前髪と指先
「昨日、前髪切ったんだけど気がついた?」
今日この会話が、どこで何回されたのか。
調べることができるのなら、アンケートを取ってみたい。相手のちょっとした変化に気がつけるのは男性が少ない?女性なら気がつく?もしかしたら血液型や出身地が関係するのか…本気で調べてみたい。
みんな、誰かに興味を持って欲しくて、ちょっとした変化に気がついて欲しくて、それほど他人には興味を持たずに生きているんじゃないか。
いつも自分のことに必死で、余裕がない。
僕は、妻が前髪を切ったことも、指先のネイルがはがれて無くなっていたことにも気がつけなかった。
家族の変化に気がつけなかった。
妻が双子を妊娠していたころの話。
2017年に書いた小説でも話を載せたけど、妻が双子を妊娠するまでにはたくさんの苦労と時間がかかった。
妊娠してからも、常に「もしかしたら」を考え、管理入院する前までは僕も大学病院とタクシー会社の電話番号を書いた紙を持ち歩いていた。
妊婦検診の日の朝。
玄関には小さな旅行カバンが置いてあった。
「このカバン、どうしたの?」
「必要になったときのためにね」
「ふーん。そっか」
「帰ってきたら片づけるから」
「分かった。じゃあ時間もないから病院にいこうか」
「うん」
曖昧にそんな話をして、一緒に家を出た。
産婦人科で経過を診てもらい「特に問題はないけど食事に気をつけるように」という医師からの言葉に、少しむっとした妻が僕の背中に八つ当たりをしてきた。
つわりで食欲がなかったり、食べないと落ち着かなかったりする。
体重は増えるけれど、それはお腹の中の双子がいるからか、それとも食べ過ぎなのか分からなくなる!!といい、背中を手のひらでパチパチとたたく。「僕も食べ過ぎかな?」と冗談を言いながらとにかく笑い、手を繋いでゆっくり歩きながら帰った。
「次の検診も平日だから、お母さんと行くね」
「そっか。分かった」
妻の気遣いを素直に聞き入れ、次の検診の日は朝から仕事に行った。
そこから妻の長い入院生活が始まった。
「今日から管理入院になったから」
「大変だ。いますぐ帰るよ!」
「大丈夫だから、仕事を優先してね」
「そんなこと言っても、仕事が手につかないよ!」
「ちょっと落ち着いて」
「入院ってどれくらい!?何か必要なものとかある?」
「もし早く帰れたら、玄関にある旅行カバンを持ってきて欲しいな」
「カバン?あ、あれか。分かった!」
玄関に置いてあった、少し小さな旅行カバン。
特に気にも留めていなかった花柄のレスポートサックをあけると、着替えやハンドタオル、使い捨てのコンタクトや歯ブラシまではいっていた。
妻は、双子の妊娠でいつも不安を抱え、いつ管理入院になってもいいようにと3泊分の着替えや日用品を入れた旅行カバンを玄関においていたのだ。旅行カバンの中には、ゆったりと着れるワンピースのようなパジャマが数枚はいっていた。新しいパジャマと肌着もきちんとたたんである。
カバンを抱えて家を飛びだし、病院に向かうためタクシーを止めた。
僕はずっと気がついていなかった。
妻はずっと前から、この日のために準備をしていた。
部屋の中をきれいに整理整頓し、洗濯物やアイロンがけもあまり溜めず、自分で前髪を切りすぎていたことも、毎回楽しみにしていたジェルネイルをはがしていたことも、いま思えばいつ管理入院になってもいいようにと自分自身で準備していたのだった。
病院に向かうタクシーの中、一人でたくさんの後悔を数えた。
もうこんな後悔はしたくないと思った。
2018年3月。
妻が少し体調を崩して、検査も含めて数回入院した。
年末の激務や出張、10年近く働いた会社の退職手続きでバタバタし、不安にさせてしまった面もある。僕は1月から新しい仕事で成果を出すことに必死で、2月は新しい仕事の依頼や相談ごとも聞いて回っていたために、あまりお互いの会話ができていなかった。長男の春期講習や進路、保育園に落ちたことも病院で初めて聞いた。
新しい環境で楽しく忙しく働き、ときどき悩む僕をいつも応援し、妻に支えてもらっていることに感謝しながらも、家のことを任せきりにしてちょっとした変化に気がつかなかった。
不安が募ると、良くないことは重なるもので、いろんな物事がうまくいかなくなる。自業自得だと抱えこみ、また暗くなりそうになった。
「元気になったら、一緒にお花見したいな」
何度も聞いたその言葉を信じて、これ以上気持ちが暗くならないよう笑って毎日を過ごし、先週 少し散った桜並木をあるいて妻と一緒に花見ができた。
「ねぇ、前髪切った?」
「うん。ちょっと切りすぎたかも」
少しだけ肩の力を抜いて、4月がスタートした。
明日はきっと、いい日になりますように。
shin5
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