「本を読むこと」との出会い
誰しも、本好きな人は〈読書〉と出会ったタイミングを記憶しているのだと思う。
自分の場合、子供の頃(たぶん小学校の低学年の頃)に読んだ『フランダースの犬』が、生涯における読書との出会いだと思っている(いきなり#影響を受けた本10選 ではない本ですいません)。老いた母親は「そうではない」というのだけれど、自分の記憶では「初めて読んだ本が『フランダースの犬』」という認識は動かしがたいことであって、もしかするともっと幼い時分に絵本のようなものを自分で読んだことはある(そして親はそれを息子の「初めての読書」と認識する)のかも知れないけれど、「初めて本を読んだ」ことと、「本当の意味での読書に出会う」ことは違う。
それはさておき、『フランダースの犬』は、何度も読んだ。これははっきり覚えているのだけれど、初めて自分で読み通したことが嬉しくて、見返しのところに日付と感想を書いた。読み返すたび、読んだ日付を書き留め続けた。何度も読んで、何度も記録を残した。そのたびにネロとパトラッシュの境遇に胸を痛めながら。
「ただの紙に、インクで文字が書かれているだけなのに、なぜ自分はこんなに感動しているのだろう」
いま思うと、変な子供だったのかも知れないけれど、僕は『フランダースの犬』という物語に惹かれると同時に、『本』という概念的かつ物理的な存在にも惹かれた。なぜ、紙にインクで書かれた何かで、こんなにも心が動かされるのだろう。
アル中気味だった(最後は本当にアル中で命を落とした)おじいちゃんが好きで、散歩に連れて行ってくれるたび、本屋におじいちゃんを連れ込んでは図鑑や伝記を買ってもらっていた。自分では覚えていないのだけれど、「僕は一生、毎日本を読める大人になりたい(そういう生活がしたい)」と言っていたらしい。
幸いにして、いまの自分は、いつでも好きなときに、たいていの本は手に入れて読むことができる境遇にある。ただ、その幸いのゆえに、『フランダースの犬』と出会ったころの純粋な気持ちで読書と向き合えているか、と問われると、すぐには答えられない。もちろん、好きな本を読み、知らなかったことに出会い、物語に感動することの喜びは、いまも変わらない。ただ、一冊の本を何度も何度も、ボロボロになるまで読んで、そのたびに日付を書き記していたようなひたむきさは、当然のことながら薄れてしまった。いまでは一冊の本を読み終えると、すぐに次の本を手に取る(読み終えないうちに手に取ることもある)。いわゆる「積読本」は山をなし、「読みたい本」のリストは棚卸しするのも面倒なくらいに長くなっている。一冊の本とじっくりと向き合いたいと願いつつも、できるだけたくさんの本を読みたいという願望とのジレンマに悶えつつ毎日を過ごしている。
ネロは画家になりたかった。そうなることを望み、大聖堂に飾られたルーベンスの絵のもとで、パトラッシュとともに亡くなり、永遠となった。その姿を何度も何度も読み返していた幼い頃の自分は、「本を読む人」になることを願った。その願いは、形式的には叶えられたが、当時の自分がいまの自分を見たとき、なりたかった自分になれたと喜んでくれるのだろうか、とくだらない妄想をしたりする。
妄想ついでに、もしもネロが生きながらえて、望み通り画家になっていたとしたら、彼はどういう画家になっていただろう。
「画家」と「読者」は一見異なるように思えるけれど、『フランダースの犬』から読書人生をスタートした自分にとっては、どちらも生涯をかけて〈自分だけの生きた証〉を追い求める表現者であるように思える。多くの画家がそうであるように、その探求は終わることはなく、未完に終わる運命にある。そして読書もそうだろう。
読者とは、その運命を受け入れてなお、本を読み続ける人びとのことを指すのだと思う。
幼き日の自分が喜んでくれるかどうかは別として、現在の僕は「本を読み続ける人びと」の端くれであることは自認していて、今後もよほどのことがなければ、このあり方は変わらないだろう。
でも、その先は?
往々にして、何かを懸命に追い求めるとき、行き着いた先で人は原点に邂逅する。
自分もまたネロのように、彼にとってのルーベンスの絵のもとで、完全なる何かを眩い光の中に仰ぎ見つつ、読者としての人生を終えるのだろう。いまはまだ予感に過ぎないけれど、おそらくそうなるだろうし、そう有りたいと思う。
結局のところ中年になった自分もまた、老年の自分に望むことは「一生、本を読み続けること」だ。子供の自分が望んだのとは、また違った意味ではあるけれど。