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言葉は陳腐化する。地方創生2.0という煮物
石破政権の目玉政策である「地方創生2.0」の基本的な考え方が発表された。
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楽しい地方創生って何だ?会見写真がお通夜並みに暗いけど?という記事見るだけでも突っ込みどころは無限にあるが、国として地方の可能性に投資していくことは賛成だ。観光をはじめ世界が欲しがる自然や文化は地方に眠っているし、地方が弱くなると吸い上げてきた都市も弱体化する。なので大方針は賛成。
ただ、肝心の中身を見ると、全然期待できない…。予算倍増というが、既にある予算の「地方創生」看板にすげ替えてるようにしか見えない。取り組みとしての解像度が低いから、「楽しい」みたいなフワッと好印象な表現になってしまうのだろう。
これって何かに似ているなと思ったら、全体の業績が伸びずに現場の声のほうが大きくなってしまった大企業だ。現場に嫌われたくないサラリーマン経営陣が、誰からも嫌われないようなスローガンの下実質的なバラマキをする。当然だがこういうケースではほぼ結果は出ない。
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昔とある偉人が、「良い政策とは、賛成と反対が51対49に分かれる政策である。それなら一番コミュニケーションとしても安定する」と言ってて、なるほどと膝を打った。
結局誰からも嫌われない政策は本心で関心を持つ人は少なく、結果的に求心力を落とす。一方で賛否両論ある政策は、確かに反対する人は出てくるだろうが強烈な味方も生まれるし、何よりも自らが提示した言葉が核になって、メディアや世間で議論が展開されていく。それが影響力になる。
10年前、安倍政権下で地方創生が生まれたとき、そこには一種のざわつきがあったように思う。いわゆる増田レポートによる「消滅可能性自治体」の衝撃もあったが、地方をテーマとして切り出すことへの賛否や期待があった。僕も当時は20代で今ほど政治に興味なかったが、地方に聞き馴染みのない「創生」という攻めた表現を掛けてるのが印象的だった。
それから10年。地方創生という言葉の解像度が上がったというよりも、むしろ煮詰めに煮詰めて原型がなくなったような感じだ。「2.0」もWEB2.0の時はワクワクが凄かったが、メディアに擦られすぎて、今はもう1.0すらよく分からないものにも2.0が使われていてフェイク感がすごい。
地方創生2.0は、怪しいものと怪しいものを足したもので、初めて聞いた人にとっては「近づくな危険」と感じる胡散臭さになっていると思う。
また、基本的な考え方の中に、「誰一人取り残さない」と繰り返し書かれているが、この表現も陳腐化しつつある。デジタル庁が新しいテクノロジーの浸透とともに使うのであれば対照性もあって効果的だったが、地方創生文脈で使うと誤解しかない。地方の可能性に光を当てる話ではなく、みんなを救う話になってるけどそんな約束できるのか。無理な約束をするからまた信用されなくなる。負のループである。
何を言いたいかと言えば、都合のよい言葉はすぐに陳腐化するということ。そしてリーダーには「嫌われる勇気」と「賛否が起こる提案」を込めた表現が求められている。そこまでして掲げる言葉にこそ、その人の信念が詰まっている。