𝘚𝘩𝘪𝘯

誰かの"生きるヒント"になることができたら幸せ。 心が軽くなるエッセイを目指しています。 雑誌にエッセイやコラムを書くのが夢。 余韻の残る文章を綴りたい。 コメント励みになります、いつもありがとうございます。

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最近の記事

「ほめる」は世界を広げる

初めて訪れた地方都市でカフェに入った。 解放的でセンスの良い店内だったので、マスターに「いいお店ですね」と私の感性でお店の長所を伝えた。 すると「そこがこだわった点なのです」と話が弾み、お店の歴史を聞かせてくれた。 マスターは去年まで東京で働いていた事。 東京での生活に疲れた理由。有名アパレルブランドで広報をしていた事など、どれも興味深かった。 お腹が空いたので「美味しいランチが食べられる店を知らないか」と尋ねると、知り合いのお店に電話をし、予約までしてくれた。 ゲッ

    • 花束を日々に

      日々は“なにげない日“で束ねられている。 その“なにげない日“に花を添える。 すると、なにげない日は“特別な日“に化ける。 私は花を贈るというコミュニケーションが好きだ。 きっと“言葉にできない想い“を形にできた気がするからだろう。 愛とは言葉ではなく、行動であり 誰かを想うとき“行動“を伴う自分で在りたい。 自己満足だとしても、大切な人の大切な日には花を添えたい。 草かんむりに化けるで「花」 なにげない草が花に化けるように、見えていなかった想いが鮮やかになる。

      • 「いのち」との距離

        効率化が叫ばれる社会。 近くにUber Eatsの配達員がいれば食べ物がすぐに届く。 テレビに映る有名人にだってSNSでメッセージができてしまう。 距離が見えなくなった時代。見えないモノを感じる事、想像をするチカラ。 相手の生きる世界への敬意。 「(いのち)をいただきます」という祈り。 ある神話に黄泉竈食ひ(よもつへぐい)という言葉がある。 「異世界の釜戸の火で作られた料理を食べると、もとの世界には戻れなくなる」という意味。 日本最古の歴史書「古事記」「日本書紀」に

        • あっちこっち戦争。

          いつから「人生」は勝ち負けの対象になったのだろう。 いつから「対話」は勝ち負けの対象になったのだろう。 最近そんなことばかりを考えている。 働いていても日々感じる事がある。 一般層にまで論破やマウントが蔓延していると… お昼休みはウキウキWATCHINGで有名なタモリ氏は、あるインタビューで「今年はどんな年になりますかね」と問われ 「新しい戦前」と答えた。 セッカチで頭はカチカチ、他人の失言をトンカチみたいに何度も振りかざす。 「ありがとう」「ごめんなさい」が言え

          自己理解こそ自己防衛

          「わかってよ」という感情がある。 「わかりたい」という感情もある。 正反対のようで、どことなく似ている。 「わかってよ」は言葉のわりに攻撃的。 激しく唾が飛んでくるような必死さがにじむ。 「わかりたい」には柔らかく温かい印象がある。 命を救うのは、きっと   「わかりたい」だ。 最近あるドラマにハマっている。 「13の理由」という作品だ。 主人公の女子高生が転校先の学校でイジメやレイプの被害に遭い自死する。遺書として13本のテープを残し、仲間に託すという衝撃的な内容だ

          自己理解こそ自己防衛

          心の洗濯、入れる一服。

          温泉大国、日本。 入浴中の重力は普段の10分の1程度となり、筋肉や関節がゆるみ、血行促進効果がある。 浮遊力は体内にも及び、内臓が本来の位置に戻ることも入浴の効果とされている。 私はふと思う。 “言葉“にも、そのような効果があるのではないか。 思考は自分の持つ言葉により行われる。 普段、自分が自分にかけている言葉はシャワーのように流れているようで、実は心の浴槽にたまっていく。 定期的に、今持っている言葉を見つめ直す必要があるのではないか? 日本の自殺者数は、年間3

          心の洗濯、入れる一服。

          打算か、愛を思い出さんか?

          資本主義社会は打算的に生きることが必要。 私は必要以上に打算的になっていないか。 いま一度立ち止まってみる。 毎日さまざまな決断を繰り返して生きている現代人。流れてくる情報の配信者は成功者に見え、フォロワー数=人間的価値のような錯覚を起こす。 資本主義社会で強者の声は通りやすく、弱者の声には誰も耳を貸さない。経済的成功こそ人生の勝者だと世間は煽る。 ただ、成功者の頂点とされたスティーブ・ジョブズは生前こう語っている。 私も“ハッ“とさせられる事があった。 私は犬を

          打算か、愛を思い出さんか?

          怒りの正当性と将来性。

          「私はこんなに酷い目にあったのです。だから怒ってもいいですよね?」と自分の怒りに正当性を求める人が増えた。 インターネットの拡散力が怒りを“可視化“させた。 自分の感情すら、誰かに承認してもらわないと生きられない現代人。 誰かの言葉の一部を切り抜いては“炎上“させる。 被害者意識の共有で、怒りの協賛者を得て、特定の誰かや組織に社会的制裁を与えたいという心が透けて見える。 あちこちに“敵“を作りながら生きている。 私の怒りが多くの人に共感され、私の怒りを正当化させたい

          怒りの正当性と将来性。

          思い出は、さよならしたくなくて。

          PARCOのお葬式に行ってきた。 というのも、2024年2月29日をもって閉館した地元のPARCOの話だ。私と同じ1983年6月に生まれ、その生涯を終えた。感謝を伝えに向かった。 いわゆる都市型の駅直結の綺麗なPARCOでなく、独自路線のPARCOだった。 実家を離れた今でも、帰省の度に娘と母はPARCOで映画を観たりして過ごした。 PARCOで孫と楽しそうに過ごす母は、私にとって「幸せ」の象徴だった。 私が子供の頃、とりあえずPARCOに集合し、流れる雲と西武線に

          思い出は、さよならしたくなくて。

          スマートフォンが落とした影

          スマートフォンの出現により人々の暮らしは豊かになったのか? スマートフォンが可能にしたマルチタスキングは、“ながら“が当たり前の世界を作った。 街を見渡すと『歩きながら』『対話しながら』『食事しながら』スマートフォンを操作する人たち。注意散漫が日常風景になった。人がスマートフォンに操作されているようにさえ見える。 常にインターネット上に脳をぶっ刺しているかのような、一種の酩酊状態の人々。 人の感情の変化を読み取る事が苦手になった。 常に誰かと繋がっているのに、とても寂し

          スマートフォンが落とした影

          ディズニー100周年に学ぶ幸せの在り方

          ディズニーが100周年を迎えた。 私の父は東京ディズニーランドに出資をしている企業に勤めており、よく家族をディズニーランドへ連れて行ってくれた。家族でカウントダウンパーティーに行くのが、我が家の恒例行事だった。 そんな影響で姉はオリエンタルランドの社員になり、今でもディズニーに魅了されている。 私もディズニー映画や音楽が好きで、幸せとは何か、豊かさとは何かを考えるきっかけになった。 ディズニー映画を観ていると、ハッピーの定義が変化してきているのが分かる。 社会構造や、価

          ディズニー100周年に学ぶ幸せの在り方

          あたりまえの、その先へ

          「当たり前」という言葉の意味を調べると、わかりきった、言うまでもないこと、と書かれている。 現代社会は、常に価値観のアップデートを迫られるかのようで「当たり前」を見失う。 自分の中での当たり前を再定義し、軸を持って生きなければ、資本主義の奴隷だ。 当たり前は、輝きを増すか、消え行く。 「あたりのキッチン」というドラマを観た。 主人公は清美という女子大生。両親を早くに亡くし、コミュニケーションに苦手意識がある。 だが、清美は料理を通して社会とコミュニケーションを取るのだ。

          あたりまえの、その先へ

          「事実」と「感情」混ぜるな危険

          事実と感情はセット販売されてしまう事が多い。そのセットを口にすると“誰かの意図的な感情操作“に気付かず、自分の感情が流されてしまう。 危険だから、やめよう。 なぜなら事実と感情を混ぜると、感情が事実を歪めてしまう。事実でなく感情で、目の前の相手すら否定してしまうことがあるからだ。 知人が、興味深い会話を繰り広げていた。 A「夢とか目標がない社員のマネージメントが難しくて」 B「夢とか目標って、ないとダメですかね?夢とか目標って常に変化していくじゃないですか。目標ができた

          「事実」と「感情」混ぜるな危険

          損得より自分を活かし切る選択

          尊敬するNさんと久々にランチをした。こんな話をしてくれた。 「昔は損得で動いていた時期もあった。この人とご飯に行くのは得かな?損かな?なんて… でも今は“自分を活かし切れるかどうか“を軸に行動しているよ」と… 人間関係において言語化している明確な“軸“がなかった私は、新しい視点をもらえたような感覚だった。 自己か利他か。得したいか、させたいか。 「自分が誰かの役に立てるという考えも、ある意味おこがましいのだけどね」と笑うNさん。 人生を主体的に生きている人が放つ、圧

          損得より自分を活かし切る選択

          想像してごらん

          人は想像する力がある。 その力をどう使うかが重要。 なぜなら想像の力は、時に事実すらも勝手に作り出してしまう。 今読んでいる本に、こう書いてある。 “あなたのあやまちは、よく考えずに、想像したものを事実の正確な反映であるかのように扱ったことだ。あなたは立派な人に違いない。ただ、ひどく出来の悪い魔法使いだ“と。 (科学的アプローチの本だがユーモアが満載) 私たちは何かを判断する時に想像力を使う。その想像が誤った想像であっても、正確な情報として扱ってしまうのだ。 ニュ

          想像してごらん

          続けるんだ君のShow、 演じきりな主人公。

          人の幸せを勝手に決めてはいけない。 人の人生は自分のものではないのだから、コントロールしようとするのは筋違いなのである。 急にこんな語り口で始めてしまったが、私たちは「責任」という言葉を盾に人の幸せを勝手に決めたがる。 友人からの転職の相談、恋の悩み。 日常的にその人の“幸せ“を想い、責任感を発動させる。 その結果「絶対こうした方がいいよ」「絶対、彼とは別れた方がいいよ」と無責任を無意識に吐く。 そもそも、その人にとっての幸せとは? を知らずに。 昔、強烈に記憶に残

          続けるんだ君のShow、 演じきりな主人公。