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「いま」が生み落とされる瞬間の美しさーー宮野真生子×磯野真穂『急に具合が悪くなる』(晶文社/2019年刊)

編集者であられる井上慎平さんのエントリーを通して出会った一冊。
今日手に取ってまだ読みかけだけど、左胸のあたりにぐさーっと刺さったのでメモを残しておく。
たぶん追記すると思う。

癌になった(という表現自体が非常にナンセンスだけど)哲学者・宮野真生子さんと、その後輩的立ち位置であられる人類学者・磯野真穂さんとの往復書簡という体裁。

タイトル通り、「急に具合が悪くなったら」あなたはどうするーー?という備える方向ではなくって、「急に具合が悪くなるかもしれない」自分なんて、そもそもコントロールなんてできないよね、という不確実性にまつわる話(だと思う)。

ここでちょっとわきにそれると、筆者はリリー・フランキーさんのコラムが好きで、みうらじゅんさんとの対談本に『どうやらオレたち、いずれ死ぬっつーじゃないですか』(新潮文庫/21年刊)があるが、この本の雰囲気を勝手に要約すると「まぁ考えすぎずに気楽にやりなよ、人生」。

これは「どうせ死ぬんだからサ」と投げやりになることを推奨しているわけではなくて、「まぁまぁたまにはコーヒーの代わりにほうじ茶でも飲みなよ。そうそう、その湯呑みって樹齢100年のケヤキの木でできててさー」ぐらいに、ほっと一息、思い悩んでいる人のリズムや目線の高さを変えてあげるぐらいのトーン。

で、この『急に具合が悪くなる』も、死(DEATH)が一つの前提にはなっているが、それを出口みたいに捉えてそこから現在までを逆算する人生ーーかつてのニュータウン/なう廃墟な感じは、ちょっと違うんじゃね……? そんなふうにうっすら思っている方向けの一冊なんじゃないかなと。

癌が多発転移したことで、主治医に緩和病棟を探すようすすめられた宮野さんは、もやもやを抱えながらも治療や仕事と並行して「正しい情報」、つまり第三者的に正しいとされているインフォメーションの森にわけいる。そして、とても疲れてしまう。そこでは「こうなるかもしれない」「ああなるかもしれない」という未来に対して、第三者的な選択肢が与えられる。つまり個人が自ら選び、決める必要に迫られる。でもこれって矛盾していて、もはやそこに自分はいない。

そこで宮野さんは、いったん京都に帰ることにします。これはもう、決めるとか選ぶとかではなくて、「勝手に動いてしまっていた」という感覚。で、そこである病院に巡りあう。宮野さんはとても自然に、そこに落ち着いてゆく。

ここで「どうせ死ぬ」みたいな考え方、捉え方を振り返ってみる。

それは避けられない事実かもしれないけれど、少なくとも今の自分は生きている。死そのものから遠ざかることはできなくても、誰だって苦しんで死にたくはない。そう思えば、正しいとされる行動や選択というのはあると言えばある。それを一度選んでみる。「急に具合が悪くなる」かもしれないから、常に主治医の半径10キロメートルにいて携帯電話はオンにし、遠出しなければならない予定はいれないようにする。そうすると少なくとも悲惨でみじめな死を迎える可能性は低くなる、と予測されている。

でも逆に、少しそこから外れてみるとどうだろうか。勝手に動く身体に任せてみる。そうするとその先でこれまでとは全く違う道のようなものが、無数にあらわれる。えっ、こんな道あったんだジンセイ。既に動いて温まっている身体は、道を選ぶ必要すらない。すっとそこに入っていく。そういう感覚。

ぴたっと止まった状態のものを動かすには、すごいエネルギーがいる。「確実」だと思われた世界にひびが入ってしまうのはそういう時。そうではなくて、とにかく動いておく。不確実性に身を委ねる。

『急に具合が悪くなる』というド直球で誠実な傘(タイトル)。
独特の侵入角度をもって、斜めに入ってくる一冊だった。

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