同体)」という更生プログラムを取り入れている。TCとは、イギリスの精神病院ではじまり、1960年代以降に欧米で広まった治療法のことで、問題を抱えた人同士が「対話」をすることで自らと向き合い、新たな生き方や問題への対処法を身につけていく(生田2020)。

 刑務所を罰を与える場所ではなく、更生の場として捉える。こうした動きは、懲役刑と禁固刑を統合した「拘禁刑」を創設した刑法改正(2025年6月施行)とも重なる。拘禁刑では、懲役刑において義務とされた刑務作業が、「必要な作業を行わせることができる」とされ、義務ではなくなる。私は基本的に、こうした流れには賛成だ。受刑者は、何らかの罪を犯して入所することになる。ただ、一定の刑期を過ぎれば、社会に戻ってくる。「もっと刑務所の中に閉じ込めてほしい」と言っても、それには限界があるし、何より現実的ではない。人権の観点からも、刑務所という場所に必要以上に閉じ込めておくことは間違いだろう。

 プログラムの話に戻る。プログラムのなかでは、数人の受刑者が対話の中で、自らの生い立ちや犯した犯罪などについて振り返り、償いとは何かを考えていく。その詳細を書くことは控えるが、自己を見つめ直す中で、徐々に変容していく様子を聞いた(興味があれば、坂上2022を読まれることをお勧めする)。こうした取り組みの方が、よほど意味のあることだと思わされる。

 ここで、責任について考えてみたい。罪を犯したのだから、それ相応の罰を受けなければいけないと考えるのは、その人に意志があり、その行為に責任を取るべきだと考えるからだろう。刑法における「責任」とは「自由な意思」に基づく人間の行動結果に対する法的評価である(松宮2022)。その人が意図的に行った行為であれば、その責任は負うべきだとされ、罰を受ける。実際に、精神疾患や知的障害などを抱えている人を総合的に判断した結果、責任能力が認められず、不起訴処分や無罪判決が言い渡される場合がある。こうした場合には、何らかの理由によって責任を負うことができないと判断されるために、罰を受けることがなくなる。罪と罰、そして責任の間には、意志の問題が介在するが、それは置いておくとして、今回は責任について少し考えてみたい。

 梶谷(2018)は、「私たちは、自ら考えて決めた時にだけ、自分のしたことに責任をとることができる」とし、「自ら考えていないということは、自分で決めていないということであり、そうであれば、やったことの責任は、本来とれないはずである」(p.100)と論じる。「対話」を通して、他者との共同的な関係を築くことで、「自由と責任をいっしょに取り戻す」(p.104)ことができると論じ、対話の重要性を指摘している。この指摘からは、対話による「責任」の取戻しという示唆を得ることができる。対話を通して、自分を見つめ、そして他者と共同関係を築くことで、初めて責任を取り戻すことができるという。

 犯罪を自分の意志で行ったのだから、対話以前に自分で決めて行ったわけで、責任は当然取るべきだろうと考える人もいる。確かにそういった側面もあるかもしれない。ただ、犯罪に至るには多様な要因を想定しなければならない。その犯罪者は、生い立ちなどに何らかの問題を抱えているかもしれない。そういった状況にあっても犯罪を犯すに至らない人もいるのだと考えることもできるが、「悪魔のささやき」(加賀2006)のような側面は捨象すべきではないだろう。

 また、國分(2020)は「責任」(responsibility)の意味は「応答すること」にあるとし、応答すべき本人が応答しないために、仕方がなく意志の概念を使って当人に責任を押し付け、「責任」と呼んでいるのではないかと論じる。國分は、このような責任を「堕落した責任」(p.119)と表現し、意志という概念を使って、因果関係を「切断」しているのだと説明する。そして、因果関係を切断しうる意志ではなく、ハイデガーによる「覚悟」の概念を挙げ、それは「現在・過去・未来を自分で引き受けるということ」であり、「連続体のなかに身を置く」(p.161)ことであるとし、責任の在り方を提案している。

 例えば、万引きをしたとする。そして捕まると事情聴取を受けることになる。そこで「犯行動機」なるものが形づくられるが、果たしてそれは本当だろうか、と考えてみる。もしあなたが万引きをしたとする。万引きしたのはコンビニのおにぎり3つ。「どうしてこんなことをしたんだ?」と問われ、「お腹が空いていたから」などと答えたとする。そうすると、「あなたはお腹が空いていたので、コンビニに入っておにぎりを盗んだ」といった動機が完成する。そこで「意志」概念が持ち出され、おにぎりを万引きしたという結果に対する多様な要因(因果関係)は切り捨てられ、一つのストーリーが形づくられることに気づく。本当にそうであるかは分からないのに。様々な要因によって引き起こされているかもしれないのに。

 そうではなく、そのままを受け止める。多様な要因をそのまま引き受ける。こうした在り方が求められるし、こうした受け止め方によってのみ、責任を取れるのではないか。

 島根あさひのプログラムのなかでも、対話を通して自分自身を見つめ、多様な要因に気づき、悩み続ける姿が印象的だ。償いは終わるのか?終わらせても良いのか?過去と向き合いたくないという自分に気づいたという人も。自分の過去を見つめる中で、家族にもっと愛してほしかったと伝えれば良かったと気づく人も。どれも答えは簡単には出てこない。対話の度に新たな自分自身の課題を見つけていく。こうした中で悩み考え続ける。決して「人それぞれ」といった安易な言葉に飲まれることもない。定期的な対話によって各々がかき乱され、悩まされる。山口(2022)によれば、正しさは「人間の生物学的特性を前提としながら、人間と世界の関係や人間同士の間の関係の中で、いわば共同作業によって」(p.9)作られていくという。対話は「人それぞれ」といった相対主義に陥らないためにも重要である。

 こうしてみると、罪を犯した人に対して、単に罰するだけでは不十分で、むしろ更生し社会復帰していくために必要な手立てを講じる必要があると分かる。それだけでなく、そうしたプログラムにおける対話の重要性にも気づかされる。

 菊池寛の作品に、『ある抗議書』(1919)というものがある。この作品は、肉親を殺害された男から司法大臣に宛てた抗議書という形で書かれている。強盗のために殺害された角野一郎夫妻の妻とし子の実弟が、司法大臣に対して宛てた書簡である。角野一郎夫妻は、強盗のために押し入った坂下鶴吉という男に殺されてしまう。結局その犯人は死刑になってしまうのだが、弟は抗議書の中で、坂下が獄中でキリスト教に改宗し、死の苦悶を感じずに過ごしていたことに疑念をかける。抗議書のなかでは、次のように悲痛な叫びが記述される。

世の中に於て、多くの人間を殺し、多くの婦女を辱しめた悪人が、監獄に入ると、キリスト教の感化を受け、死の苦悶を少しも感ぜず、天国へでも行く心持で、易々と死んで行っては、刑罰の効果は何処にあるのです。キリスト教にとっては、如何にも本懐の至りかも知れませんが、その男に依って、殺され辱しめられた多くの男女、もしくは私の如き遺族の無念は何処で晴らされるのです。

『ある抗議書』

国家の刑罰なるものは肉体にさえ課すれば、その囚人が心の中ではその刑罰を馬鹿にして居ようが欣んで居ようが、措いて問わないものでしょうか。犯罪なるものが、被害者の肉体のみならず、精神をもどんなに苦しめるかを考えたならば、囚人が刑罰の為に肉体的にも精神的にも苦しむと云うことが云わば至当な事ではないかと思います。私の如き遺族の数多くが肉親を殺された為に悶々の苦しみに苦しんで居るにも拘わらず、その加害者が監獄の中でも幸福な生涯を送り、絞首台上に欣々然として立つことを、典獄迄が讃美するに至っては被害者なり被害者の遺族なりは一体どう思えばよいのでしょうか。

『ある抗議書』

 人を殺し、その周囲の人の精神まで痛めつけたのだから、その人はそれ相応の罰を受けるべきだという主張は、納得できるように思われる。この場合は死刑という極刑であるため、少し例外的ではあるかもしれないが、被害者の側から見た刑務所の在り方についても考えなければならないだろう。ただ、被害者の気持ちは汲み取りつつ、加害者は反省や償いについて考えていかねばならないが、社会復帰のための更生や教育も同時に進めていくことは大切だろうと思う。少なくとも、死刑や無期懲役刑でなければ、いつかは社会に戻ってくる。そうした時のことを考えて社会復帰を支援するべきである。

 松宮(2022)は、Jakobs(2012)の「(規範)妥当維持的一般予防の理論」などを基調としながら、犯罪は「自由な意思」の産物であるから、犯罪者に責任を問い刑罰を科すことができるのだと考えることにより、犯罪者が違反した規範は引き続き遵守されるべきものであることを確認して、社会の規範的な統合を維持してきたのだと論じる。そのうえで、「刑罰」は行為者や人々の行動を制御するためとみせかけて、実は社会の中での「規範の(大筋での)維持」を狙うものにすぎず、結果的に、「問題行動」がうまく制御できたか否かは重要ではないのだとする。そして「治療」が必要な人物に「刑罰」を科すのは、その限りででも「治療」の妨げとなるという。

 刑罰が社会の規範的な統合の維持のために行われてきたという指摘は重要だろう。人を罰することで、社会をまとめてきた。権力の在り方の問題のようにも思える。ミシェル・フーコーの『監獄の誕生』などが思い起こされる。そのような時、社会に戻るための更生・教育施設としての刑務所は、どのように映るのだろうか。

 梶谷真司は2023年、「UTCP Second View」という企画も立ち上げている。この企画では、社会の中でいかにして多様な人たちが共生していけるかという大きなテーマについて、これまでとは違う別の観点(Second View)から考えることを目的としている(梶谷他2023)。この第1回講演会が3月30日に開催され、松山刑務所の高野洋一所長を招いている。こうした取り組みの動向には注目したい。また梶谷(2024)は、宮崎東高校定時制夜間部での哲学対話にも取り組んでおり、以前より問題意識として挙げられた学校教育における責任などの問題を踏まえ、定時制(とくに夜間部)という環境条件が果たす役割について論じている。学校教育を含めた社会構造に対話を包丁にしながら切り込むというのには、個人的に共感を覚える(ただ、梶谷(2024)は何を目的とした論文か分かりにくく、哲学対話をやっていこうという「スピリット」がどのように醸成されたのかについて、教諭の努力や学校としてカリキュラム・マネジメントに取り組んでいたことなど、定時制高校であるという環境要因ばかりに着目するには多少疑問符が浮かぶ点で、物足りなさはあった)。

 学校の規範的な統合のためには、様々な取組みがなされている。最近は「あだ名」「呼び捨て」は禁止し、「さん付け」呼称を指導する小学校が増えているという。こうした指導の多くは、身体的特徴を揶揄するようなあだ名などは、いじめにつながるケースがあることなどを踏まえて行われているようだ。こうした指導に関しては、興味深い研究がある。小山(2014)は、学級生活における「さん」付け呼称について、多くの児童は肯定的感情を持っていること、また、「さん」付けそのものは児童の間に「やさしく」「丁寧な」人間関係を構築するために有効である可能性があることを示している。この研究は質問紙調査の項目の設定が故意的ではないか、「さん」付けを「まじめ」と捉える児童に関する考察が不適切ではないか、といったような感想をもつようなものであるが、「さん」付けに関して、教師と生徒の距離感に問題が生じるのではないかといった素朴な考えを問い直す、示唆に富んだ内容であると言える。

 中途半端だが、今日はここまでにしておく。

【参考文献】
・生田綾「罪を犯した人は「変われる」のか? 刑務所を撮影したドキュメンタリー映画『プリズン・サークル』に込められた思い」『HUFFPOST』(2020年1月24日)
(https://www.huffingtonpost.jp/entry/prison-circle_jp_5e2953d8c5b6d6767fcf2600 )
・加賀乙彦(2006)『悪魔のささやき』光文社新書.
・梶谷真司(2018)『考えるとはどういうことか:0歳から100歳までの哲学入門』幻冬舎新書.
・梶谷真司, 堀越耀介, 宮田晃碩, ライラ・カセム, 山田理絵「【報告】松山刑務所・髙野洋一所長ご講演「刑務所の現状と社会復帰支援」①」『東京大学大学院総合文化研究科・教養学部附属 共生のための国際哲学研究センター』(2023年9月22日)
(https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2023/09/post-1015/ )
・梶谷真司(2024)「アクティビティではなくスピリットとしての哲学対話:宮崎東高校定時制夜間部での実践」『哲学対話と当事者性:2019-23年度科学研究費補助金基盤研究(B)(課題番号19H01185)「哲学プラクティスと当事者研究の融合:マイノリティ当事者のための対話と支援の考察」研究成果報告書』
・菊池寛(1919)『ある抗議書』
・國分功一郎、熊谷晋一郎(2020)『〈責任〉の生成:中動態と当事者研究』新曜社.
・小山昂志(2014)「学級生活における「さん」付け呼称の受け止め方と使用に関する研究:A県B市立C小学校の学級への関わりを通して」日本学校教育学会[編]『学校教育研究』第29巻.
・坂上香(2022)『プリズン・サークル』岩波書店.
・松宮孝明(2022)「治療的司法と刑罰との対話」『治療的司法ジャーナル』第5号.
・山口裕之(2022)『「みんな違ってみんないい」のか?:相対主義と普遍主義の問題』ちくまプリマー新書.
・Jakobs G. (2012). System der strafrechtlichen Zurechnung.

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