25、幻の友人⑥ タケシとの再会。そして別れ
夏休みを数日後に控えたある日だった。その日も僕は学校で普段通り振る舞っていた。友達と笑い、授業を受け、無難にやるべき事をこなしていた。そのうえで僕はチャンスを窺っていた。タケシと出会えるチャンスを。僕は良いと思えるタイミングがやってくるのを、虎視眈々と待ち構えていた。そして、やっとそのチャンスは訪れた。
四時間目の授業中だった。突然、校内にけたたましく非常ベルの音が鳴り響いた。僕のクラスは騒然となった。「誰かが間違って火災報知器のボタンを押したか?」「それとも避難訓練か?」 などとクラスメート達は色めき立っている。担任の先生が生徒達を落ち着かせようとしていると、校内放送が流れた。
「一階の給食室で火災が発生しました。生徒達は先生の指示に従い、速やかに校庭に避難してください。これは避難訓練ではありません。繰り返します……」
そんな内容だった。そうなのだ、その日学校で火事があったのだ。クラスメート達は歓声を上げ、先生は「笑い事じゃない」と怒っていたのを覚えている。僕も先生には悪いと思ったが、チャンスが訪れたと内心小躍りした。この混乱に乗じてタケシを探すのだと僕は決意した。クラスの誰よりも悪いことを考えていたのは僕に違いなかった。
僕達は先生の指示で、普段は座布団として使っている防災頭巾を頭に被った。その銀色の頭巾を避難訓練以外で被る事などなかった為、クラスのみんなは大騒ぎだった。
先生に促され廊下に出た僕達は、二列縦隊で並ぶよう指示された。他のクラスの生徒達も何やら騒ぎながら廊下に出てきていた。「なんだかお祭りみたいね」と隣にいた女子生徒が笑っていたが、確かにその通りだなと思った。しかし、僕の心にはタケシに会える喜びだけでなく、これからどのように行動しようかという緊張感も同じくらいに存在していた為、やはりお祭り気分とはだいぶ違っていたかもしれない。
廊下に出た僕達が二列縦隊になると、先生の点呼が始まった。長い廊下のあちこちから、他のクラスの点呼をしている声も聞こえてくる。
点呼を終えると先生が僕達に説明を始めた。
「みんないい? 給食室はこの真下あたり、一番西側になるから、すぐそこの西側の階段は使用できません! そこの階段ではなく中央の階段を使います! だから、私達のクラスは他のクラスが行った後、一番最後に階段を使います! みんな落ち着いて行動するように!」
クラスメート達の「はーい」という返事に混ざり「えー」という落胆の声も聞こえてくる。僕はほくそ笑んだ。いや、落胆の声が面白かったからではない、これは好都合だと思ったからだ。僕は二列縦隊の一番後ろになるのだが、僕達のクラスが一番最後に階段を下りるのなら、僕の後ろには誰もいない事になる。これは願ってもいなかった幸運だと思ったのだ。
そんな事を考えていた時だった、突然「ドン!」という大きな爆発音とともに校舎が揺れたような気がした。女子生徒達の悲鳴が響き渡る。一階の給食室で何かが爆発したのだ。すると廊下の窓から、一階の給食室から出たのであろう黒煙がもくもくと上がってくるのが眼に入った。表からは消防車のサイレンの音も聞こえてきた。
一気に事態は緊迫感を増した。廊下のあちこちで女子生徒の泣き叫ぶ声が聞こえる。クラスの男子生徒達も青ざめた表情をしている。僕もこれはただの火事ではないなと思った。きっとニュースでも取り上げられるような火事なのだと。
「落ち着きなさい! 大丈夫、慌てない!」
先生がクラスのみんなを必死で落ち着かせようとする。他のクラスは階段を下り避難を始めているようだ。クラスのみんなは息を飲み、自分達のクラスが動き出すのを待っている。すると、僕達の頭上にあるスプリンクラーから勢いよく水が噴射された。みんな驚いて悲鳴を上げた。女子生徒の何人かは先生にしがみつき怯えている。僕は防災頭巾を叩きつける水の音を聞きながら、僕もひょっとしたら死んでしまうかもしれないと思った。タケシに会っている場合ではないかもしれないと。やっぱり死ぬのは僕も怖い。でも、でも……。
その時、僕はおかしな事に気づいた。スプリンクラーは、どうやら僕達のクラスの頭上にあった数個だけが作動したらしかった。隣のクラスの生徒達は水を浴び続ける僕達を心配そうに眺めている。僕はハッとして思った。これはタケシの仕業なのだと。僕とタケシがちゃんと会えるように、タケシが仕組んだのだと。いや、ひょっとしたらこの火事自体もタケシの仕業ではないかと思った。学校全体を混乱させてまで、人を危険にさらしてまで、タケシは僕に会いたいのではないかと……。だとするならば、その熱量は狂気の沙汰だ。そう思った僕はタケシに対して、少なからぬ恐怖を感じた。
水が止まった。すると先生の大きな声が聞こえた。
「さぁ、歩いて! 私達のクラスも校庭に避難します!」
僕達のクラスが動き始めた。僕は一瞬迷った。……どうしよう、このままみんなと一緒に校庭に避難し、また別の日にチャンスをうかがうという方法もある。おそらくこれは凄い火事だ。僕は死んでしまう可能性もある。……どうする? 行くか、やめるか?
「お兄ちゃん!」
その時、タケシの声が聞こえたような気がした。……そうだ、タケシは僕を待っているのだ。タケシは、この混乱した校舎のどこかで、ひとりぼっちで僕の事を待っているんだ。タケシには、誰も友達はいない。僕だけがタケシの友達なんだ。僕はタケシに会いたいんだ!
僕は迷いを断ち切ると意を決した。僕はタイミングを見計らいクラスの列から離れた。そして僕はみんなとは逆の方向、西側の階段に向かって走った。タケシがいるとしたら、おそらく校舎の西側だ。なぜか僕はそう思った。それも西側の一階、燃え盛る給食室の辺りにいるのだと……。
僕は西側の階段に辿り着くと、階段を「1段飛ばし」をしながら駆け下りた。給食室が焼けているのだろう、焦げた臭いが鼻をつく。僕は火の勢いを想像すると恐怖を感じたが、それでも気持ちを奮い立たせ足を止めなかった。
3階を過ぎ2階に差し掛かると、焦げ臭さは一層増した。まるで校舎の裏にある焼却炉の中にいるような、そんな感じを抱いた。白い煙が辺りに漂っている。僕は数段階段を下りたがそこで足を止めた。……煙で息がしづらい。僕はズボンのポケットからハンカチを取り出すと口に当てた。……ダメだ、これ以上は進めない。これ以上進むと呼吸ができずに死んでしまうかもしれない。
「タケシ!」
僕はその場から大きな声を出してみた。……しかし、タケシの返事はない。タケシはきっとすぐそこにいる筈なのだ。僕の心がそう感じている。もう、きっとタケシはすぐ近くにいるのだ。
僕のいる所から何段か下りると踊り場になっていて、そこからぐるりと180度回れば1階の様子が見える。僕はせめて踊り場まで行ってみようと思ったが進む事ができない。眼に煙が入り涙が出てきてまともに物も見えない。あそこまで行って1階が見えれば……せめて、あそこまで。
「お兄ちゃん!」
タケシの声が聞こえた。
「タケシ、タケシ!」
僕はタケシの名を呼びながら、一段一段階段を下り始めた。
「お兄ちゃん!」
再びタケシの声が聞こえた。タケシはやはり一階にいるようだ。おそらく階段のすぐ脇の給食室の前だろう。
「僕はここにいるよ!」
「タケシ、こっちに来るんだ! 僕はこれ以上進めない!」
僕は再び足を止めた。踊り場までは辿り着いたが、煙が凄くて呼吸が苦しい。周囲も全く見えない。
「さぁ、僕のところへおいで! 僕が君の事を助けてあげるから!」
僕はハンカチを口にあて身をかがめタケシの返事を待った。しかし、タケシは何も答えない。
「タケシ――」
「お兄ちゃん」
僕の呼びかけに被さるようにタケシの声が聞こえた。タケシの声はすぐ近くに聞こえる。タケシはすぐそこまで階段を上ってきたらしい。しかし煙で姿は見えない。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんと僕は友達?」
タケシの声は、階段の手すりを挟んだすぐ向こうから聞こえる。もう、タケシはすぐそこだ。
「友達だ! 当たり前だろ!」
「でも……」
「でも、どうした!」
「でも、お兄ちゃんは僕の本当の姿を知らない……」
そう言うとタケシは黙ってしまった。僕はなかなか姿を現さないタケシにイライラとしてきた。
「本当も何も、タケシは僕の友達だ! タケシがオバケだって……僕は友達だ!」
僕は一瞬、少し言い過ぎたかと思った。タケシの事をオバケと言ってしまった。……でも、その時まで僕は、タケシがオバケ――霊だとしても友達でいようと思っていたのだ。……あぁ、その時まで僕は本当にそう思っていたんだ!
「……本当だね?」
「嘘なんかつくもんか!」
僕はハンカチで口を押さえながら、足で探るようにしてジリジリと歩みを進めた。すると、すぐ眼の前に誰かが立っているシルエットが見えた。
「お兄ちゃん……」
「タケシ……」
煙の為によく姿は見えなかったが、そこに立っているのはタケシだった。……僕は涙が出そうになった。一ヶ月近く、僕の前から姿を消していたタケシが、とうとう眼の前に現れたのだ。
「お兄ちゃん、僕達はずっと友達だよね?」
「うん、友達だ!」
「ずっと、ずっと……友達」
僕はその時、何かイヤな予感がした。何かは分からないが、身の毛がよだつような、恐ろしいものに遭遇した時に感じるイヤな空気を感じた。しかし、眼の前にいるのはタケシだ。恐ろしい存在ではない。僕はすぐにイヤな感情を押し殺した。
「お兄ちゃん……」
タケシの声がしたと同時に、タケシが僕の手を握った。しかし、そのタケシの手の感触は、何か違和感があった。
すると、辺りにたちこめていた白い煙が、スッと消えて視界が広がった。眼の前にタケシの姿がはっきりと見えた。その瞬間、僕は階段に響き渡るくらいの叫び声を上げた。
僕の眼の前にいるタケシの顔の左半分が、吹き飛ばされたようになくなっていたからだ。髪の毛は黒く焦げたように縮れ、いつもの白い半袖とグレーの半ズボンは黒く汚れ、そこから覗く腕や足は赤黒くただれていた。タケシはまるで、爆弾で吹き飛ばされ人のようだった。そして、それはきっとその通りだったのだ。
「お兄ちゃん……友達だよね?」
僕の手を握るタケシの手に力がこめられる。僕は顎がガチガチと震えて声が出せない。あうあうと口が動くのみで言葉にならない。こんなのタケシじゃない、タケシじゃないと心の中で繰り返した。
「さぁ、行こう。僕と一緒に」
タケシは右半分だけの顔で僕の顔を見つめると、そのまま僕を引っ張って階段を下りていこうとした。……ダメだ、このまま一緒には行けない。このままタケシと行くと、僕はあちらの世界へ連れて行かれてしまう!
「やめろ!」
僕はタケシの手を振り払った。
「イヤだ、僕は行かない!」
僕はタケシの右だけの眼をじっと見つめた。
「友達だと言ったじゃないか!」
タケシは納得できないようにそう叫ぶと、その気味の悪い両手で僕の右腕を掴んだ。
「やめろ、離せ!」
「友達じゃないのか!」
僕はタケシに掴まれた腕を振り払うと、タケシの顔を睨みつけた。……あぁ、そしてこの後に僕が発した言葉を、僕は一生忘れる事ができないだろう。僕は何度も何度も、この時の自分の言葉を思い出すのだ!
「お前なんか友達じゃない! このオバケ!」
タケシの右だけの顔から血の気が引いていくのが分かった。タケシはその場に立ち尽くし、無機質な表情で僕を見つめた。
「嘘つき」
タケシは呟くようにそう言った。
僕は全身に鳥肌が立った。それはタケシへの罪悪感と共に、自分自身に対して得も言われぬ恐怖を感じたからだと思う。僕はあれほど一方的にタケシに思いを寄せていたにも関わらず、自分の都合で簡単に手の平を返し、タケシを奈落の底に突き落としてしまった。そんな自分のエゴや自己中心さを垣間見た僕は、自分の未来全てがそのような「負」のイメージを持ったものに埋めつくされているような気がして、暗澹たる思いがしたのだった。
タケシはゆっくりと僕に背を向けた。再び白い煙が充満してくる。
「タケシ!」
僕はタケシを引きとめようとした。しかしタケシはもちろん振り返らなかった。それはそうなのだ、僕は本当にタケシを引きとめようとして声を掛けたのではなかったからだ。僕はタケシにこのまま消え去ってほしいと思っていた。そんな僕の気持ちは、もちろんタケシにも伝わってしまっていたのだ。
タケシはゆっくりと階段を下りていくと、そのまま煙の中に消えてしまった。僕はホッとしてその場に座り込んだ。僕はしばらくその場から動けなかった。いや、動きたいと思わなかった。再び煙が充満してきたのですぐにでも逃げなければいけなかったが、僕はその場に留まった。
「このまま僕も死んでしまおうかな」
僕の頭にそんな考えがよぎった。自分みたいなヤツは、この先多くの人を傷つけ、裏切るに違いない。そう思った僕はタケシの後を追うのも悪くないなと考えた。僕がここで死んで見せたら、きっとタケシは僕の事を見直すに違いない。「嘘つき」ではないと……。
煙に巻かれた僕は段々意識が遠のいてきた。僕はその場に倒れた。僕は口の中で何度も何度も呟いた。
「タケシ、ごめん。タケシ、ごめん……」と。
気付いたら、僕は病院のベッドで横になっていた。僕は倒れていたところを、僕がいない事に気付き探しに来た担任の先生に助けられたのだという。僕はなぜか、西側の階段ではなく、東側の階段の一階辺りで倒れていたのだという。給食室とは反対側だ。どうしてそんなところで倒れていたのかは自分でも分からなかった。医師からは、火事というショックからパニックになり、自分でも分からない行動を取ってしまったのだろうと結論づけられた。「一過性の記憶喪失」なんていう診断も受けた。なぜ東側の階段で倒れていたかは確かに分からないが、それ以外の事は全て覚えている。しかし、僕はタケシの事を話したくなかったので、そういうものだとして医師には反論しなかった。ともかく、僕は死なずに――いや、死ねずにこの世界に戻って来たのだった。
あれからタケシは僕の前には現れない。ほどなくして僕は、義理の父の仕事の都合で、また別の街に引っ越してしまった。もう二度とタケシと会う事はなくなったのだ。
あの神社があった街は、戦争のころ何度か空襲に見舞われたらしい。タケシはその時の犠牲者なのだと思う。今思えば、タケシはその当時の子供が着ていたような服装をしていた。髪型も今っぽくなかったような気もする。タケシはずっとずっと、本当に独りぼっちだったのだ。僕があの神社で、初めてあの若武者に出会った日、誰かが遠くから僕の事を見ているような気がしたが、それはタケシだったのだと思う。霊能力を内に秘めた僕とだったら友達になれるのではないかと、きっとタケシはそう思ったのだ。しかし、タケシはそんな僕に裏切られてしまった。どれだけ悲しかった事だろうか……。タケシは今でも、あの学校で独り遊んでいるのだろう。誰か、新しい友達がやって来るのを待ちながら……。
僕には再び霊能力が戻った。しかし、それと引き換えに僕は何か大事なものを失くしてしまったような気がする。いや、霊能力なんかいらないのだ。欲しくもないのだ! 神様がいるのなら、頼むからあの時の僕が持っていた大事なものを、僕に返してはもらえないだろうか? そんな事を、今の僕は思っている。