庄井良信(2014)『いのちのケアと育み:臨床教育学のまなざし』(かもがわ出版)を読んで


庄井良信(2014)『いのちのケアと育み:臨床教育学のまなざし』(かもがわ出版)を読む。「子どもや若者のかけがえのない〈いのち〉(尊厳ある生命のいとなみ)そのものに、根源的な敬意をもって寄り添い、共存できる他者として伴走していくことが、私たち大人や社会に求められて」(p.4)いるとし、そうした営みを「いのちとケアと育み」と表現している。

この本の中で特に印象的なのは、「ケアリング・リレーションズ」(p.34)である。「つまづきながら、とまどいながら、自分が心とからだで感じていることを、静かに、ゆっくり、穏やかに語り合い、それをていねいに聴き取り合ってくれる仲間がいることへの安心感と信頼感」(p.35)。そうしたケアリング・リレーションズを職場や地域で育み合う。そして、「援助者としてのさまざまな悩みや立ち止まりを、自分たちが誠実に生きようとしている証しとして、受けとめ合い、聴き取り合い、語り合っていくいとなみ」(p.78)である「子ども理解のカンファレンス」を展開していく。そこでは、援助者同士がケアし合う関係が構想される。

こうした援助者同士の「ケアし合う」関係について、この本を読むまでよくわからなかった。私は多職種協働に関心があるので、教師とスクールカウンセラーの関係を考えてみる。教師とスクールカウンセラーは、どちらも子どもにとっての援助者である。ケアし合う関係を、援助者と被援助者の関係において考えるのは、イメージとして捉えやすい。教師はケアすると同時に、ケアされる存在でもあるのだ。ただ、援助者同士、ここでいう教師とスクールカウンセラーのケアし合う関係は、あまりイメージが湧かないし、むしろその必要性すら疑問に思えてしまう。

ただ、被援助者が苦しみを抱えているのと同様に、援助者も深い痛みや困難を抱えて生きていることに目を向ければ、そこでの慈しみや配慮(ケアリング)という視点からの再考は、意味のあるものとして立ち現れてくる。この本を読んで、援助者のケアし合う関係は大切なものだと改めて感じられた。

しかし、そういったケアし合う関係に「学び合う」関係が重なり得るかどうかについては、更なる検討が求められるだろう。一つのカンファレンスの中で両立しうるのか、あるいは別々のカンファレンスとして考えるべきかどうかは、この本ではよくわからなかった。私はあくまで専門職の学習共同体を基盤に多職種コミュニティを考えたい。そうした時、ケアし合う関係と学び合う関係が同じカンファレンスの中で両立しうるものであれば、専門職の学習共同体の中でのケアし合う関係をどう位置付けていくかを論じなければならない。ケアし合う関係を無下にすることはできないし、したくないからだ。ただ、ケアし合う関係と学び合う関係が別々のカンファレンスとして立ち現れるのであれば、専門職の学習共同体としてはケアし合う関係を取り入れることよりも、複数の多様で多層的なコミュニティの展開の在り方を検討する必要が出てくる。こうしたところが、現状での課題なのだろうと思う。

また、この本で印象的だったのは、フィンランドの実践がよく取り上げられているところである。それは庄井さんがフィンランドでの動向を注視していることもあるが、その中では社会構成主義に関して論じられるところもあった。やはり社会構成主義からは逃げられそうにない。しっかりと学ぶ必要があると感じた。

ただ、「物語のある学び」(ナラティブ・ラーニング)という発達援助の理論・実践の提唱が、「学びを学ぶ」(learning-to-learn)プロジェクトや、「マインド・マップ」等を教材として用いた社会構成主義的な学びの技法などが、「認知中心主義」の枠組みを超えておらず、現代における発達諸科学の成果(情動と認知とのダイナミックな統合による自己の構築や、社会や文化へひらかれた自己の構築など)を十全に反映していないという批判などから始まったことなどを考えると、社会構成主義と「ナラティブ・ラーニング」などのナラティブな動きとの関係性がよく掴めなかったところもあった(pp.123-124)。このあたりの関係性を明瞭にしていくことも、今後の課題なのだろうと感じた。

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