私が幸せにしたい人は誰なのか。
これは私が「セラピストを憧れの職業に」と掲げている上原健志先生が主催するオンラインセミナーである【仏教哲学から学ぶ】セラピスト・エスティシャン向け経営マインド養成塾(全6回)に参加して私が感じたこと、学んだことを残すためのノートです。 6回に渡る講座の中で何を感じ、何を考えたのか、また、私が次の会までにやると決めたことを書き記し、自分の思考を読み返すために残したいと思います。
講師の文城孝治先生はまだまだ珍しい男性エスティシャンであり、技術講師などをされている方で私は最近はすっかりご無沙汰になってしまったクラブハウスで文城さんのお話しを聞いてからずっとこの方に興味を持っていました。
とてもはっきりとした口調で物事を話すその姿は怖いと感じる人もいるかもしれないけれど、厳しさの中には芯の通った意識がありそこが信頼出来ると感じてました。
セラピストやエスティシャンは一流の技術を持っているだけではだめで、やはり人間力があってこそだと常々思っている私にとってこのセミナーは私が学ぶべきものだと思い迷わず受講を決めたのでした。
https://www.u-bal.com/cal_event/buddhism
第一回 あなたは何を売るのか
人は何かを売る本質的な理由とは?
お金をいただくことは悪?善?
第二回 あなたは何をしたいのか
「選択と集中」と「覚悟と責任」
自分は何をしたいのか、ブランディングとは
第三回 あなたは聞くだけになっていないか
伝えるべきは伝える。ファンづくりとは
集客やリピートにつなげる発信力
第四回 あなたは自分のせいにしていないか
失敗も成功も思考の段階で決まっている
成功脳に導く思考の矯正
第五回 あなたが幸せにしたい人は誰か
スタッフに愛されるサロンはお客様にも愛される
魅力的な人材育成と人間関係構築を考える
第六回 あなたが歩む施術者としての集大成は
理想とする施術者の道を切り開く
全6話の総まとめ
あっという間に5回目の回でした。そして、本来4回目を先にアップするべきなのだけど、私の中でまだ4回目は消化中ということで先に5回目をアップするべく書くことに決めた。
このレポートが遅々として進まずというより、この時間を作ることを怠っていた私が悪いのですが・・・。
冒頭の話で自分のこだわりを捨てて学ぼうとしなさい。
という学びの姿勢についての話にまずははっとさせられたところからの勉強会のスタートでした。
私は気がつかないうちに順番通りちゃんと!私らしくレポートを書かなくてはいけない!!!という執着に取り憑かれている。そう感じたので、思い切ってその執着を捨てるべく4回目をすっ飛ばすことにした。
仏教哲学から学ぶセラピストマインドということだったけれど、学び始めて私の目の前で起こることが変化していくのを感じている。
実践としては小さなことを積み上げているのだけど、見える世界が変わったように感じる。
今でもムッとしたり、イライラすることが全くなくなったわけではないけど、本当に少なくなった。後、イライラした感情を抱き続けるとか、ずっと落ち込む。ということが減ったように思う。
私は元々根に持つタイプの人間で、相手からされた嫌なことや感情をずっと覚えておいて気がつくと頭の中でぐるぐるさせているタイプの人間だったのに、最近は自分に『もう、いいよねー。だいぶイライラしちゃったね。忘れましょう。』と言ってあげられるまでに。私も間違う。誰かにされた嫌なこともきっと間違ってしまっただけなのよ。って思えるようになったのは成長だなぁと。
そして、相手の話を自分の心を揺らさずに聞こうとするようになった。相手が言いたいことは何か。あるがままを受け止める。正しいとか間違っているというような善悪の二元論でジャッジしないよう心がけている。そうすると大抵のことは相手が何かに気が付き解決していくのを何度も見るようになった。
こういう意識の発達を自分の足取りのように見つめられるようになったのはとてもいいことだと自分自身感じる。穏やかな心は決してつまらないとか退屈などという言葉ではなくいつまでも入れる温泉のような心地よさだ。
波瀾万丈くらいがいい。と思っていた自分の器の小ささと自分の小ささを認めたときのワクワクはなんとも面白いな。と思っている。
さて、今日は5回目の話。この回と次回で私が学んできたセラピストマインド養成塾も終わる。少し寂しくなってきている。
今回の問いかけはあなたが幸せにしたい人は誰か?である。
冒頭で文城先生は
あなたが幸せにしたい人を思い浮かべてみてください。
その人をどんな風に幸せにしたいですか?
その幸せとはどういう状態ですか?
それを実現した時本当にその人は幸せそうですか?
と質問された。
私が幸せにしたい人・・・。私の中で真っ先に浮かんだ顔は私だった。ここ最近私は私がやりたい事、ビジョンを貫き通せているのは私の周りにいるたくさんの人のお陰だと思っていたが、自分自身は透明人間になっていたように見えていないということを思っていた。まずは自分の体、心を大切にすることで、周りの人を笑顔に出来る。と気づいたところだったので、私の中では私を幸せにすること。と思ったのだ。
私はどんな風になれば幸せなんだろうか。今私は幸せかもしれない。これでいいのかな?たまに苦しくなったりするけど、仕事はあるし、やりたいことをやれている。
好きな人に囲まれている。意地悪する人や嫌な人もいない・・・。
私はどんな風に扱われたら幸せかな?とも考えた。考えれば考えるほど分からなくなった・・・。幸せって難しいな。
幸せは難しい・・・。そんな気持ちになった。
人にされて嫌なことは思いつくのに、どうしてこんなにも自分の欲求を自由に思い描くことができないのか不思議な気持ちになった。
その後の答え合わせで私は衝撃を受けるのだけど。笑
幸せの形に近付けようとして突き進めば進むほど、人はその幸せな状態に到達できない。ということだった。
自分を幸せにすることとはありのままの自分を受け入れ、自分を許すこと。
そうやって幸せを体得できるとその状態は周りに伝発していくのだと。
『幸せ』とは実体のないもの。いわゆる『空』なのだそう。目に見えない物を捉えようとしても実体がないものだから変えることが出来ない。変えられないものを変えようと執着することにより、ずっと得られない空腹感を感じることになってしまう。
実体がない事を受け入れ、執着を手放し、今自分が持っているものを見つめること。
それこそが幸せを感じるために必要なことだというのだった。
実体のない幸せを得ようとすればする程、幸せから遠ざかってしまう。
誰かを幸せにしようとしすぎると相手を幸せにしてやったという慢心が生まれ幸せから遠ざかる。
知足(足るを知るということ)で始めて自分が今持っている幸せに気がつくことが出来るのだ。幸せは勝ち取ったり、体得するものではなく、知り、受け止めることで湧き上がって来る物なのかもしれない。
更に面白い不幸と幸せの公式を教えてもらった
不幸の公式 充足➗欲望=不幸度 10➗1,000=0.01
幸せの公式 知足➗少欲=幸福度 1,000➗10=100
この公式を見て気がつくだろうか。欲望が大きけれな大きいほど不幸な状態になり、欲が小さければ小さいほど幸せになるのだ。
幸せとは求めすぎないこと。そして知足を感じるためには物事を五眼(ごげん)の目で見ることが大切だという話があった。
【五眼とは?】5つの物事を見る段階を指す仏教用語で
・肉眼(にくげん) 私たちの体で見ている状態(欲望を持って物事を見ている状態)
・天眼(てんげん) 遠い未来を見る眼
・慧眼(えげん) 智慧を持って物事を見る
・法眼(ほうげん)真理を見抜く眼
・仏眼(ぶつげん)仏様のような眼
これらの目は私たちの肉体の眼から徐々に高い視座を持って見ることを教えている仏教も言葉だそう。
仏の眼を持って自分を見る・・・。つまりは仏様のように高いところから物事を見るということだと思った。その目線は高く自分の欲の影響を受けず、相手の目線に立って物事を見ているという話だった。
5つの目でみるということ。
一見難しくて無理だと感じるかもしれない。
けれど、まずは自分が肉眼でしか物事を見ていない事に気づこうと思った。
文城先生のことばで
『肉眼でしか物事を見れない人に他人を幸せになんて出来ない』
というのがとても印象に残った。自分に対しても、私の幸せにしたい誰かにも、まずは自分がまだまだ自分の期待を添えた目線でしか見ていない。
そのことに気が付きながら幸せになりたいと思った。
また私たちの生活の中で幸せと対比して苦しい事があると思いがちだけど、人生の中で切っても切り離せないのが『苦しみ』だという話を聞いた。
四苦八苦(この世の全ての人に訪れる苦しみ)生、老、病、死の4つに加え愛別離苦、怨憎会苦(嫌いな人と会う苦しみ)、求不得苦ぐふとっく(求めるものが思うように手に入らない苦しみ)、五陰盛苦ごうんしょうく(自分の体も心も思うようにならない苦しみ)
これらを排除しようとしても排除することは出来ないし、無くすこともできない。
苦しみ=不幸ではない。大切なのは偏らないこと、何事もほどほどにすること。
ここまで聞くとこの講座を受けた人なら2回目に学んだ中道に辿り着いていることに気がつく。
真理は誰にとっても同じことで、マイナスの事柄(いわゆる苦)も嬉しいプラスの事柄(喜びや願いが叶った時など)どちらも実体のない自分が感じている物事。ただ、どちらも自分の主観(見る人の眼によって)解釈や欲によって簡単に捻じ曲げられる。
ねじ曲がることがいけないのではなく、ねじ曲がったと気がつき、それを0ポイントに戻すこと。これが意識出来ると物事の見え方は変わると思う。
自分が若かったころ、もっと色々なことができると思っていたし、世の中の中心は自分であるかのように振る舞っていたな。と振り返ってみて思う。
今でもそうだが、誰にも理解されないと思う悲しさや、個人的でサロンをやっているとうまくいっていても不安はどんどん押し寄せる。
その不安を誰かに分かって欲しい、共感してほしいと思うこともあるけれど、わかってもらえず苦しいと思っていた。
もっといいサロンにしたい。
もっといいサービスをお客様に提供したい。
もっと通わなくてもよく出来るようにしたい。
もっとお客様を大切にしたい。
もっと、もっと・・・。
そう言ってどんどん自分を苦しめていた。そして、その苦しみから逃れたい一心で学ぼうとしていた自分がいたんだと気がついた。
努力し続けないとみんなが離れていってしまう・・・。そういう風に自分を追い込んでいる姿はちっとも幸せそうじゃない私が見える。
それでも私たちの生活は続くし、生きているだけで意図せず誰かを苦しめることもあるかもしれない。
物事を俯瞰し、その過ちに気づくことだけじゃなく、今私が手にしている人間関係、物事に対して感謝の気持ち、充足感を得られるようになれば現実は変わらないけど、ずっと幸せだ。
幸せになりたい。と思っていたのに、自分が幸せから遠のくことをずっとしていたのだと思うと遠く、遠くとずっと先を見つめていたけど、答えが足下にあったような不思議な感覚をお話しを聞きながら感じていた。
シェアタイムのとき、いろんな話をしたけれど
どの方の話もとても温かく私の心は満たされていった。
自分の不足を悔い改めるのではなく、最後には自然と感謝の気持ちが生まれるような『場』がそこにあった。このときの状態を私はまだうまく表現できない。
幸せを感じたときに湧き上がる物。それは感謝の気持ちだった。
感謝は湧き出てくるもの。感謝できないときは今の気持ちにふたをしているのは何かを考えるといい。
肉眼でで見ているとき見えてくるものは足りないと思う心。その心が幸せから遠ざけていることに気づくこと。
内省とは自分の心を見つめること、揺れ動く心を静かに見つめ元に戻す(ニュートラルポジション)を意識すること。
自分を許すこと、ときには感情をむき出しにしても、心が弱いことを責めないこと。
そうしていくときっと世の中はもっと幸せにより良くなると思う。
誰かを愛おしいと思う気持ちと同じように、自分自身を愛おしく思えるように
家族に対して、パートナーに対して求める気持ちが生まれていたのは
自分を満たしていなかったからだったと気がついた。
一人ひとりが誰かを否定することなく、それぞれの考えを持って道を進めること。
すでに皆が幸せであるということに気付けること。
それこそが私たちが誰かを幸せにするために必要なことなのだと思った講座だった。
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