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#リアルタイム一人称 について、私は語る。
はじめに
本稿では現代の娯楽小説、特にライトノベル分野で主流となっている文体、「リアルタイム一人称」について述べている。
主に、ライトノベルの読者やアマチュアの小説作者に向けての記事である。
リアルタイム一人称とは、一人称文体のうち、語り手と読者が体験している時間が一致するように書かれている文体のことである。
一方で、「リアルタイムでない一人称」である「回顧型一人称」についても解説している。
後半ではリアルタイム一人称の成立と、ライトノベル方面での発展について語っている。
記事の一部を引用、あるいはスクリーンショットしてSNSなどに共有するのは一向に構わない。その際は本ページへのリンクを添えていただきたい。
現代小説の主流は一人称
「一般的な小説の文体は一人称か三人称」というのが、だいたいの創作実用書に書いてあることだ。
そのあとは、だいたい「三人称は神の視点と一元視点に分かれる」というふうに続く。
今回取り上げたいのはもう一方、一人称についてである。
一人称というのは、登場人物の内ひとりが語り手となって、「私は~~した。」という形式で書かれる文体だ。
だいたいの実用書は「初めて小説を書くなら三人称一元視点がオススメ」と話を続けるため、一人称についてはあまり深くは語られない。
だが近年、一人称文体は娯楽小説の圧倒的メインストリームと言っていい。
2024年の大ヒット作に見る一人称
たとえば、2024年のベストセラー「変な家2」の導入はこうだ。
その日、私は11冊の資料を持ち、知人の設計士が住むアパートに向かって歩いていた。
一人称である。
もうひとつ、誰もが認める大ヒット小説も見てみよう。
「島崎、わたしはこの夏を西武に捧げようと思う」
一学期の最終日である七月三一日、下校中に成瀬がまた変なことを言い出した。いつだって成瀬は変だ。十四年にわたる成瀬あかり史の大部分を間近で見てきたわたしが言うのだから間違いない。
一人称である。
一人称が発展した分野といえばライトノベルだ。2024年、もっとも世間を騒がせたライトノベルといえば、『負けヒロインが多すぎる!』だろう。
一学期の期末試験も今日で終わりだ。
夏休みまで十日を切った金曜日の昼下がり、俺はあえて学校から離れた隣町のファミレスでドリンクバーと山盛りポテトを注文した。
この流れで取り上げるのだから、もちろん一人称である。
商業もアマチュアも一人称が多数派の時代
このように、いまや一人称小説は押しも押されぬメインストリームだ。
たとえ実用書に「最初は三人称一元視点がおすすめ」と書いてあっても、ほとんどの初心者が一人称で小説を書き始める。お手本となるヒット作が一人称だからだ。
アマチュア創作ではどうだろうか。小説投稿サイトに目を向けてみよう。
「小説家になろう」を「一人称」で検索すると検索結果は4,314作品、いっぽう、「三人称」のヒット件数は1,379作品だ。
100万作以上が投稿されているにしてはヒット件数が少ないが(それだけ文体を売りと考えている作品が少ないのだろう)、全体がおおよそこの比率に従うとすれば、75%が一人称小説ということになる。
いまや現代小説について言及するときは、「小説は一人称と三人称に分かれる」と言っていられる状況ではない。
「だいたいの小説は一人称で書かれているが、たまに三人称の小説もある」と言ってしまってもいいくらいだ。
だが、この一人称について、これがいかに特殊な文体であるのか十分に知られていないのではないかと感じている。
本稿では、現代のメインストリームとなっている文体、「リアルタイム一人称」の背景および特徴について語りたいと思う。
回顧型一人称――読者を作品世界に招き入れる文体
「リアルタイムじゃない一人称って何?」と思った読者もおられるだろう。
そこでまず、「リアルタイムでない一人称」について語ろう。
ワトソンの回顧録、宝島についての記録、「私」の手記
典型的な一人称小説としてよくあげられるのが、『シャーロック・ホームズ』のシリーズだ。
コンプリート・シャーロック・ホームズというウェブサイトで全作が翻訳されているので、ありがたく参照させてもらおう。
元軍医局
ジョン H. ワトソン医学博士
回想録からの復刻
第一章
シャーロックホームズという人物
1878年、私はロンドン大学で医学博士号を取得し、続いてネットレイ軍病院で軍医となるための所定研修を受講した。研修が終わると、すぐに軍医補として第五ノーサンバーランド・フィージリア連隊に配属された。
ここで注目してほしいのは、本文の前だ。
「元軍医局ジョン H. ワトソン医学博士回想録からの復刻」と書かれている。この通り、『緋色の研究』とその後のシリーズは、「ワトソンの回顧録」である、という体裁を取っている。
読者が読んでいるのはコナン・ドイルの書いたフィクションだが、作中世界ではワトソンが書いた回顧録というノンフィクションなのである。
本を開いてから閉じるまでの間、読者は「これは(作中世界では)本当にあったできごとだ」という前提を受け入れて読むことになる。シリーズ読者のうちかなりの数が、ホームズを実在の人物だと思っていたという伝聞も、この形式と無関係ではないだろう。
別の例を見てみよう。
大地主のトゥリローニーさんや、医師のリヴジー先生や、その他の方々が、私に、宝島についての顛末を、初めから終りまで、ただまだ掘り出してない宝もあることだから島の方位だけは秘して、すっかり書き留めてくれと言われるので、私は、キリスト紀元一七――年に筆を起し、私の父が「ベンボー提督アドミラル・ベンボー屋」という宿屋をやっていて、あのサーベル傷のある日に焦やけた老水夫が、初めて私たちの家に泊りこんだ時まで、溯ることにする。
やはり「これは語り手が書いたものであり、(作中では)実際に起きたことである」という内容が本編の最初に記されている。わざわざ「島の方位は秘して」と、リアリティを高めるようなことまで書いているほどだ。
翻訳の例ばかり引いてしまったので、本邦の文豪の例も確かめよう。
私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。
『こころ』の例でもやはり、本文のはじまりで「これからあなたが読むものは、私が思い出して書いたものである」と宣言している。
読者の多くは表紙に「夏目漱石」と書かれているからといって、「これは夏目漱石が本当に体験したことなんだろう」とは思わない。(純粋な少年少女ならそう思うかもしれないが)
漱石が一から十まで考えたフィクションであることを理解しながら、一方で作中で描かれる人間たちを実在しているかのように感じるという、重層的な読み方をするのが一般的だ。
回顧型一人称、その特徴
これらの例でも分かる通り、一人称小説というのは、「作中人物である語り手が記したものを擬似的に読むもの」というのが一般的だった。
そして読者が混乱しないように、「誰が書いたものなのか」ということを宣言することがある種の作法になっていた。
こういった形式を、ここでは回顧型一人称と呼ぶことにしよう。
回顧録ではなく、手記やインタビュー記録など、別の形式を取ることもあるが、重要なのは「できごとだけでなく、その記録も作品世界に実在する」という前提で記されている、ということだ。
回顧型一人称を読む時、読者は「作品世界内部で書かれた回顧録を現実世界で読んでいる」というバーチャルな体験をする。言い換えれば、作品世界と現実世界の接点は読者が担う。
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なぜわざわざ作者が語り手の皮を被って物語を語り、そしてそれを宣言する必要があるのか。
その理由として、小説が本だからということが考えられる。
小説がフィクションであることを了解している読者でも、本文が「私は~」という形で語られていたら、「この人が語っていることが本になっているのはなぜ?」という疑問を持つのは自然だろう。それは言い換えれば、「この本を読者はどういう立場で読めばいいのか?」という問いとイコールだ。
本の中に記されているのは情報だが、「本を読む」という行為は身体的なものである。「作中世界で起きているできごと」と、「実際にはそのできごとが起きていない世界にいる読者」との間のギャップを埋める必要がある。
そこで、小説作者は架空の語り手の回顧録を想定し、それと同じ物を読んでいるのだ、という形式を作る。そうすれば、「架空の回顧録を読んでいる架空の読者」として読者は作中世界に意識を投影することができる。ホームズや宝島の例のように、現実に極めて近い時代が舞台となっていれば、この境界は曖昧だっただろう。
シャーロック・ホームズが実在するとして語り合うのはシャーロキアンの定番の遊びだそうだ。回顧型一人称によって喚起される「ホームズがいる世界に読者が入り込み、そこで本を読んでいる」という構造がもたらす喜びと考えられないだろうか。
まとめよう。
「私」による語りという形式と、小説が本であるが故に生じるギャップを埋めるため、「作中に実在する本と同じ物を読んでいる」という形式を取るのが、回顧型一人称という文体である。
リアルタイム一人称――語り手が現実世界に向けて語りかける文体
リアルタイム一人称は、回顧型一人称とはまったく違うアプローチを取っている。文体が似通っているだけの別物と言ってもいい。
新井素子による文体の発明
リアルタイム一人称が生まれたのがいつであるかは、かなりはっきり分かっている。
その起源は、新井素子と言われている。
新井が16歳で書いた『あたしの中の……』が起源というべきだが、ここでは文体をより意図的に使いこなしている『……絶句』から引用したい。
そういう場合ではないって判ってるんだけど、一応、自己紹介しとくね。
あたし、新井素子っていう。十九歳、大学の二年生。SF作家志望の女の子。
SF作家志望――でね、えへへ。只今、とあるSF雑誌の新人賞の為の原稿書いている処。先刻、締切りっていったでしょ、それがつまりSF新人賞の締切りなの。
ここでは、語り手は作者と同じ名前を名乗っている。しかし、先述の通り新井のデビューは16歳であり、19歳の時にはすでに「志望」ではない、SF作家である。
この『新井素子』が作者本人でないことは明らかなのに、語り手にはそう名乗らせている。ややこしいが、詳しくは本編を読んでいただきたい。
ここで重要なのは、語り手が本編を書いていないということである。
なにせ本人が「只今、原稿を書いている処」と宣言しているのである。にもかかわらず、読者が読んでいる文章は、その原稿ではない。(新人賞に応募する作品の中に、作者の自己紹介が書いてあるわけがない)
では、読者が読んでいる文章はなんなのか?
リアルタイム一人称、その特徴
語り手が書いている文章ではないが、語り手が感じていること、思っていること、見たり聞いたりしていることを作中時間に忠実に読者に伝えるこの文体を、リアルタイム一人称と呼ぶことにする。
リアルタイム一人称では、「誰が語っているか」は重要だが、「どうやって書かれたのか」はまったく重要でない。
その文章は作中世界に存在するものとは限らない。むしろ、作中では文章として読むことはできない場合がほとんどだ。
つまり、リアルタイム一人称においては、小説の本文は文章として出力されたものではない。ナレーション的に、音声としてイメージされることのほうが多いだろう。
文章で表現されているのに、その内容は文章ではない。
一見ねじれたこの文体は、回顧型一人称と比較するに、『小説が本である必要がなくなった』時代に生まれてきたことと関係づけられそうだ。
新井がデビューしたのは1978年、家庭へのテレビ受信機普及率は99%に達し、誰もがごく普通に映像媒体でテレビドラマやアニメを見ていた時代だ。
また、続く80年代・90年代は漫画が飛躍的に発行部数を伸ばし、読み物としてより一般化していった。
こうした時代の若者からすれば、「小説のようなストーリーを映像にしたものが放送されている」という感覚が徐々に薄れ、むしろ「映像や漫画のようなものを、文章で読んでいるのが小説である」という感覚が芽生えていたのではないだろうか。より媒体として近しい漫画との近接はさらに強かっただろう。
そう、リアルタイム一人称が文章を使って記しているのは、作品世界そのものというよりは、作品世界の映像である。作品世界をいちど映像としてイメージし、それを文章に変換して記している。読者もまた、文章そのものを直接読み取っているというよりは、文章から映像をイメージしている、という印象が近いのではないだろうか。
回顧型一人称と比較するため、リアルタイム一人称の構造を図にしてみよう。
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リアルタイム一人称においては、語り手は作品世界に存在している一方で、その外側にいる読者に向けて物語を語る役目を負っている。
回顧型一人称では作品世界と現実世界の接点を読者が担うと先に書いたが、リアルタイム一人称においては語り手のほうが接点の役目を果たしている。
リアルタイム一人称においては、明らかに作品世界の内部の描写ではなく、読者に語りかけるための文章が登場する。語り手は、作品世界内部でできごとに直面しているのと同時に、作品世界から半歩踏み出して現実世界の読者に対して語りかけているのである。
この形式は、映像作品に対するナレーションとよく似ている。
映像を映しながら、登場人物の心の声を被せる。あるいは、解説放送のある番組では、副音声をオンにすれば「男が窓越しにジョルノの頬を舐める。」といった動作を説明する音声が付く。
このような映像作品を音声化したものと、リアルタイム一人称はよく似ている。いわば、リアルタイム一人称とは、登場人物自身が語り手となって実況的にナレーションをする文体だ。
この後詳しく見てみるが、リアルタイム一人称文体はライトノベルの世界で大いに発展する。
ライトノベルが「漫画やアニメを小説に起こしたような読み物」と考えられ、その典型的な文体としてリアルタイム一人称があげられる理由のひとつは、リアルタイム一人称が映像的な文体だからといえる。
リアルタイム一人称のメリット
この後はライトノベルでリアルタイム一人称が発展していくことを述べるが、やや専門的になる。
その前に、小説の書き手のために、一般的な創作論としてリアルタイム一人称を採用するメリットを述べておきたい。
リアルタイム一人称を採用するメリットは、以下の3点が挙げられる。
1、臨場感
主人公が感じたことを読者も同時に感じるため、その時、その場にいるかのように感じさせることができる。
2、共感
語り手が読者に語りかけるような砕けた文体で書かれるため、読者と主人公の距離が近く、より強い共感を喚起させる。
3、想像力への刺激
語り手に知りうることしか読者も知ることができないため、描かれていない部分への想像力を刺激しやすい。
初心者向けならこれぐらいで十分だが、本稿ではもう少し深掘りしていきたい。
現代のリアルタイム一人称がどのように使われているか、実際に見ていこう。
(と言いつつ、十年以上前の例ばかりだ。理由は、本稿を最後まで読んでいただければ分かる)
リアルタイム一人称とライトノベル
では、新井素子が発明したリアルタイム一人称がその後に与えた影響を見てみよう。
新井素子流のリアルタイム一人称はまず少女小説に広がり、その後ライトノベルへと伝播した。(ただし、その当時「ライトノベル」という言葉はまだなかった)
リアルタイム一人称のライトノベルへの伝播
1989年ごろ、ほぼ同時期に書かれた二作を見てみよう。
『スレイヤーズ』と『フォーチュン・クエスト』である。
完全に余談だが、『スレイヤーズ』がファンタジア長編大賞の準入選を受賞した1989年に『フォーチュン』が刊行されているので、書かれたのはスレイヤーズが先、発表されたのはフォーチュンが先、である。
あたしは追われていた。
……いや、だからどーしたといわれると、とても困るんですけど……
たしかにこんなことは、世間様一般でもさして珍しいことではないわけだし、あたしにしてみればそれこそ日常茶飯事である。
しかしそこはそれ、話には筋道とか盛り上がりとかゆーものがあるのだから、ま、仕方がないとでも思っていただきたい。
わたしたちは、合計六人でパーティを組んでいる。彼女たちとどういうふうに知り合ったのか。これは、またおいおい話していかなければなんないだろうけど、いまは前回の冒険の記録を書くのでせいいっぱい。機会があったら昔の記録を引っ張り出して紹介したいと思う。
いずれもリアルタイム一人称だ。しかもただ内心を羅列しているのではなく、作品世界から半歩踏みだし、読者に語りかけている。
『スレイヤーズ』は自分が言ったことに自分でツッコみ、さらに読者に対しての語りかけまでしている。「追われている」最中の語り手自身がここまで余裕を持って内心で語りかけているとは考えにくい。ナレーション形式で、語り手自身が自分を俯瞰して語っている。
また、『フォーチュン』のほうは『……絶句』と同じく、「書きものをしながら別のことを読者に語りかけている」というシーンが描かれている。「記録しているもの」ではなく、「今のこと」を(リアルタイムに!)語っているのだ。
少女小説からの伝播といったとおり、先に引用した二作はどちらも語り手が女性である。軽い口調や砕けた表現によって文章を読みやすくする効果がわかると思う。
『緋弾のアリア』分離する主人公と語り手
時を経て、徐々にライトノベルは男性向けの読み物の色を濃くしていく。
おそらく同時期に発展したノベルゲーム……特に成人男性向け……の影響を受けて男性視点の一人称小説が増えていった。(この件だけでも記事になりそうなテーマだが、ここでは深掘りしない)
すると、また別の活用法が見えてくる。
――空から女の子が降ってくると思うか?
(中略)
それは不思議で特別なことが起きるプロローグ。
主人公は正義の味方にでもなって、大冒険が始まる。
ああ、だからまずは空から女の子が降ってきてほしい!
……なんて言うのは、浅はかってモンだぜ。
だってそんな子、普通の子なワケがない。
普通じゃない世界に連れこまれ、正義の味方に仕立てられる。
現実のそれは危険で、面倒なことに決まってるんだ。
だから少なくとも俺、遠山キンジは――
空から女の子なんて、降ってこなくていい。
やや長めに引用したが、リアルタイム一人称のライトノベル的活用として分かりやすい、優れた文章だ。
登場人物としてのキンジ(主人公)は「空から女の子なんて、降ってこなくていい」と結論づけている。
だが一方で、語り手としてのキンジは読者に対する期待を煽り、「女の子が空から降ってくるのは特別なプロローグだ」と主張している。
このように、リアルタイム一人称では作品世界内部の主人公と、現実世界を向いている語り手との分離がしばしば見られる。
語り手が主人公の思考に対して照れ隠しをするのだ。
先程から言っている通り、リアルタイム一人称は主人公の思考をそのまま垂れ流すわけではなく、語り手によってフィルターされた文章として出力される。
このことを利用し、語り手はしばしば主人公(=自分)の本心を読者に対して隠したり、真逆のことを言う場合がある。リアルタイム一人称の語り手が持つ二重性を逆手に取った描写といえる。
表面上の感情は隠しつつ、本心についての言及は「……なんて言うのは、浅はかってモンだぜ」といった調子で隠す。こういった主人公の本心に踏み込まない心理描写は、ハードボイルド小説の特徴である。
『緋弾のアリア』に代表されるようなハードボイルド的描写は、アクションが多い作品と相性がいいようだ。
『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』内面描写が時間を止める
もう一例見てみよう。
ちなみに今日の桐乃は、白黒ストライプのTシャツに、黒い短パンとスカートを混ぜたような代物を穿いている。よく知らないが、セシ――なんとかというブランドのものらしい。こいつがファッションモデルだと言われたら、誰もが信じるだろう。
……かわいいじゃねえか。
だがこの妹様には、あまり積極的に近づきたくない。
『俺妹』の例では、語りのリアルタイム性と内面性がより強調されている。
桐乃の外見を見て受けた印象から思わず感想を告げ、それから思い直している。
「……かわいいじゃねえか」という呟きは、声に出たものではない。語り手が読者を意識しているからこそ、「だが(略)近づきたくない」と、内面の葛藤を克明に記している。
この語り口は、『緋弾のアリア』に比べればより内心について饒舌だ。どちらかといえば、『フォーチュン』に近い。
リアルタイム一人称が映像的な文体であることを踏まえれば、主人公の内面を描写するときには時間がスローモーションになったり、時には止まったりしている。
リアルタイム一人称の「リアルタイム」とは、作中時間と同じ時間の流れを読者が体験できる、という意味だ。語りがリアルタイムだからこそ、内心の描写をするときには時間を操るような語り方ができる。
表現や口調が男性的なだけで、外的なできごとよりも内的な感情や感覚を重視する文章表現自体は少女漫画的な特徴を持っていると言える。
リアルタイム一人称の発祥は、少女漫画のナレーションを小説に持ち込んだものだという考えもみられる。そういう意味では、リアルタイム一人称という文体を使うことで、先祖返り的に男性向け小説に少女漫画の表現を持ち込んでいる好例だ。
『俺妹』に見られるような少女漫画的描写は、ラブコメや日常系の心理描写を重視するジャンルと相性がいいのだろう。
余談:キョンは語っているのか、書いているのか
この議論で『涼宮ハルヒの憂鬱』を連想した読者もいるかもしれない。
改めて読んでみると、『ハルヒ』ははっきりとリアルタイム文体だと言い切る確証がなく、どちらかというと回顧型に近い書き方がされている。(ただし、本文が語り手によって執筆されたものだという情報は本文中には存在しない)
引用はしないが、確かめられるようにリンクは張っておく。
『ソードアート・オンライン』認識は事実を超える
もう一例、リアルタイム一人称の活用例を引こう。
無理やり大きく空気を吐き、気息を整える。この世界の《体》は酸素を必要としないが、向こう、つまり現実世界に横たわる俺の生身は今激しく呼吸を繰り返しているはずだ。投げ出された手にはじっとり冷や汗をかき、心拍も天井知らずに加速しているだろう。
当然だ。
たとえ、俺が見ている全てが仮想の3Dオブジェクトであり、減少しているのが数値化されたヒットポイントであろうとも、俺はいま確かに己の命を賭けて戦っているのだから。
(中略)
現実だ。この世界の全ては現実。仮想の偽物などひとつもない。
特筆すべきは、語り手は「ここは現実世界ではない」と認識しながら、同時に「この世界は現実だ」という真逆の主張をしていることである。
「理性ではここが現実ではないことは分かっているが、感覚は現実と感じている」「死んだら命を失うのだから、現実であるのと同じだ」という認識が、この一見ねじれた語りの根拠である。
先述した図を思い出してほしい。
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ご存じの通り、『SAO』の舞台は、精密に構築された仮想空間である。
その構造は「現実ではない世界から、現実に向かって語りかける」というリアルタイム一人称の構造にそっくりだ。
語り手によって直接語られるリアルタイム一人称だからこそ、「事実として現実ではない」ことよりも「認識として現実である」ことを優先して表現することができる。
もし三人称で書かれていたら、「その時、キリトにとってこの世界の全ては現実だった」のように書かれることだろう。
あるいは、回顧型一人称であれば、「その時の俺にとって、この世界の全ては現実だった」となるだろうか。
いずれにしろ、安全なところから語っているような印象になり、本編の胸に迫るような緊迫感は大きく削がれてしまう。
リアルタイム一人称では、作品世界内の事実よりも語り手の認識を優先して描くことができる。
『SAO』のように、本当に仮想世界に没入している作品ではなくても、自意識や現実に対する理解、世界と自分との関わりなどにテーマを見いだすことが多いライトノベルとの相性のよさが分かるのではないだろうか。
以上、いくつかの例を引きながら、リアルタイム一人称がライトノベルで発展してきたことを語ってきた。
まとめとさらなる展望
本稿では、リアルタイム一人称についてその特徴と発端、そしてライトノベル分野での発展について述べてきた。
特に筆者が主張したいことは、回顧型一人称とリアルタイム一人称は大きく違った特徴を持っているということである。
もっとも大きな差違は作品世界と現実世界の接点になるのが読者か語り手かという点によって発生する。
リアルタイム一人称は映像的な表現を文章に起こした性質が強く、語り手が作品世界のできごとに対してナレーションを入れるような形で進行する。
また、リアルタイム一人称の本文は作中世界には存在せず読者だけが認識していることや主人公と語り手は同一人物だが、しばしば語り手が現実世界の読者に語りかけるために分離していることについても言及した。
新井素子の影響については、ライトノベルより先に少女小説での発展があるはずだが、筆者がその分野に詳しくないため書くことはできなかった。もし詳しい方がいれば、記事としてまとめていただきたい。
紹介した事例が10年以上前の作品に限られているのには理由があり、現在のリアルタイム一人称はさらなる変化を遂げていると筆者は考えているからである。
本稿はその変化について語る前の、いわば前提共有のために作成した。
Web小説という先鋭的なフィールドで、リアルタイム一人称はさらに奇妙な変化を遂げている。語るにはしばらく時間がかかりそうだが、必ず発表したい。
それでは、「#高速実況文体 なぜ転生主人公は第二の人生を他人事のように語るのか?」でお会いしよう。
参考
リアルタイム一人称(リンク先では「一人称リアルタイム語り」についての論文。
純文学方面への影響をはじめ、さらに広く・詳しく書かれているので、ぜひ読んでいただきたい。