「ジェンドリン哲学」登山ガイド (4): 山に登った心理学者たち、ロジャーズとフランクル
ジェンドリン哲学という"険しい山"への安全登山を目指す勝手に連載企画。今回は少し”寄り道”をして、人間性心理学分野の理論家たちが、どのように自然、山と付き合っていたのか、彼らの「自然観」をなぞります。
僕の知る限り、最もや山や自然と縁遠かったのが他ならぬジェンドリン。しかし、彼の師匠カール・ロジャーズや、同じウィーン出身の精神科医ヴィクトール・フランクルは、自然や登山の愛好家でした。巨人たちそれぞれの自然観に、登山をめぐる記述から辿りましょう。
ウィーン生まれの都会っ子、ジェンドリン
1926年、オーストラリアのウィーンに生まれたジェンドリン。僕は2018年の夏に学会でウィーンを訪れた際、彼の生家や出身のギムナジウム、そしてちょうど市から送られた記念碑をめぐるオプショナルツアーに参加した。
観光地としても有名なリンク通りを、ドナウ川沿いに北へ少し登ったところ、地下鉄Roßauer Lände駅のすぐ近くのユダヤ人街。小川沿いの静かなアパートが、ジェンドリンの生まれ育った場所だったようだ。Korbei(1994)によれば、彼の父レオニードはロシア生まれでグラーツ大学で化学の博士号を取得した人で、母のシルビアは北イタリアのトリエステで生まれた人であった。ユージン(独語読みだとオイゲン)は、そんな2人の一人息子だった。
(写真: ユージン・ジェンドリンがウィーンで育った家と伝えられる場所。2018年7月8日 筆者撮影)
ヨーロッパ随一の大都会ウィーンに生まれたジェンドリンは、根っからの「都会っ子」であった。アメリカへと亡命後、彼が学生時代〜教員としても長年勤めたイリノイ州シカゴも大都会、晩年はニューヨークに移り住んだ。
僕の長年の指導教官で、シカゴ大学で直接ジェンドリンに学んだ池見陽先生から、以前こんな話を聞いた。たしか池見先生がたしかニューヨークにあるジェンドリンのオフィスを訪ねて話をしていたとき、窓からマンハッタンの街並みを眺めながら、「僕は都会生まれだから、街が落ちつくんだ」というような旨のことを語っていたそうである。どちらかというと、ジェンドリンは自然よりも都会の喧騒を好んでいた。ウィーンの綺麗な街並みが思い浮かぶ。
そう言ってよければ、フォーカシングは身体という「内なる自然」と関わるプロセスである。それでもどこかフォーカシングには、都会的なムード、洗練さが似合うようにイメージしてしまうのは、ジェンドリンのこういった嗜好もあるのだろうか。池見先生も、港町・神戸に生まれ育った人だった。むしろウィーンや神戸という国際都市に生まれた彼らは、のちに異国アメリカでも暮らすなかで、異なる言語のはざまで際立つ、言葉を超えた”感覚的なもの”にその関心が向かっていく。
文明/自然という対比というよりはむしろ、身体/言語というこの対応関係が、フォーカシングの理論的なでもある。
実際にウィーンの街を歩いてみると、とても美しく魅力的な、過ごしやすい場所だった。ここしばらく「世界一過ごしやすい街」に選ばれているのも深く納得できる。というのもウィーンは、文字通り「歩いてみる」という表現が適切なほど、街並みがとても”こじんまり”としていて、よく聴く名所もトラムで気軽に行けるようなサイズ感の都市である。
(ウィーンの街並み。奥に見える看板はフロイトのオフィスがあったところ、今は博物館になっている。2018年7月9日 筆者撮影)
ただ裏を返せば、都会ならではの風土病のようなものも起こりやすく、実際、20世紀に入った頃、160万人の大都市となったウィーンでは、住宅不足や英紙状態の悪化、アルプスから降りてくる湿気や栄養不足等から結核が蔓延し、それは「ウィーン病」(古川, 2020)とも呼ばれていたようだ。
都会は感染症に弱い、というはこのコロナ禍を生きる私たちの生活実感でもある。そして2020年のコロナ禍でも、登山やキャンプなどの野外活動が流行しているように、19世紀末から20世紀の諸島にかけて、ブルジョワから一般の労働者階級に至るまで、いわゆる登山ブームがウィーンにも巻き起こったという(古川, 2020)。
身体という「自然」との関わりは、人間性心理学においては重要なテーマであるが、ジェンドリンの師匠であるロジャーズはどうだろうか。実はロジャーズは富士山に登り、「ご来光を拝んだ」ことがあるのだそうだ。
夜の蛾に魅せられ、富士山に登ったロジャーズ
1902年、アメリカのイリノイ州にカール・ロジャーズは生まれた。父母ともに開拓時代の名家出身で、六人兄弟の4番目だったカールにも、その「開拓者精神」が受け継がれ、まさに彼は臨床心理学の開拓者となった。なおわロジャーズの生涯については、諸富先生の『カール・ロジャーズ』第3章にその概略がよくまとめられている。
厳格なプロテスタントの両親に育てられた彼は、親からニワトリの世話をするよう強く言われ、あまり他の子どもたちと関わらない、孤独な子供時代を送ったようだ。むしろ、自然や動物にその関心が向いていく。
高校生の時は家の経営する大規模な農園での日々の労働の傍ら、「夜行性の蛾の観察」という一見マニアック(?)な趣味を楽しんでいたという。晩年のインタビューに基づいて歴史家のラッセルがまとめた著書『カール・ロジャーズ 静かなる革命』(誠信書房)の中で、この蛾の観察という趣味を以下のようにまとめている。
孤独でやや内向的だった少年は、農業を散り囲む森に住む蛾に魅惑された。やがて彼はこの珍しい生き物の博士になり、書物で調べ、実際に捕獲した蛾を育てはじめた。毛虫を育て、長い冬の間中さなぎの様子を観察した。少年時代のこの熱中に、生命の秘密がほころび出すのを忍耐強く待つ科学者の出現を認めることができる(『カール・ロジャーズ 静かなる革命』邦訳2頁)。
ラッセルは、蛾を飼育するロジャーズにいわゆる「観察者のまなざし」、科学者としての彼の萌芽を見ている。ただ、実際にロジャーズが蛾の飼育について想起して語っている場面では、ややムードが異なる。インタビューでの彼の語りを見てみよう。ロジャーズの父の農園経営が成功し、丘の上に大きな家を建てる前、高校生の頃の話である。
大きな家に移る前のことで、鮮明に覚えていることがあります。ひとつがいの蛾に出くわしたのです。--きれいで、羽の先が青緑で長く伸びて、まゆから出てきたばかりでした(そのときまで見たことがなかったのです)。ここに、樫の木のかげにとまった信じられないほど美しい生き物がある。驚異でした。出会って見つめたとき、スピリチュアルといえるような気持ちでした。それが何かは出会う前から知っていました。ジーン・ストラトン・ポーターの著書に、夜とぶ蛾の話が出てきました。実際の、この大きな被造物--十五センチから十八センチもあって--陽の光を愛びて本当にゴージャス!敬虔な畏れのような宗教的体験でした(『カール・ロジャーズ 静かなる革命』邦訳31頁、強調は筆者)。
晩年、80歳を超えて既にスピリチュアリティについて言及することの多くなったロジャーズへのインタビューの中であることは考慮したい。ただやはり、この蛾の飼育という体験は、ロジャーズにとってはある種の神秘的な、宗教的な畏敬の念に満ちた出来事として語られている。
なお、ロジャーズはこの蛾の飼育の趣味を学校の先生にも友人にも「どうせわかってもらえない」と思い誰にも話さなかった。ただ、幼虫を集めていることは近隣の住人にはバレていたようである。
ある日近所の人から「大きなカブトムシを捕まえたんけど、ぜひ息子さんに」と電話がかかってきた。自分が好きなのは蛾で、カブトブシではない。周囲の人にとってはどちらも同じ虫に見えるので「やっぱりわかってもらえないなぁ」とロジャーズは失望した、というエピソードも語れていた。虫好きあるあるである(筆者はトンボ好き少年だった)。ただ彼は、自分の考えや思いを理解してもらうことの難しさを、特に身をもって知っていた少年時代を過ごしてきたようだ。
自然への畏れを帯びた彼の眼差しは、それ以降も続く。ロジャーズは父の農園を継ぐために、ウィスコンシン大学の農学部に進学する。入学後、弁論部に所属した彼はそこでもその類まれなる才を発揮し、1922年には、中国・北京で開かれる「世界キリスト教会議」の12人の全米代表に選出された。
そして船で中国から帰国するとき、日本に立ち寄った際、富士山に登ったようである。アメリカを出国する時から、富士山登頂を計画されており、登頂時の様子や彼の所感が当時の日記に残されている。
(なお『カール・ロジャーズ 静かなる革命』でロジャーズは、中国へ向かう途中の1922年の3月に富士山に登ったと語っているが、訳注で修正されているように、彼が実際に登ったのは遠征から帰国する道中の1922年7月であったようだ。当時より3月はまだ開山しておらず、登山の素人がこの時期に富士山に登ることは今も昔も厳しいはずだ。)
日記によれば、特段登山の準備の仕方もわからなかった彼は、日本の観光案内所で偶然知り合った、登山観光客の外国人の男性2人に同行したようだ。備品を麓の街で揃え、午後5時ごろに出発、男性らが雇った登山ガイドについていく。険しい道のりをくたくたになりながら登り(寝ていないからか、ガイドは機嫌がわかるかったとも)、登るについて寒くなり震えが止まらなかったという。
山頂に到達する前に、日の出を迎えたらしい。ロジャーズは来光を望むために、2人の同行者とは別れて、ガイドのリュックサックからサンドイッチだけ取って、1人で急いで山道を進んだようだ。当時の日記にはこう記されている。せっかくなので長く引用しよう。
東の空が白みはじめ、僕は急がねばならなかった。八合目の少し上で東の空が素晴らしくなり、しばし見とれた。山の麓に風景が広がって、限りなく視界が広がり、白くうねる雲の波がふかふかの毛布のようで、全世界が砕ける波の間から見えてきて、大気が凍りついたような静けさが満たしていた。この大空の東の端から輝く光が昇ってきて、空を虹色に染めた。
完全なプリズムで、青、薄紫、緑、黄色、紅。生まれて初めて見る美しい光景で、雲が雪野原のように広がっている。やがて、光が強く強くなり、雲がピンクに染まりはじめ--ヒラギやいよいよ輝き、さらに輝きを増し、そしてついに--万歳!太陽だ。君に、山を登る巡礼者たちが一斉に発した声を聞かせたい。太陽が、ついにやわらかい白い雲間から熱い光を投げかけたときの。僕も大声で叫び、帽子を降った、僕たちは荘厳な景色を見たのだ。
六時に頂上に着き、みんなは2時間遅く到着した。雲が晴れると、素晴らしいパノラマが広がった。高い山々、川、村々、そして海が美しい。小さな雲が山にたなびいていて、それが、ずっと、ずっと下にある--なんというか、味わったことのない感覚。世界全体の上にいる感覚(『カール・ロジャーズ 静かなる革命』邦訳61-62頁、強調は筆者)。
若きロジャーズの興奮がありありと伝わってくる。当時のこの日誌を自身でも読み返しながら、晩年の彼はラッセルのインタビューで以下のように語っている。
富士山の記録を先日読みました。スピチュアルな体験でした。私たちは夜通し溶岩せきの山を登りました。噴石だらけの富士の山。(中略)
当時の人びとは、雲を下に見るという体験がほとんどありませんでした。生まれて初めて、わが家の人間で初めて、地上をおおった雲の上から下を見下ろせるほど高く登ったのです…美しかった。光が来るのが見えました。雲を従えて太陽が登ってくる。太陽が出ると、巡礼装束の人々が一斉に叫び声をあげました。驚きと畏敬という、本当に宗教的な感情に満たされる荘厳な体験でした。宗教性がもつこの面は、失ったことはありません--自然現象への畏敬の感覚、それこそ、このときの経験でした(『カール・ロジャーズ 静かなる革命』邦訳62-63頁、強調は筆者)。
ロジャーズにとってこの富士山の登頂体験は、初めて雲の上から世界の望むという驚愕体験でもあり、自然現象への畏敬を感覚に満ちた非常にスピリチュアルなもの記憶されていることがわかる。
特に、今のようにレジャーとしての登山が一般的でない当時の富士登山は、ロジャーズの記録にも書かれているように、日本人の登山者もいわゆる巡礼装束の白衣を着て霊山・富士山に登るという宗教的な行為であった。それも相まってか、とても宗教的な体験として意味づけられている。
このように、蛾の飼育体験も、富士登山についても、ロジャーズが、「自然」を語るとき自然現象の畏敬の念に満ちたスピリチュアルで宗教的な体験として語られることが多い。これは、彼が「内なる自然」である私たち自身の体験や身体性、感覚について語るときにも近しいものがある。畏敬の感覚に満ちた神秘的な体験、それがロジャーズの語る「自然」である。
若さもあってか、ロジャーズはろくに装備も準備せず(とにかく登山中は”寒かった”らしい)、しかもガイドの言うことも聞かず、サンドイッチだけリュックから取って一人でずんずんと山道を昇ってしまうところはご愛嬌か。
しかし人間性心理学界隈には、もっと本格的な登山家がいる。ジェンドリンと同じウィーン出身の精神科医、ヴィクトール・フランクルである。しかもフランクルはいわゆるロッククライミング、登攀(とうはん)も愛好する、筋金入りの山の人である。
登山家フランクルが山で出会ったもの
ジェンドリンが生まれる20年ほど前、1905年のウィーンに、ヴィクトール・フランクルは生まれた。父ガブリエルはチェコの貧しい家の出身で、医者を志望していたもののユダヤ系であったこともあり断念し、苦学の末に国家公務員に、大臣秘書を務めた人であった。母エルサはプラハの貴族の家系に生まれた。
早熟で聡明だったフランクルは、16歳で成人学校に通い、すでに精神分析の創設者として名を馳せていたウィーン出身のフロイトと文通をし、19歳の時には国際精神分析ジャーナルに論文が掲載されたほどである。彼は地元ウィーン大学の医学部に進学する。
フロイトもアドラーも、そしてフランクルもウィーンという小さな町の「ご近所」で暮らしていた。これが小さな街の面白さでもある。
もちろん時代は20年ほど遅れてジェンドリンが生まれる訳であるが、1930年代以降、ナチスが台頭して以降、このようなウィーンのコミュニティは失われてしまう。歴史に"if"はつきものだが、WWⅡという歴史的な悲劇とは別の、ウィーンに精神医学・臨床心理学の華やかなコミュニティが存在し続けていたら、ジェンドリンがそこにアクセスしてたら、どのような世界線になっていたのだろうか、と想像を掻き立てられる。
ウィーン大学で医学博士の学位を取得して、1939年、34歳の頃には、精神科の専門開業医になっている。開業してまもなく、ヒトラー率いるナチスがオーストリアを占領し、1942年にはフランクル自身が収容所へ送られることになる。彼の収容所での壮絶な体験を綴った書籍、邦題『夜と霧』はあまりに有名であろう。ただ、フランクルによる「人生の意味」を問う実存分析の立場は、収容体験に基づいているわけでなく、すでに20代〜30代のうちに構築されていたことは一般には知られていない。
「壮絶」という言葉ですら陳腐に聞こえるアウシュビッツ収容所での絶望的な日々を、フランクルはどうやって生き延びることができたのか。過酷な現実を生き延びるために、愛する人の存在の面影を支えにしたり、目の前の過酷な現実からわずかでも離れるため過去の記憶への逃れるというぎりぎりの状態で強制労働が続く。被収容者は些細な記憶や過去の生活をくりかえし追想するが、「そういう思い出は被収容者の心を晴れやかにするというよりは、悲哀で満たした(『夜と霧』64頁)」という。
このような限界状況を生き抜くための、3つの重要な要素があったと『夜と霧』で記述されている。その3つが、「自然」「芸術」、そして「ユーモア」である。収容所にこれらのものがあったと聞くと驚くかもしれないしかし。ほんのわずかでも自然や芸術、ユーモアを感じられる瞬間があれば、それは生き抜くための「武器になる」というのだ。
被収容者の内面が深まると、たまに芸術や自然に接することが強烈な経験となった。この経験は、世界やしんそこ恐怖すべき状況を忘れさせてあまりあるほど圧倒的であった。
とうてい信じられない光景だろうが、わたしたちは、アウシュヴィッツからバイエルン地方にある収容所に向かう護送車の鉄格子の隙間から、頂が今まさに夕焼けの茜色に照り映えているザルツブルグの山並みを見上げて、顔を輝かせ、うっとりとしていた。わたしたちは、現実には生に終止符を打たれた人間だったのに--あるいはだからこそ--何年ものあいだ目にできなかった美しい自然に魅了されたのだ(『夜と霧 (新版) 』64-65頁)。
このように、あまりにも残酷な現実を、ほんの一瞬でも忘れさせてくれる圧倒的な自然の美しさは、収容所にいたフランクルたちには「救い」をもたらすものであった。それは生き抜くために必要な武器、生存を可能たらしめるものとなる。
オーストリアはもともと高い山々に囲まれた国で、ウィーンはアルプス山脈最東縁に位置しており、列車で数時間で綺麗な山脈まで登山に迎えたり、徒歩でも小高い山に登れる利便性のある土地柄であった。
オーストリア史やアルピニズムの研究者である東京外大の古川先生によれば、20世紀初頭のウィーンでは社会階級ごとに多くの登山家協会が成立し、ブルジョア階級だけでなく一般の労働者たちにも健康の維持や自己の研鑽を目的とした「登山思想」「アルペン思想」が普及しつつあった時代だったようだ(古川, 2020)。
特に当時は、いわゆるロッククライミング、 岩壁登攀(とうはん)が自然との格闘、あるいは克己を目指し、人格形成のための”嗜み”として、幅広い層に愛好された。
そしてフランクルも、実は山岳協会公認のガイドをもつロッククライマーであり、80歳近くまでクライミングを楽しんでいたようである。登攀の腕前はかなりのもので、アルプスの絶壁には彼の名前を冠した「フランクルルート」と呼ばれる登攀コースが残っているという。また、60歳を超えて飛行機の免許を取得し山々の間を飛行するなど、彼の身体能力やチャレンジ精神は晩年になっても全く衰えを知らなかった超人的なエピソードが伝えられている。
フランクルは、1987年にオーストリア山岳協会で基調講演をもとにした「山の体験と意味の経験」という短いエッセイを残している(『現代思想 2013 Vol. 41-4』に収録)。このエッセイは写真家のクリスチャン・ハンドル氏による山の写真集に掲載されていたようだ。
この中でフランクルは、自身がクライミングを始めた理由を「不安に打ち勝つためだった」と記述している。フランクルは不安神経症の患者さんたちに、よく「いつも自分の心の声の言いなりにならなくちゃいけないのかい?自分に打つ勝つことはできないのか?」と言っていたという。これはフランクルの実存分析の1つの特徴でもある。彼はこうつづる。
わたしもロッククライミングで恐怖を感じると、自問したものです。自分と、自分のなかにいる臆病虫と、どっちが強いのだろうか。そいつに抵抗することもできるのではないだろうか、と。人間には、不安や心の弱さに立ち向かう力が備わっているのです。それを私は「精神の反抗力」と名づけました。
格闘技には対戦相手やライバルがいます。けれども登山家が戦う相手はたったひとり、つまり自分自身です。登山家は自分に何かを要求します。それは登頂の実践かもしれません。ときには「断念という実績」が求められることもありましょう。まさにこれが、登山が現代の風潮と対立している点、あるいは、現代の風潮に疑問を投げかけている点なのです(「山の体験と意味の経験」31-32頁、強調は筆者)。
フランクルが自然や山を語るとき、いつも「厳しさ」を帯びた語りになる。山に登る、崖に臨むというような、ある種の逆境にあえて挑むことで、人間は自分の弱さや現実への「反抗力」を身につけることができる。
現代人には、このような「反抗力」が足りない、とフランクルは警告します。「使われていない器官が時間の経過とともに退化してしまうことは、誰でも知っています」、と。現代では、私たちは極力、ストレスがかからないような暮らしがいいという価値観のもとで生きている。不安を解消あるいは回避して生きること、できるだけ緊張状態を回避することばかりに目を向けている。しかし、それではまずい、と。フランクルは続ける。
しかし人間には緊張が必要です。もっとも必要であれもっとも役に立つ緊張関係とは、力の場の一方の曲に人間、もう一方の曲にはその人が選びとった目標や課題があるという関係です。(中略)経験ある精神科医として申し上げたいのですが、困難に遭遇したとき、「意味」がわたしを待っている、わたしには実現しなければならない「意味」があると思える人には、窮地を乗り越える力が与えられるのです(「山の体験と意味の経験」32-33頁)。
フランクルは自分の臨床経験だけでなく、自分の収容所体験とも照合させながら、厳しい状況や不安に打ち勝つための抵抗力が、いかに現代において必要であるかを説いている。そしてこのような抵抗力を身につけるには、理想を心に抱き続ける力、「意味」にさらされ、求め続けることが必要だと述べ、それが現代の教育の最も問題な点であると指摘する。
世界中の人、とくに若い人々が無意味感に悩んでいます。彼らは「生きる手段」は持っているのですが、「生きる目的」を見失っています。それに向かって生きる、生きつづける価値があると思える目的のことです。
初めて地球周回軌道を飛行したアメリカの宇宙飛行士ジョン・グレンは、「理想こそが生き抜くための素質である」と言いました。理想を心に抱いていないと人は息抜けません。しかしそれは緊張関係を産みます。わたしたちは戦うことも、待つこともできなければなりません。いうなればフラストレーションに対する耐性が求められるのであり、そのためにはトレーニングが必要です。ところが今日の教育は緊張を最小限に抑えこむことのほうに力を注いできたために、しだいに人々のフラストレーションに対する抵抗力が衰え、精神の免疫力の低下が起きてしまっています。(「山の体験と意味の経験」33頁、強調は筆者)。
このように、フラストレーションに耐える力、生き抜く力を鍛えるトレーニングとして、フランクルは登山やロッククラインミングを位置づけている。すっかり身体が鈍ってしまった人間は、サルたちのまねをして、「山や崖に登る」ということを思い立った。自分自身にあえて強い要求を示し、時に危険だと断念することを経験することで、満ち足りた現代生活をしているにも関わらず、「わざとと非常事態をつくりだし」てみる。これが登山やクライミングの一番の「機能」なのだ。
人間という生き物は楽なほうに流れがちですが、山に入ったロッククライマーは、一番楽な道ではなく、自分が挑戦できる範囲で最難関のルートを選ぶものです。そうすると、サルをまねているはずの人間が、ときには猿を越えることすらできてしまうわけです。
(中略)
ロッククライマーにとって、登攀は先ほども言ったように人為的につくりだした必要性と言えますが、そればかりでなく自分の可能性に関わる問題でもあります。人間の可能性の限界はどこにあるのかを突き止めたい、という思いがクライマーにはあるのです(「山の体験と意味の経験」35頁、強調は筆者)。
登山、特に登攀という厳しい試みは、フランクルにとっては、自分自身の、そして人間の可能性を確かめ、鍛え上げ、そして限界を越えるという営みなのである。あえて厳しい設定に身を晒し、そこに意味を見出す。まさに逆説的ではあるが、生きる意味が揺らぐほどの現実に向かい合うことで、さらにその生きる意味を問いながら、生き抜くこと。これが、フランクルの思想の本質的な部分でありであり、それは彼の愛した登山、登攀に色濃く現れている。
フランクルの「自然観」は、ロジャーズのそれとはまた異なったものとなる。自然を美しく神秘的で宗教的なものと捉え、畏敬の念を持ってまなざすロジャーズ。自然の美しさに救われながらも、生きる意味を揺るがせる脅威として、そしてそれを乗り越える強さを私たちにもたらしうるものとして、自然に挑み続けたフランクル。
人間性心理学の中でも、論者によってその「自然観」に相違が見られることは興味深い。不思議なほど「自然」を語ることがないジェンドリンの「自然観」も含め、自然をどう語り、どのように関わっていたかは、メビウスの輪のように翻って、彼らの「人間観」あるいは「セラピー観」を知る際の手掛かりになる。
山は、とても美しく魅力的で、それでいて非常に厳しい。人間も、臨床も、そうなのかもしれない。
文献
フランクル, V.E. (著) 池田香代子(訳) (2002). 『夜と霧 新版』 みすず書房.
フランクル, V. E. (著) 赤坂桃子(訳) (2014). 山の体験と意味の経験 現代思想4月臨時増刊号 ヴィクトール・E・フランクル 41(4), 31-37.
古川高子 (2020). 20世紀初頭オーストラリアにおける労働者たちの登山思想 日本山岳文化学会論集 17, 13-26.
Korbei, L. (1994). Eugen(e) Gend(e)lin. In O. Frischenschlager (Hg.), Wien, wo sonst! Die Entstehung der Psychoanalyse und ihrer Schulen, pp.174-181.諸富祥彦 (1997). 『フランクル心理学入門 どんな人生にも意味がある』コスモスライブラリー.
諸富祥彦 (2020). 『カール・ロジャーズ カウンセリングの原点』 角川選書.
ロジャーズ, C.R. & ラッセル, D. E. (著) 畠瀬直子(訳) (2006). 『カール・ロジャーズ 静かなる革命』 誠信書房.
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