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【象徴的な写真について語る】ウクライナ戦争③初期の激戦地「マリウポリ」
マリウポリはウクライナ南東部にある湾港都市です。侵攻初期に激戦地となり、2022年5月にロシアに完全掌握されました。侵攻前の40万人超のうち35万人以上が避難を余儀なくされ、2万人以上が亡くなったとされています。
現在はロシアの占領下にあり、現地での生活の詳細を知ることはできません。この都市で起きた悲劇をたどります。
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重要な戦略拠点である「湾港都市」
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マリウポリはアゾフ海に面し石炭や鉄鋼の輸出で栄えてきた港湾都市です。ロシア軍にとっては2014年に一方的に併合したクリミアとロシア本土を結ぶ線上に位置する戦略的な要衝だと言えます。
軍事侵攻後、ロシア軍と親ロシア派の武装勢力はマリウポリの包囲を狭めていきました。
避難所の「劇場」が爆撃される
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侵攻から3週間後の3月16日には、約1200人が避難していた市内の劇場が爆撃され、約300人が亡くなりました。当時はロシア軍による包囲のため約30万人が身動きが取れず、水や電気、ガスなどは使えず、飲み水や食料が不足している状態が続いていました。
「アゾフスタリ製鉄所」での抗戦
4月にマリウポリ市街地が制圧された後も、アゾフスタリ製鉄所では多数のウクライナ軍と避難した市民が立てこもり抗戦を続けていました。
アゾフスタリ製鉄所は1930年に操業開始され、爆撃や核攻撃にも備えて建設されました。東京ドーム235個分の敷地面接に1万人が雇用されていた大規模な製鉄所で、6層の地下にはシェルターも完備されているなど、避難所・抗戦の拠点として機能しました。
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アゾフスタリ製鉄所での過酷な避難生活は2か月にもわたり、アゾフ大隊を通信にウクライナも抗戦を続けていましたが、5月17日降伏しマリウポリ全域がロシアに占領されました。
「ロシア」化が進む占領後のマリウポリ
ロシアに支配されたマリウポリは民間からの散発的な発信やロシアの公式発信を除き、どのような状態になっているかは不透明です。しかし衛星写真などの分析により、劇場は取り壊され「戦争犯罪の証拠隠滅」や「ロシア化」が進んでいることが確認されています。(日経新聞の素晴らしい分析記事:ロシア化進むマリウポリ 見せかけの「復興」:日本経済新聞 (nikkei.com))
一度占領されてしまうと、その地で行われた様々な戦争犯罪は隠蔽され、その地の情報は遮断されてしまいます。マリウポリで起きた様々な悲劇を詳細に知ることは難しくなりました。
一方で占領地を早期に奪還したことで、その地で起きた悲劇が明るみになったケースもありました。キーウ郊外の小さな街「ブチャ」です。(続く)