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気功の正体とできること

まず、結論から言ってしまえば、「気功」というものは、体操でも呼吸法でもありません。また、瞑想でもありません。
では、気功とは何かと言えば次の3点に集約できます。

①気を気として感じること
②気を通すこと
③気を精錬すること

①はシンプルに言えば「気の感覚」「気感」の獲得ということですが、実際はそこに留まらず、気の質を見極めるということになります。
気には邪気もあれば病気もありますし、正気も真気もあります。
つまり、より良い気を得ているかどうか、それが正しく運用されているかどうかを確認する能力を得るということです。

②はいわゆる、十二正経や奇経八脈および奇穴や絡に気を通していく能力になります。気は正しく通ることが重要で『奇経八脈考』で李時珍が引用しているように「身体軽健、容衰返壮、昏昏黙黙、如酔如癡、此其験也(身体は軽く健康であり、加齢で容貌は衰えてもむしろかえって生命力は素晴らしく、しかも眠ったように静であり、酔っているようでもあり、バカのようでもある。これがその達成の目印である)」のように導く能力を養うことになります。
また、新医学気功の創始者である楊峰老師は「養生において気とは酸素であり、気が満ちた状態とは全身のすべての細胞が正しく酸素を得て、正しく代謝する状態」と言っていますが、この状態を保つためにも重要になります。

③は気は正しく運行させることで精錬されていくので、天地の気が自然と正しく巡るように、身体の気が正しく巡る状態を維持することで、気の質が向上していくことを言います。
言えば天地自然の大きな周天(技法としての大周天ではない)に従って、より正しく、より濃密に、より微細にといったことを同時並行して身体の気を運行することに目的があります。

上記の通りこれらの3点は相補的な関係にあり、これを螺旋状に(スパイラルに)円転して向上させていくことが気功の本義です。
螺旋ですので、上達するとまた前に戻るような感覚、言ってみれば初伝が奥義のような感覚は生じるのですが、それは非常に似た座標にはいても高さや深さの面で差異が生じているのです。

この本義を達成するために、動功も、静功も、薬食も節制もあるわけです。

また、「身体」と書きましたが、意識や感覚、また思考や直覚などはこの「身体」に含まれるものです。
気自体は以前にも書いたように「血と一緒に体を運行し生体をなさしめるもの」でもあり、「内丹の重要な要素」でもあり、「森羅万象の根本でありそのもの」でもあるものです。狭く考えれば私たちは身体に内在しているわけですが、③に書いたように、非常にオープンなもので、身体と自然はたとえば暑くなれば汗をかき、寒くなれば鳥肌をたて、といった自然と一体の影響関係にあり、呼気や吸気、摂取と排泄・放出などで一つの循環の中にあります。
また、人間はこれらのことを高度に、精錬させつつ行うことができる客観性や知性を持っていますし、それを言葉や文字で伝達・記録できる能力があります。

もう少し言葉を変えれば、この循環の高度化こそが人間の能力であり、気功の目的とするところです。


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