9、変わってしまった世界。迫りくる黒い生き物
――足の裏のゴツゴツとした感触。
何だろう?
薄暗くてよく見えないけれど、私の足下にはコンクリート片や鉄屑が散乱している。
――ここはどこ?
もう黒い生き物の声は聞こえない。
誰かの背中が眼の前にある。
私の視界にすぐ入るのだからシンの背中の筈。
でも、白い半袖のシャツは黒く汚れ、髪の毛も埃をかぶった様に汚れている。
カーキ色のズボンとカーキ色のブーツも黒く汚れている。
……こんな格好のシンを見た事はない。他人だろうか?
因みに私のセーラー服は冬服から夏服に切り替わっている。
「まるで戦場だ……」
眼の前の人間が呟いた。
――シンの声だ。
この人間はやっぱりシンだった。
ていうか、「戦場」って?
シンは戦場に身を置いた事なんてない。
遠くの方で何か音がする。
乾いた破裂音。……銃声? 大砲の様な轟音も鼓膜を震わせる。
多くの銃火器が使用されているのだろうか? 火薬の様な臭いが風に乗ってやってくる。
私とシンは瓦礫の間のくぼんだ空間にいるらしい。
その個室トイレ程の空間の入り口はシンに塞がれている。
私の視界からは周囲の状況が把握出来ない。
「シン?」
私は抑えた口調でシンに声をかけた。突然背後から声をかけられたら驚くのではないかと思ったから。眼の前の現実が理解しがたいものならば、なおさらそうだろうと思ったから。
「……あぁ。」
シンは驚きもせずに前を向いたまま答えると、それっきり言葉を発しなかった。それだけ眼の前に見える現実が圧倒的なのだろうか。
「アナ」
シンが呟くように私の名を呼んだ。
「……アナ、これは俺の過去の世界なのか? こんな世界、俺は見た事もない。――見てみろ」
そう言うとシンは上半身を右側によじった。私の視界が開けた。
「……どうして。信じられない!」
私は思わず声を上げた。
私の眼の前に現れた景色……そこはまさに戦場だった。
崩れたり穴が開いたりしている多くのビル。たくさんの瓦礫や焼け焦げた鉄屑。
……この場所が一体どこなのか分からないけれど、凄まじい戦闘があったに違いない。
「どうやら、ここはどこかの駅みたいだ。ホラ」
シンは瓦礫の空間から数歩外に出ると、どこか前方を指差した。
私はシンが指差す先を眼で追った。
私達のすぐ正面に見える一番大きなビルの外壁に「駅」の文字が見てとれる。他の文字は吹き飛んでしまったのか確認できない。
そうすると、このビルと私達の間の広い空間はバスロータリー?
今は瓦礫が散乱しバスは一台も見当たらず、黒焦げになった車が一台ひっくり返っているだけ。車には折れ曲がったバスストップが突き刺さっている。
「この上、すぐ上は歩道橋だったみたいだ」
シンが上の方を指差した。
「俺達の居るこの場所は歩道橋が崩れて出来た場所だろう。歩道橋はこの広い場所――おそらくバスロータリーだな――このバスロータリーの上を通ってあの『駅』って書いたビルの二階に繋がっていたんだ。ほとんど崩れて何が何だか分からなくなっているけど」
確かに、バスロータリーの中央や周囲には所々に歩道橋だと思われる残骸が残っている。
バスロータリーの周囲にいくつか残る歩道橋の橋脚と思われるコンクリートの柱を見た私は思わず首を傾げた。
「独立……解放?」
橋脚には「独立」や「解放」といった荒々しい文字が、赤や黄色のカラースプレーか何かで所々に書き込まれていたからだ。
……なぜだろう。なぜ、そんな言葉がたくさん書かれているのだろう?
「――そうか、そうか。やっぱりそうだ!」
周囲に眼を遣りながら何かを考えていたシンが、くるりと私の方へ振り返った。
「間違いない、ここは七王子駅の北口だ! ここは七王子駅なんだ!」
「そんな、まさか……」
私は全身の血の気が引くような感覚を覚えた。
「ここはあの七王子駅だって言うの? 七王子市の七王子駅? て言う事は、この瓦礫まみれのこの場所って……」
「そうだ、東京だ」
シンはニヤリとした表情で私の眼を見つめた。しかし、笑っているからといって一切楽しくなんかない筈だ。なぜなら、シンの顔は病人みたいに真っ青だからだ。
「あの正面に建っているのは駅ビルの『CELBO(セルボ)』だ」
シンは掠れた声でそう言うと、再び正面に立つ大きなビルを仰ぎ見た。
「あそこは元々、別のデパートだったけれどリニューアルしてCELBOになった。それが確か二〇一二年の十一月。だから、今俺達が存在しているのはそれ以降の時間だ」
CELBOがリニューアルしたのは二〇一二年十一月。
そうすると、二〇一二年十一月以降にこの七王子駅北口は破壊された筈。
……シンが死んでしまうのは二〇一五年九月二十三日。シンが経験出来る時間はこの日まで……。
僅か三年の間に、急激に世界が変わってしまったというのだろうか?
一体、世界に何があったって言うの!
「一体、俺達はこれからどうすれば……」
シンは周囲の状況をまじまじと眺めると、腰に手をあてたまま俯いてしまった。
さっきまで気付かなかったけれど、しばらくヒゲも剃っていなかったのだろうか? シンの口元は不精髭に覆われていた。
シンはヒゲも剃らずに、この戦場のような世界で一体何をしていたのだろうか?
私は見た事のないシンの顔を見つめながら、呆けたようにそんな事をボンヤリ考えていた。
その時、私の眼に見慣れない物が映った。
……ん?
シンは左手に何か持っている。シンの顔の不精髭のように気付かなかったけれど、シンは何かを手に持っていて、それを杖のように地面に突いている。
「シン、その手に持っている物は何?」
「え?」
考え事をしていたシンは、何だか間の抜けたような表情で私の顔を見た。
「それ、何を持っているの?」
シンは自分が手に何かを持っている事に気づいていなかったのだろう。それを顔の前に持ち上げた。
「……重い」
シンは不思議そうに呟いた。
シンの持ち上げた何かは、長い麻袋のようだ。その長い麻袋の中に、何かが収納されているようだ。
シンは麻袋の端に垂れ下がっていた細い紐のようなものの結び目をほどくと、中の何かを取り出した。
「……う、嘘だろ!」
シンは慌てたように声を上げると、手を滑らせてその何かを瓦礫の上に落とした。
その何かの全体が私の眼にも飛び込んできた。
――ライフルだ!
間違いない、確かにライフルだ。
長く黒い銃身。銃床というのだろうか、三角形のような太い部分。引き金。弾がたくさん入っているのだろう、四角いカセットみたいなものが引き金の少し前にガチャリとはめ込まれている。
「アナ?」
シンはおろおろとした様子で、すがるような視線を私に向けた。
「俺はこの世界で一体、何をしているのだろう? 俺は一体、この世界で――」
「おーい、おーい!!!」
突然、遠くから誰かの大きな声が聞こえた。私は思わず息をのんだ。
「おーい!!!」
男だろうか? 再び大きな声が聞こえた。その男らしき者は誰かを呼んでいる様だ。
すると一人の男が向かって左の方から、方角で言うと東の方からこっちに向かって走って来る姿が眼に入った。
黒い半袖にジーンズ姿の背の高い男が瓦礫の上を走って近づいて来る。
シンにも男の姿が見えているのだろう。身構えるような格好で男の方へ身体を向けている。
背の高い男は両手で何かを抱えているようだ。あれは何だろうか?
すると、シンが慌てたように手に持ったライフルをいじり始めた。
「シン、どうしたの?」
私は嫌な予感がしてシンに尋ねた。
「アイツも持っている。ライフルだ!」
背の高い男を見ると、シンと同じ様にライフルを抱えている。
シンは何を忙しなくライフルをいじくり回しているのだろうか? まさか、ライフルをライフルとして使用しようとしているのだろうか?
「シン! 撃つの?」
私は恐ろしくなりシンに尋ねた。
「当たり前だ!」
シンは慌てた様子でライフルをいじったり振ったりとしている。
どうやらシンは、ライフルの使い方が分からなくて焦っているらしい。
「黒井さ~ん!」
背の高い男がライフルを頭の上にかざしながら叫んだ。
「黒井さん! 俺です、間宮です! 見てください、カラシニコフですよ! AK―47! 俺にも支給されました!」
その男は嬉しそうな様子でシンの名字を叫んだ。
「敵じゃないのか?」
シンはライフルを扱う手を止めて、身を乗り出すようにして男の方を凝視している。
間宮と名乗る男はニコニコと笑いながらシンに向かって手を振っている。
「敵じゃないみたいだぞ」
シンはそう言うと長く息を吐いた。
「敵じゃないんだ。アイツは俺の事を知っているらしい。こっちは間宮なんて奴を知らないけれど」
「確かに知らない人ね。でも、私達を殺す気はないみたい」
私もホッとして胸を撫で下ろした。
間宮と名乗る男はすぐ眼の前まで来ると、息を切らしながら得意げな表情で持っているライフルをシンに見せた。
まだ若い、十八歳くらいに見える。
パーマのかかった様な長い黒髪、黒い半袖の右袖からは日章旗をモチーフにしたタトゥーが覗いている。
「ロスシアの誇るライフルですよ! さすが大国ロスシアだ。黒井さんのライフルと全く同じ物です!」
間宮は嬉々として叫ぶと、子猫にでもするかのように優しくライフルを撫でている。
間宮のライフルはシンの持っているライフルと同じ型の様だ。という事は、シンの持っているライフルもロスシアの誇る、カラシニコフとかいうライフルなのだろうか?
「別の解放軍の連中が言っていました! 中央の人達はロスシアの武器を手に入れるルートを確保したそうです! ロスシアの政府筋とコンタクトが取れたんスね。これからは大量の銃や兵器が手に入りますよ!」
間宮は相変わらず嬉しそうな表情を浮かべたまま空に向かってライフルを構えた。
間宮は嬉しそうな表情をしているけれどシンは怪訝な表情だ。間宮の話しの意味が分からないのだろう。私も間宮が何を話しているのか全く分からない。
「あれ、一人ですか?」
間宮は何かに気付いたようにしてシンに尋ねた。
「田嶋と美輪は? あいつら護衛なのに! 『二十三区解放軍』の人とは会えましたか?」
間宮はライフルを下ろすと辺りをキョロキョロと見回した。
「シン、適当に話しを合わせて」
私は、何が何だか分からないような様子で立ち尽くしているシンに向かって声を掛けた。
「シン、彼に合わせて会話をして。そして、今世界で何が起きているのか探って。それと――」
「……それと?」
シンは間宮に聞こえないようにでもするかのように呟くと、私の指示の続きを催促するかのように私の方へ身を乗り出した。
「――それと、念の為に、彼に私の姿が見えているのか確認してみて?」
シンは私の眼を見て小さく頷いた。
私の姿が間宮という男に見えるのか見えないのか、これは確認しておく必要がある。もし、間宮に私の姿が見えるのならば、この男は今までと違う「何か」を持った存在になるかもしれない。
それは私達にとって「良い事」なのかもしれないが、もし「良くない事」だとしたら、それはとっても困るからだ。
「なぁ、間宮?」
シンは間宮を呼ぶと、乱暴に私の顔を指差した。
「……ここに何か見える?」
私は呆気に取られた。
――って、そんな雑な確認の仕方ってある?!
「……え、何がスか?」
間宮は首を傾げた。
「何かって、黒井さんの人差し指しか見えませんが?」
間宮は不思議そうな顔をしてシンを見つめている。
どうやら、間宮には私の姿が見えていない様だ。
私はとりあえず安心した。私の姿がシン以外に見えない事に私は不満を抱いてきたが、慣れた環境が急変するのはやっぱり怖いのだ。
「いやいや、何でもないよ」
シンはぎくしゃくとした感じで無理矢理のように笑った。
「……黒井さん? どうかしました、何かヘンですよ? ……まさか田嶋と美輪が!」
間宮は真剣な表情でシンの方へ一歩踏み出した。
「あ、いやぁ別にどうもしないさ。二人はどっかその辺で色々やっているのさ」
シンは無理矢理笑いながら間宮の肩を叩いた。
「……ところで間宮、こんな事になったのは一体どうしてだと思う?」
シンは間宮に尋ねた。
……なんか変な質問、唐突だ。まぁ、仕方ない。手探りで進んでいかないと。シンもこの状況で必死に頑張っているのだろう。
「……こんな事って?」
間宮はポカンとした表情でシンの顔を見つめた。
「だから、この瓦礫が散乱してしまう様な事さ」
シンは周囲をぐるりと指差した。
「……要するに、この今の日本の現状の事ですか? それとも七王子駅が破壊された事ですか?」
間宮は間の抜けたような表情でシンに尋ねた。
……あぁ、ここはやっぱり日本なのね? 私達はやっぱり日本の七王子駅にいるのね?
きっと日本中で何か大変な事が起きたに違いない。歴史が変わってしまっている。
……歴史を変えてしまったのは私達なのだろうか?
「間宮、座ろう」
シンは瓦礫の上に腰を下ろして左側を空けた。
間宮はシンの左側に腰を下ろした。
私も二人から少し距離を置いた場所に腰を下ろした。
間宮はライフルを両手で抱え、それをまじまじと見つめながら何かを考えているようだった。
「まぁ、アレですよね」
間宮がライフルを見つめながら口を開いた。
「まぁ、こんな武器を使わなければいけなくなったのも、日本が戦争状態になってしまったのも、そもそもの原因は滝山ケンジのせいですよね?」
私は思わず立ち上がった。
……滝山ケンジ!
あの連続殺人犯が一体どうしたの? まさかこの日本は、アイツが原因で戦争のような状態になってしまっていると言うの?!
滝山ケンジの名前が出た事に驚いたのだろう、シンは突然激しくムセ込み始めた。
「……悪い。ヘンな所に唾液が入った。間宮、続けてくれ」
「……大丈夫ですか? ええ、滝山がいなけりゃ『神の御心(ミココロ)』なんていう組織は出来なかったし、中都(チュウト)のお偉いさんの孫娘も殺される事はなかった」
カミノミココロ?
何それ、それは滝山に関係した組織?
チュウトって「中都人民共和国」の事?
――話しが全く分からない!
「滝山ケンジ……あいつは犯罪者だよな?」
シンは間宮の眼をじっと見つめて尋ねた。シンの額にはうっすらと汗がにじんでいる。
「犯罪者ですよ!」
間宮は立ち上がらんばかりにして叫ぶように答えた
「ただの犯罪者ですよアイツは! 十五人も小さな女の子ばっかり殺したんスから!」
私は間宮の話しに愕然とした。
……十五人ってどういう事だ?
滝山が殺した女の子の数は八人だった筈……。それが七人も増えている!
太郎坂で車のナンバーを警察に通報したけれど、やっぱり滝山は捕まらなかったのだ。あの女の子もおそらく殺された!
……私達が歴史を変えてしまったのだ!
「滝山だって、もともとは思想なんてなかった……」
間宮は足下の小さな瓦礫を指で摘まみながら呟くようにして言った。
「……滝山に思想なんかない、犯行声明も調子に乗って出しただけ。でも警察は捕まえる事が出来ないし、模倣犯も出てくる。その辺りから、滝山は自分で自分の事を勘違いしたのかもしれない。『俺は特別な存在だ』って。だから自分の事を『預言者』なんていうふうに名乗り出した。『俺のやっている事は神の啓示だ』って色々理屈こねて。まぁ結局は捕まりましたがね」
間宮は摘まんでいた小さな瓦礫を遠くに投げると、そのまま黙りこくってしまった。
――滝山。
太郎坂の一件がそんな事態に繋がるなんて。
……全て私達のせいだ。
シンは怒っているのだろう。
眉間に皺を寄せ、ライフルの底の部分、ライフルを撃つ時に肩にあてる部分で瓦礫を何度も突いている。
でも、この戦争の様な状況と滝山の連続殺人がどう繋がるの?
「滝山はすぐに死刑になりましたけどね」
間宮が口を開いた。
「本人も望んでいたし執行までに一年もかからなかった。滝山はハイ、終わり、サヨナラ。でも、あいつの思想を信奉する信者達の存在がまずかった。『神の御心』なんていうふざけた名前の組織を秘密裏に結成して小さな女の子達をたくさん殺した。『預言者の意志を継ぐ』って。……ただのロリコンのヘンタイどもが。奴らだけで百人以上殺した。――そうですよね?!」
間宮は怒りに満ちた顔つきでシンの眼を見つめた。
「……そうだ」
シンはそう答えると、足下にあった小さなコンクリート片を蹴飛ばした。
「……その滝山に殺された女の子達の中に、中都のお偉いさんの孫娘もいたって事か……」
シンは足下のコンクリート片を睨みつけながら呟いた。
「えぇ」
間宮は小さく頷いた。
「党の実力者『許 雲山(キョ ウンザン)』、中央軍事委員会の委員。孫娘を殺されて怒り狂った許は党を動かし日本政府に圧力をかけた。『神の御心』の取り締まりに中都の人民武装警察を介入させろと。もちろん日本政府は内政干渉だと拒否しますよ。アルメリカのスタンリー大統領も、中都を強く非難した。『神の御心』は逆ギレして、中都系企業の娘を狙って殺しまくった。そうしたら仕返しとばかりに中都国内で日本人の不当逮捕が頻発した。結局、日本はその逮捕者の釈放と引き換えに人民武装警察の日本駐留を認めた。東京、大阪、名古屋、日本の主要都市全てに。人民解放軍も混じっているでしょうね。……全く、こんな事を認めたら日本は滅茶苦茶になるって思わなかったのかなぁ?」
間宮は腕を組んで首を傾げた。
シンは間宮の肩に手を置いた。
「『神の御心』の信者達は、徹底的に取り締まりを受けた。……そうだな?」
すると間宮は突然、笑いだした。
「黒井さん、俺の事を試していませんか? 試験ですかこれ? 確かに俺は黒井さんの様な闘士ではないスよ。でも俺も日本の現状を憂えていますから、本当。ただのネット住民じゃないですよ」
「悪く思うな」
「いいですけど。黒井さんの事は尊敬していますから」
シンは間宮の肩を数回、ポンポンと叩いた。
でも、シンの眼は全く笑っていない。表情も青白く今にも倒れてしまいそうなくらいだ。
「……人民武装警察の取り締まりは熾烈でしたよね」
間宮は腕で額を拭った。
「警察なんて言うけど、実態はヤクザですよ。信者に対する拷問はもちろん、その家族も拷問した。何人も死んじゃったし。日本の警察も自衛隊も情けなかったスよね! ビビって手も足も出やしない。とうとうアルメリカ軍も主要都市に兵士を駐留させて人民武装警察を監視した。もう日本はぐちゃぐちゃ、主権も何もあったものじゃない。……その後です、その後! 『神の御心』に潜入していたマルクス主義者達でしょうね、中都大使館を爆破した。木端微塵! 『革命は混乱の中で起こる』って信じている奴らだから。さて中都は怒った! 在留中都人を保護するという名目で人民解放軍を東京に向けて派兵してきた。ここに至って始まりましたよ戦争が! アルメリカ軍と自衛隊は日本海を航行する中都の艦船にミサイルをドカン! 先制攻撃を仕掛けましたよ! するとそのタイミングに合わせたかの様に『神の御心』のマルクス主義者達が霞が関の省庁を爆破! なぜか防衛省だけを残して! ロスシアが裏で一枚噛んでいるなんて噂も……。こうなるとカオスですよ!」
シンはイライラとした様子で立ち上がった。
「あぁ、全くカオスだ! 滝山をあの時ぶっ殺していれば!」
「そうですね。……太郎坂ですよね? 滝山と会ったのは? でもあそこで滝山を止められなかった恨みが『西東京解放軍』での武勇に繋がっているじゃないですか!」
そうか、シンはレジスタンスの闘士になったのね。
太郎坂で滝山を止められなかった罪悪感がそうさせたのかもしれない。
「二〇一五年九月二十三日現在、この辺りの解放軍で黒井さんの事を知らない奴はいませんよ。『西東京のメロス』……」
「お前、今日がいつだって言った!」
シンが間宮の腕を掴んで叫んだ。
「ちょっと待って! 二〇一五年九月二十三日ってシンが死んじゃう日じゃない!」
私も思わず叫んだ。
「間宮、今の時間は!」
「どうしました黒井さん? ……時間? 今は一時十分ですけど……」
間宮は腕時計を見ておろおろとした様子で答えた。
……という事は、シンが死んでしまうまであと二十分程度!
シンは峠の事故で死ぬ筈だけれどこの状況でそれは考えづらい。
大体あの峠まではここから車で三十分程かかる!
シンはこの戦場で死ぬ!
「黒井さん、間宮! 危ない!」
突然、私達の眼の前に一人の男が現れた。
白いタンクトップに迷彩柄のズボンを履いた短髪の若い男。
「逃げましょう! 人民解放軍がうじゃうじゃいる!」
白いタンクトップの男はシンの腕を取った。
辺りを見回すとCELBOの一階入り口に数人のライフルを構えた兵士らしき者がいる!
その後方からもまだ兵士が集まってくる!
シンは男のなすがままに走り出した。
間宮も走り出した。
破裂音と共に何かが耳元を掠めて飛んでくる。
――銃弾だ!
兵士達は私達に向かってライフルを撃っている!
駅から真っすぐに伸びた大通りを三人は走る。
私も一緒になって走っている!
後方からは日本語ではない怒号が聞こえる。
「田嶋! 美輪はどうした!」
間宮が白いタンクトップの男に向かって叫んだ。
「殺られた! 二十三区解放軍の奴らも何人か! ――うわ!」
田嶋という男がうつ伏せに倒れた。人民解放軍の撃った銃弾が当たった様だ。
「田嶋! ……くそ!」
間宮はその場で立ち止まると後ろを振り返りライフルを構えた。
「日本人を舐めるなよ! 『神の御心』みたいな奴らだけじゃないぞ!」
「間宮よせ! 逃げるぞ!」
シンが間宮の腕を後ろから掴んだ。
その時、間宮の頭が血しぶきと共に弾け飛んだ!
「……何て事だ! 頭が!」
シンの顔は間宮の血で真っ赤に染まっている。
「シン、逃げるのよ! 走って!」
シンは兵士達に背を向けて走り出そうとした。
でも、シンは駅前通りの先の方を見ると呆れた様な表情をして足を止めた。
「……アナ、駄目だ。見ろ」
シンは顎をしゃくり、前方を見るよう私に促した。
駅前通りの先、瓦礫が散らかった交差点のところ。
そこに、あの黒い生き物達が三体身を寄せていた。
「……まさか、そんな」
私の全身から力が抜けていった。
このタイミングで黒い生き物達が現れるなんて。
黒い生き物達は眼を開いて小刻みに揺れ、気味の悪い触手を出したり引っ込めたりとしている。
「キイキイ!」という耳ざわりな鳴き声も聞こえてくる。
「何てタイミング……。絶体絶命ね」
後方では人民解放軍の兵士達がライフルを下ろし立ち尽くしている。
兵士達にも黒い生き物達の姿が見えているのだろうか? 皆、唖然とした表情で口を開けている。
一人の兵士が他の兵士達に向かって「撃つな!」という様なジェスチャーをしている。
あぁ、シンはこの戦場で死んでしまうのだ。
死に場所と死に方は変わったけれど、今日死ぬ事に変わりはなさそうだ。
……あぁ、私達は世界を変えてしまったのだ。
あの声……神様の意志に背いてしまった。これから世界は、私達はどうなるのだろう?
シンは黒い生き物達の方へ一歩踏み出しライフルを放り投げた。
「化け物! 殺すなら殺せ!」
すると黒い生き物達は触手を身体の中に仕舞い動きを止めた。
「破壊の神よ、復活をお待ちしていました」
黒い生き物が喋った!
どこから発しているのか分からないけれど、三体のうちの一体が言葉を発した!
……破壊の神? 復活?
一体何を言っているのだろう?
この化け物達はシンを慕っているの?
時空を超えてシンの後を追って来ているの?
シンが私の肩を掴んだ。
「アナ、俺は何かおかしな存在なのかもしれない! 君がずっと俺の傍にいたり、この化け物に破壊の神呼ばわりされたり! 全ての元凶は滝山じゃない、俺なのかもしれない!」
その時、黒い生き物達は再び触手を出した。
そして触手の一部を足の様にして一斉に高く飛び上がった!
「ギエエエエイ!」
黒い生き物達は奇声を上げながら、あっと言う間に周囲のビルと同じ高さまで到達した。
「……飛んだ! あんなに軽々と!」
シンが眼を見開いて黒い生き物達の動きを追っている。
黒い生き物達は悠々と私達を飛び越え、さらに人民解放軍の兵士達も飛び越えると、大きな音を立てて向こうのロータリーに着地した。
地面が揺れて砂埃が舞う。
兵士達が黒い生き物達を指差して悲鳴を上げている。
やっぱり兵士達にも黒い生き物の姿が見えている様だ! 黒い生き物達はこの世界に存在している!
黒い生き物達は、「キイキイ!」と鳴きながら兵士達の方を振り返った。
兵士達は悲鳴を上げながらその場から逃げ出した。
黒い生き物達は身体から無数の触手を伸ばすと四方八方に振り回した。
すると二十人近くいた兵士達の首が宙に舞った。
黒い生き物達は一瞬のうちに兵士達の首を刎ねてしまった。
「ありえない……。およそ現実とは思えない」
シンはわなわなと震えている。
すると黒い生き物達は、「キイキイ!」と鳴きながら無数の黒い触手を私達に向かって伸ばしてきた! 波の様にうねりながら黒い触手が迫ってくる!
――シンを捕まえようとしているのだ!
「アナ!」
シンが叫んだその時、私の体の中に突然力が湧いてきた。
……力がみなぎる。
それだけではない、猛々しい凶暴な感情も湧きあがってくる!
すぐ目の前まで黒い生き物達の触手が迫ってきた!
「うおおおおおおおおお!」
私は雄叫びをあげると左手でシンの腰に手を回し思いっきり飛び上がった!
――間一髪、私達は黒い触手から逃れた!
私達はそのまま、ぐんぐん上昇し遥か上空まで到達した!
百メートルは下らない!
黒い生き物達が遥か下の方に小さく見える。
私のこの力は何!
今までシンに触れる事すら出来なかったのに!
「アナ! これは……」
「私がシンを抱えて飛んでいるの! 助けてあげるから!」
「……君は本当に何者だ!」
破壊された街並みが遠くまで見渡せる。
所々に黒煙や赤い炎も見受けられる。
この破壊された街には多くの人間がいるのだ。多くの人間が犠牲になってしまったのだ。
そしてこの状況を作ってしまったのは私達……私達が世界を変えてしまったのだ!
「ギエイイイイイイイ!」
黒い生き物達が醜い雄叫びを上げながら私達のすぐ足下までやって来た!
黒い生き物達は私達に向かって飛び上がって来た!
すると黒い生き物達の巨大な眼玉が赤く光った!
「化け物達怒ったぞ! アナ、もう駄目だ!」
「くそおおおお!」
再び私の身体の中に凶暴な感情が湧きあがった。
すると、私の右手が刀の様に鋭くなった感覚がした。
「貴様ら切り刻んでやる!」
私の口が勝手にそう叫んだ。
私は空中で静止すると、黒い化け物達に向かって右手を振り下ろそうとした!
――その時、周囲が真っ白く光った!
凄まじい光に目がくらむ。
……例のタイムスリップ?
違う、世界が飛び跳ねたりぐるぐると回ったりとはしない。
何が起きたの?
くらくらと意識が遠退く――