言葉は時に人を救う。
言葉は時に人を殺す。
ある意味、言葉は実態のある武器よりも怖い存在かもしれない。
人間は文字を発明したことで言葉を残す術を得たわけだけれど。
文字が発明される前から言葉は存在し、そしてそれら言葉は残ること無く流れさっていたことであろう。
現代においてだって。
文字にされない言葉は復元することも残すこともできない。(まぁ、今は音声自体を保存する術があるけれど)
インターネットという場の存在が現れ、「誹謗中傷」なる、暴力の手段として使われる行為が目立つようになった。
しかし。
遥か昔、ローマの遺跡からも、それら暴力としての言葉が落書きとして見つかるというし、日本にも「怪文書」なるものは遠く昔から存在する。
インターネットが悪いのではなく、ただ単に人の醜さが暴力として使われる言葉として可視化され、それらが一瞬で全世界に共有させるものだから、それらが目だつようになってしまった、と言うことではないのだろうか。
しかし。
考えてみれば哀れである。
暴力としての言葉を垂れ流している人間は、結局のところ、自らの醜さを自ら全世界に晒しているということなんだから。
詰まるところ。
自ら発した言葉は、自らに帰る、ということか。
冬の空の下。
そんなことを考えながら。
街路樹の紅葉の美しさを汚さんと。
自らの口をつぐむ昼下がり。
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