ネットにおける意識高い時代の終焉。これぞ真の民主化。
兵庫県知事選挙やアメリカ大統領選挙の結果を受けて、世の中がざわついている。「これはネット民意による既得権への勝利だ!」という歓喜もあれば、「こんな陰謀論が…世界の終わりだ」という悲観もある。
まぁ人の数だけ世界があると言ってしまえばそれまでだが、僕的には「マスメディアvs SNS」という戦いよりも、既存メディアで仕事するような「一部の意識高い層は世の中の少数派である」という当たり前を突きつけられた出来事だと思う。選挙という社会的に分かりやすい形で。
僕自身、こんなことを文章で書いてる時点で意識高い少数派なんだが、この状況をギリギリ客観視できてるのは、富山県の漁師町というザ地方出身かつ、今も様々な地方で仕事させてもらってるおかげだ。
山手線周辺のエリアでずっと仕事をしていると、そこが世の中心であり、当たり前の感覚のように錯覚してしまいがちだ。だが、それは日本の人口においても1割程度だと思う。たった1割の感覚で情報を取り扱っていたという点において、メディアは巨大な権力だった。それが大衆の手に渡った。
2009年頃から日本でもSNSが広まり始め、ネットの民主化やら動員の革命やらと言われていた。オバマ選挙もあり何かそこに対する希望はあったが、それが社会を大きく変えることはなかったように思う。それは全然マスではなかったからだ。例えるならば、一部の進学校的な空間に閉じた話だった。だからある意味で平和だった。
スマホが大半の国民に行き渡り、テレビがネットと接続し、YouTubeやTikTokを起点にテキストより動画中心のコミュニケーションになり、リーチの範囲が一気に広がった。その辺りから、注目される人やテーマも明らかに変わっていった。キラキラした横文字の抽象的な議題ではなく、もっと泥臭くフィジカルで損得が明快なものだ。
ここで、質が下がったというのは間違いである。社会とは元々こういうものだ。多様性というよりもぐちゃぐちゃで、まともな会話よりもヤンチャが横行し、一定殺伐としている空間だ。俯瞰的にモノを見れる人なんてほぼ居らず、もっと直感的。見るべきものよりも見たいものしか見ない。そういう意味では、ようやくネットが民主化されたのだと思う。好む好まないに関わらず。
ただ良くないと感じるのは、いま多くの人の欲望の背景にあるものが、経済格差だということだ。選挙を動かしているのは陰謀論やデマ誹謗中傷もあるかもしれないが、根っこにあるのは怒りの叫びだと思う。中間層から剥がされていく叫び。昨日までの暮らしが維持できない叫び。僕は、政治とは経済では解決できない感情調整の受け皿だと思うが、格差に苦しむ人々の行き場のない感情が政治にぶつけられている。
「幸福な国はトランプを大統領に選んだりしない。絶望している国だから選んだのだ」。というのは、とあるアメリカの政治コメンテーターの言葉だが、まさにその通りだと思う。日本でも闇バイトとかはその発露であり、ジョーカー的な事件が増えていくだろう。今後はますますタフな状況になっていくに違いない。
約25年前に村上龍が書いた希望の国のエクソダスでは、「この国にはなんでもある。だが希望だけがない」と中学生が国会で訴えていたが、今は絶望から抜け出したいという感覚なんだと思う。今は一発逆転の夢を見させてくれる人がスターになっているが、構造的な問題なのでやはり政治の出番なのだと思う。自分は少数派である自覚をもって、社会のためにできることを模索したい。