「人工子宮」がもたらす差別と分断と富の集中
ニューズウィーク日本版が「女性の胎内で育てる必要はなくなる? ロボットが胚から育てる人工子宮システムを中国が開発」という記事を掲載している。
中国で、人工子宮の中で胎児に成長する胚を監視しながら世話をする人工知能システム「AIナニー(乳母)」が開発されたというのだ。
まだまだ人工子宮で受精卵を新生児にまで育て、産み落とす技術への到達までは時間が掛かるかもしれないが、そんな世界は確実にディストピアになる。
なぜって?それは私たちが人間だからだ。
人工子宮がもたらす確実な差別
人工子宮で人間を「生産」できるようになったら確実に差別が生じる。映画「ガタカ」や小説「すばらしい新世界」で描かれたような分断と争いが起こる。これは絶対にそうなる。
生まれたところや皮膚や目の色で盛大に差別をし続けている人類が、母親から生まれたか、試験管から生まれたかで差別をしないはずがない。これは自明すぎて論証する必要もないレベルの話だ。
なので実際にそういう世界になったら何が起こるのか、若干ディストピアSF的な話になるが具体的に考えてみよう。
試験管ベビーと教育の問題
問題は試験管ベビーの方が人間の女性の子宮と産道という物理的制約、そして十月十日の妊娠期間という時間的制約を受けずに胎児を育成できるということだ。
これはつまり、自然児よりも成長した時点で「誕生」させることができるようになる。より大きく安定した段階で誕生させることには当然メリットがある。生理的現象に制約されなければ最適解を選択することができるのだ。
これはつまり、試験管ベビーは同じ生年月日の自然児よりも脳や身体が発達した状態でスタートできる。
これは「早生まれの子ども若年の頃ほど不利」って話の発展版にもなる。半年の生まれの差が乳幼児期にどれほどの違いを生むか、子育てをした人ならよく知っているはずだ。
そして、自然児と試験管ベビーが同じ教育制度の中で育てられるとしたら、試験管ベビーが少なからずアドバンテージを持つことになる。
もちろん自然児と試験管ベビーを別の教育制度で育てるとすれば、それは生まれ方による差別の根幹となる。
自然児用の学校と試験管ベビー用の学校、どちらがより企業にとって望ましいキャリアになるかは言うまでもないし、その選択は生まれによってのみ決定されてしまう。
「ガタカ」は大人になってからの話だったが、学校での選別は物心も付かない子どもが努力で逆転できる部分ではない。
試験管ベビーと遺伝子操作という最凶のコンボ
試験管ベビーの有利さは当然これだけには留まらない。現代ですら出生前に障害がある子どもは中絶を選ばれる可能性が高いが、女性の身体に負担を掛けない試験管ベビーではこうした取捨選択はさらに気軽になる。
優秀かつ欠損のない遺伝子を掛け合わせた卵から培養することは、人工子宮以前に実現する可能性が高いが、これに遺伝子操作を組み合わせれば知力や体力に富んだエリートベビーを容易に「生産」できるようになる。
例えばこの研究を実施した中国が、ひとりっ子政策の帰結としての人口減少を補うためとしてエリートベビーを大量生産する「すばらしい新世界」のような未来も十分に想像はできる。
ナチスが統治下のノルウェーなどで行った、未婚の白人女性に優秀なアーリア人の子を出産させるレーベンスボルンのような優生思想に満ちた活用もいくらでも起こりうる。
富の集中のための手段とも
これを国家ではなく富裕層が使えばまた話は違ってくる。大勢の優秀な自分の子どもを生産し、自らの事業の根幹をこうした家族らでまかなうようになれば、現在の富の集中は一層進み、さらに長期間にわたって固定されることになる。
試験管から生まれた大勢の優秀な富裕層の家族による富の独占と支配。「1984年」とはまたひと味違うディストピアの到来だ。
人間がこれまで完全には制御できなかった「子どもを産む」ことがコントロールできるようになれば、そうした世界では生まれ方と血統が最も重要な要素となり、富の集中と固定のための道具とされるだろう。
それはいわゆる全体主義というよりも、むしろ中世の身分社会に近い。ただしそれが血族という集団に紐付く優秀な遺伝子によって統制されると考えれば、その堅牢性は中世の比ではなくなる。
人間は人工子宮を使いこなせるほど理性的存在ではない
人工子宮を神々の領域として神聖視することは適切ではない。それは純粋に技術であり革新である。
残念ながら、人間がそれを使いこなせるほど理性的でもなければ倫理的でもないということだ。
今ある差別や貧困ですら私たちはなくすことができず、多くの悲劇的でおぞましい事件が世界中で起こっている。場合によってはそれらは紛争や戦争にまで発展し、長い禍根を残してる。
そんな人類が、これまで以上にクリティカルな差別と格差の源泉となる人工子宮に手を出して無事で済むはずがないのだ。
つまり、すべては我々人間がそこまで「至れない」という話になる。パンドラの箱の中の災いを全部あわせたよりも、恐ろしいのは我々人間なのだ。