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「できる」ということの手応えのなさ
2024年から、クラウン(道化師)養成講座の受講するなどチャレンジングな日々を送ることになった。クラウンの師匠が元々タップダンサーだったという経緯もあって、実は今月から、タップダンスも習っている。とはいえ、まだ上履きでペタペタと足踏みをしながら最も初歩的な身体の動きを学んでいるだけだけれど。
まだ数回レッスンに通っているだけだけれど、初回に比べて、自分の足がすんなりと思った通り(見ている先生の足捌き通り)の動きに近づいてきている気もする。先生からも「形はバッチリ」と言われて嬉しい。普段は大学で授業をしているけれど、何かを学ぶというのは最高の快楽だと思う。今後の人生でも、常に何かの学校に入り続けようと最近よく思う。
自分自身も習うまでは知らんかったのだが、タップというのは専用のシューズを買えばカチカチ音が鳴るというものではなく、綺麗に音がなるまでに数ヶ月から1年くらいかかる人もザラにいるのだそうだ。実際に離脱率も高い習い事のようである。
古い時代、もっと体育会気質が生きていた頃には、「普通の靴で綺麗に音が出るまではタップシューズなんてはかさない!」みたいな文化も一部あったと聞くけれど(野球部は1年生はボール触れせてもらえない、みたいなもの?)、今はそんなこともない。とはいえ、実際にはいい音を鳴らせること自体がなかなか難しい。
いくつになっても発見があるものだけど、最近の自分の発見は「あんがい、反復作業が好き」ということだ。昔は同じことの繰り返しが虫唾が走るほど嫌だったけれど、今はタップの基礎練習をずーっとやるだけでどことなく心地よい。じっとしていられないタチなのであまりマインドフルネスが馴染めなかったのだけど、タップの練習を繰り返ししていると、歩行瞑想のような、マインドフルな感覚に浸れる気がする。上手くなっている実感こそないものの、このような基礎練習をすること自体が心地よくって、やりたくなるのである。
音楽に合わせて動作をすると、最初に習った時よりも、ふっと足元が軽く、意図せずに動いている気がする。「足を動かす」という他動詞的な感覚というよりも、「足が動く」という自動詞的な感じというべきか。
動作や何らかのスキルを学ぶ過程でよく強調されることだけれど、実際に何かが「できる」ようになるということは、"意図的にできる"という段階だけでは終わらずに、そこからさらに"無自覚にできる"という段階まで到達する必要がある。気を抜くと出来なくなるうちはまだ”身についていない”。意図せずに、あるいは考えなくても”そういう身体になっている”ような段階になることを「身につく」というのだろう。
最初のステップはだいぶ身体に馴染んできた。身体に馴染んでくると、実はあまりやっているという実感がなくなる。実際のところ、自分が「できる」ことというのは、それをやっている最中はあんまり”手応えがない”ことが多い。
得意なことをやっている時もそうだ。苦労なくできることは、やっていてもあまり手応えがない。苦手なこと、できないことに頑張って取り組んでいるときほど、あんがい手応えを感じてしまって、「やっている感」を持ってしまう。
下世話なたとえで恐縮だけど、お通じが快調な時は、あまり感覚がないものである。快便な時よりもむしろ、ちょっと便秘気味だったりその逆だったりしている時の方が、力んだりする必要があったり、違和感を感じたりする。
とかく身体的な物事にとって、「手応えがない(なくなる)」というのは、一つのバロメーターでもある。できないことができるようになるとは、あることが「できない身体」から「できる身体」に変化していることである。ある問題が悩みになっている時、それが対処可能になれば、それ自体が問題や悩みではなくなって消えてしまうように、あることができる身体になることは、そのことの「手応えがなくなる」ことだと言えそうだ。
とはいえ僕の身体はまだ、ペタペタと足踏みをするだけの「踊れない身体」である。足元は重く、まるで両足の靴の靴紐が結ばれているんじゃないかというほどにぎこちなくこんがらがり、音はまだ高速で通り過ぎていく。
この「できない手応え」を大切に、反復練習をしていく心地よさを、あとどれくらいになるか、しばらく楽しみたいと思っている。