地方という感覚
僕は富山県の漁村というTHE地方で生まれ育ったからよく分かるが、地方にはなんとも言えない閉塞感というか鬱屈とした感じがある。(少子高齢化が加速してるからか、世間が残っているからか、または雪国の天候のせいか。まぁ全部か)
それが嫌で大学や就職で出ていくわけだが、東京や大阪に出てくると、得ている情報量や経験のあまりの差に戸惑い、自信を無くしてしまいがちだ。それで地元に帰る者は少なくない。
しかし今、ネットが本当の意味で大衆化されて、地方の時代がやってきた。これまで物理的に都市と地方は分かれメディアは都市部にあったが、SNSや YouTubeでフラットにごちゃ混ぜになり、数の論理で形成が逆転している。
最近の社会情勢については、この前noteにも書いたので、まだの人はぜひ読んでほしい↓
トランプ共和党の圧勝を受けて、「なぜリベラルな民主党が高学歴エリート政党になってしまったのか」という言説があった。これは大学の集積する都市的な感覚に一因があると思う。
知識に依拠したロジカルな会話に慣れすぎていて、人はちゃんと説明/伝達すれば届くはずだ、という思い込みがある。でもそんな種類の会話を日々行っているのは1割〜2割程度だと思う。
多くの人は、地方で一次産業や二次産業、または現場のあるサービス産業に従事していて、もっと身体的なコミュニケーションを交わして生きている。にも関わらず、左脳的な理屈が通じない人をバカにしてしまうのがエリートだ。
これは能力の優劣ではない。言い換えれば、文明と文化の違いだと思う。文明とは、土や身体から切り離された高度な情報システムであり、まさに都市的なものだ。一方で文化とは、土着的で身体的なもの。感情は情報化できない、その場限りのもの。
とは言え、世界では約人口の半分が都市部に住んでいる。シンニホンを書き、「風の谷構想」をつくっている安宅和人さんも「経済合理的に考えれば、人類は都市に住むという選択肢しか残っていない」と言っていた。(もちろん都市といっても、東京と地方都市では多少違いはあると思うが)。
そんな中で、行き場を失い取り残されてしまう、人々の感情が溢れ返っているのが今だと思う。
その感情や感覚のズレが、アメリカでも日本でも分断が加速させているのだろう。もはやこれは言語の違いくらい大きな差だと割り切って、バイリンガルを増やす政策を考える必要があるかもしれい。
P.S. 僕のおすすめは、小学生のときに都市と地方でホームステイし合うこと。