SONGS [2015] 踊ってばかりの国(アルバムレビュー)
4枚目のfullアルバムとなる『SONGS』をレビュー。前作からの傾向を引き継ぎ、刺々しい作風は控えめとなり、その後の踊ってばかりの国の一つの大きな基礎をなしたと言えるのが今作だ。
Bass谷山の加入、そして2013年の活動再開、2014年の1月にセルフタイトル『踊ってばかりの国』をリリース。その約一年後に発表されたのが4th full『Songs』である。休止中から作られていたという曲もいくつかあるものの、前作に見られた愛のための怒りと言うべき主題は見当たらない。当然として政治からも撤退し、ローファイなサウンドの中で愛と狂気が宙吊りになっている。そして最も重要なのはこの世界を睨むような外への志向から、別の場所に導く内への志向という転換が見られることだ。ジャケットにもそれは顕著である。「前進する殺伐とした群衆」から「口づけを交わす二人」へ。この「内への志向」は初期の踊ってばかりの国から見られたが、前作との切断により今作から自覚的になった。
こうした変化は時代の趨勢とも無縁ではない。3.11以後の小さな政治の季節は2015年には既に翳りを見せていた。それこそSEALD’sが結成され、市民運動が盛り上がりを見せたのは2015-2016であった。しかし大衆から「震災と政治」は徐々に遠ざかり、ロックシーンにおいても「震災と政治」というテーマへの志向は失われていった。そして別の新たな世界への志向が見られる。つまり踊ってばかりの国はこれに該当する。政治の場、その志向を失わなかったのは震災前から積極的に政治にコミットし続けたミュージシャンがほとんどであった。
ネオシティポップとも言われる、シティポップを新鮮にリバイバルさせた一連のバンド(Suchmos, Yogee New Waves, never young beachなど)がインディーズシーンで熱を帯び始めたのもこの時期である。サウンドは当然ながらこれらに共通するのは大雑把に言えば別の新たな世界を描くという傾向だ。それは幻想的なネオンの輝く東京であったり、社会の目まぐるしい変化に侵されることのない平穏な日常である。しかし「リバイバル」されたこれらの世界は存在せず、存在していても虚構性の高いパロディに過ぎない。昭和レトロも一つの良い例だ。
そして踊ってばかりの国とよく似た道を歩んだバンドの一つがceroである。2012年に2nd『My Lost City』ではシンセやコーラス、管楽器を上手く繊細に取り入れた小さなオーケストラ的なインディーポップで震災下の東京、日本を文学的(かつシニカル)に描いた。
その後2015年の3rd 『Obscure Ride』ではR&Bやジャズなどのブラックミュージックを昇華させた広義のネオシティポップ。ここで描かれるのはあえて悪意のある表現をすれば「学生気分の牧歌的生活」である。彼らにとって「あえての」空虚な日常だ。確かにこれまでとは「別の」世界を描いている。
本作『Songs』はネオシティポップの流行に乗っかているということは決してない。しかしこの流れに背を向けているということでもない。そして「内への志向」、「別の場所へ」と抽象的な表現に留まっているのは彼らが安易な表現に頼らなかったからである。それは誰にでも分かりやすい虚構の世界を志向するものではなく、どこにもない新しいどこか、非物質的なところを志向していたからだ。サイケデリックがもたらすどこか。
彼らは自らの音楽のスタイルを貫きつつ、結果として新たなロックシーンの流れと共鳴していたと言える。
アルバムのイントロである一曲目『ocean』は波音で揺れる賛美歌であり、アルバム全体を物語っている。外への志向ではなく内への志向。治癒をもたらすような優しくゆったりとした流れ。朝日が窓に差し込むような林のエレキギター、繊細なメロディを紡ぐアコースティックギター、そして今までにない包み込むような下津の歌い声が成す『君を思う』。
「しょんぼりなんてやめてよ 気色悪い 強くなんてなくても 君の世界」
自己愛を手放せずにこの世界で傷つき、受動的に救いを待つ人たちに別の仕方で「君の」世界を見出すことを歌う。
「君の想いはちゃんと届くわ 溢れて消えたものから愛そう 言葉じゃなくて 嘘でもなくて」
溢れて消えたものへの愛こそが踊ってばかりの国にしか歌えないものであり、このアルバム以降、これまでよりはっきりと自覚されているように思える。溢れて消えたもの、矮小なもの、見捨てられたものは狂気のものとも少年のものとも言える輝きを持つ下津の目に照らされる。そして導く。
『ガールフレンド』〜『時を越えて』、『ほんとごめんね』はダブリングに乗せた優しい狂気に包まれつつもローファイなサウンドに調和した広い意味での内向きのラブソングだ。ここには即快楽的とも言えるものがあり、頭の中に流れ込むと私たちに“今、ここ”とは違う夢心地な感覚をもたらす。
柔らかく歪められたギターと眠りのような歌声、『Hero』はありし日の父の姿を生々しく自分と重ねつつ描く。ここでもゆったりとした語りで内向きな愛が見られる。父を冷静に愛情を持って歌い上げるというのは同様に父を荒々しく歌った※『毛が生えて騒いでる』と比べると成熟であると言える。しっかりと向き合い、父を外の者ではなく内の者として捉える。つまりそれは父を家族であり自分そのもの(分身)であると受け止めることだ。※この曲については『おやすみなさい、唄歌い』の以下のレビューで書いている(https://note.com/shin190/n/n35829b336f0a)
『太陽』はやや怪しい雰囲気を醸し出しながらも夢心地で狂気と愛のバランスの取れた曲だ。太陽=僕というのは狂気であり、その太陽が君たちを照らすというのは愛と言える。
「目覚めたら最期さ 君の街に太陽が昇る 出会ったら最期さ 国も規制も 燃やしてしまう」
「僕が太陽さ 君たちの太陽さ」
無神論的であり、アナーキーであり、サイケデリックがあり、無責任であり、愛がある、下津の平衡感覚そのもののような曲。
『あなたはサイコパス』は『FLOWER』の時点で既に作られていた曲である『サイコパス』という曲に少し変更が加えられたものである。『太陽』の連作とも言える曲で、こちらも狂気と愛が調和されている。そしてどちらかというとこっちの方がその私たちに与える印象は強い。甲本ヒロトを連想させるハーモニカのイントロにその一端が見て取れる。サウンドはアルバム全体の流れから逸れることはない。しかし曲の持つ強さのベクトルは独特である。夢(幻覚)の中にいつつも、ある方向への力を感じる。
「君が燃える ように見える 幻覚の中にいた」
「愛してるよ 言葉を 愛してるよ あなたを」
幻覚にいる歌詞はダブリングによって脳に突き刺さるような快楽をもたらす声に乗せて聞く者をどこか別の場所へ運ぶようである。
『唄の命』は晴れ晴れとしたロックナンバーであり、唄そのものへの愛と人類愛が歌われる。そしてこのアルバムでは珍しくガレージロック的な要素が目立つ曲だ。ローファイでサイケなガレージロック?音としてもアメリカを意識させるところも『世界が見たい』に近いところがある。詳しい方によるとどうやら2012年頃には完成していた曲であるという。
「パキスタンの兵隊 鎮まる深い海 アップル博士が言うことにゃ 新世界が来るらしい」
「I give’n to over the world please smilin’ I think so when you haven’ killed by the war」(大まかな訳:あんたが戦争で人を殺さなかったら、俺は世界中に笑いかけてやるよ)
「もう辞めてって 君にもし 言えたら /どっかに消えて死んでって 君にもし 言えたら」
アイロニカルではあるが、全くもってシニシズムではない、真っ直ぐとした向き合い方。「アップル博士」「君」がもたらしたアメリカナイズされた新世界もまた誤魔化しの虚構世界であった。
「僕が歌っていると言うこと 今を生きていると言うこと それを君が聞くと言うこと 唄の命が生まれるのよ」
僕が歌い、今生きている君が聞くこと。聞く人、その場を大事にする、そこに意識的であることは簡単なようで難しい。音楽に対する真摯さそのものだ。
今作によって基礎付けられた「内向き」または「別の場所へ」という傾向は次作以降も引き継がれ、その後の数作もあらかたここにテーマがあると言える。ただサウンドの在り方はまた異なっていく。
次回は5th full『君のために生きていくね』である。今回同様一曲ずつではなく、全体を書く予定。
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