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【小説 神戸新聞文芸202411】舌禍 ※落選作
あなた様は、冗談や軽口とは何かについてお考えになったことがありますか、それが他人に及ぼす影響の大きさについても?
昔、と言っても、それほど昔のことではございません。もっとも、そのこと自体、大したことではありません、気の遠くなるような昔だったとしても同じこと――京の冷泉院小路の南、東洞院大路の東の角は僧都殿と呼ばれ、ひどく不吉なところとして、住むひともいないほどでした。人気のない僧都殿はすっかり荒れ果て、一度入るやそのまま冥界に吸い込まれて出られなくなってしまう穴のようでさえありました。
ところで、その冷泉院小路の真北には、左大弁宰相であられた源扶義(みなもとのすけよし)さまの家がありました。扶義さまの舅は讃岐守で、源是輔(みなもとのこれすけ)という方でございます。
さて、扶義さまの屋敷から向かいの僧都殿を見ますと、その西北の角に高い榎の大木が立っています。それだけなら、何ということもございませんが、人の影が針のように長く伸びる夕暮れ時が問題でした。僧都殿の寝殿の前から赤い単衣が現れ、そのまま西北の榎の大木に飛んでいき、そこから梢までゆっくり上っていくのです。梢まで上った単衣は、いたずらをするかのように梢をしばらく擦りながら巡り、そのまま榎の梢に吸い込まれるように、音もなく消えてしまうのでした。
榎の木が高いものですから、赤い単衣もどうしても見えてしまいます。それを見たからと言って特にどうということもないのですが、薄気味悪いことには相違ございますまい。
さて――
讃岐守の屋敷に宿直していた一人の武士がおりました。幼い頃疱瘡に罹ったせいで顔にあばたがあり、同僚たちから気味悪がられたりからかわれたりしていました。
武士が雇われたのは優れた武芸のゆえでしたが、主人の扶義さまが雇ったのはその醜いあばた顔のせいで、賊が入っても武士の顔を見ればあまりの醜さに心胆を寒からしめ退散するに違いない、言わば魔よけのようなものだという心無い噂もございました。
はじめは、悪意のない軽口や冗談の類だったのかもしれません、流れの中に生まれてはすぐに潰れる水の泡のように――でも、どうかすると泡が消えないことがございます。その消えない泡はほとんど公然の秘密のような形で武士の耳に入ってきたのでした。
ばかばかしい。そう否定しつつも、武士は自分の容姿を気にしていました。あばたを見られたくないばかり、それまで以上に俯いたまま働く時間が増えました。
ある夕暮れ時のことです。武士は辺りにひとがいないことを確かめてから、俯いていた顔を上げ、道を挟んだ南の屋敷に目を向けました。僧都殿の大きな榎の木の梢に向かって、赤い単衣が西日を浴びながらゆっくり昇っていくのが見えました。
武士は、同輩たちに聞こえるように言いました。
「あの単衣を、射落としてやる」
同輩たちが驚いたのは言うまでもありません。その狼狽ぶりに、武士は奇妙な優越感を覚えました。俺はこれから、誰もしなかったことをやるんだ、やれるんだ――武士の中で、何としてもやり遂げなければならないという強迫観念へと変わっていったのも、あるいは自然な成り行きだったのかもしれません。
「ただの赤い単衣だ。射落とせば都の悪所が一つ減る。それに、俺が物の怪を退治したとなれば、主人の扶義さまの評判も上がろうというもの。いかがかな」
同輩たちは顔を見合わせました。武士の言うことには筋が通っているのですが、この世は筋や論理だけでできているわけではないだろう、また赤い単衣の飛ぶ薄気味悪い悪所だからこそ、賊さえも気味悪がってこの界隈に近づかず、結果として治安が保たれているのではと思っていたのでした。
「相手は妖怪だ。射落とせなかったらどうする。射落とすどころか祟りにあうかもしれない」
「射落とせなかったら君の評判が下がるだけだ。下手をすれば、主人の扶義さまさえ笑われるかもしれない」
同輩たちは武士の蛮勇を思い止まらせようと説得を試みましたが、反対されると反発したくなる、なおやってみたくなるのが人情というものです。武士は自らを奮い立たせるかのように、朗々と宣言しました。
「きっとやり遂げる。この俺が、あの薄気味悪い赤い単衣を射抜いてやる。明日はせいぜい俺に刮目することだ」
不安げに互いの顔を見合わせるばかりの同輩を見て、武士の虚栄心は大いに満たされました。面と向かっておれの悪口も言えないような卑怯者ども、ざまあみろ、くらい思っていたのかもしれません。
次の日、武士は僧都殿に入りました。神殿の南の縁側に上り、単衣が現れるのを待ち構えていました。
果たせるかな、夕日が都を赤く染める頃、東の方の竹が少し生えている辺りから、赤い単衣がいつものようにすうっと這うようにのびて飛んでいきました。
武士は弓に雁股の矢をつがえて力いっぱい引き絞り、一発で当てるべく狙いを定めました。
雁股の矢が放たれました。
命中しました。
しかし、単衣を射落とすという武士の目論見は外れました。単衣の真ん中を矢がすっかり貫いたと思われたのに、単衣は矢の雁股の部分を包み込んだまま、いつものように榎の梢まで飛んでいきます。ただ、矢が当たったと思われるところの地面には、夥しい鮮血が流れていました。
射落とせなかった悔しさに悶えながら武士は屋敷に戻りました。事の次第を聞いた同輩たちは不吉な結末を感じ、震え上がりました。
武士はその夜のうちに寝たまま死んでしまいました。単衣の祟りにあったのでしょう。 あるいは己の不始末に憤死したのかもしれません。でもわたくしは、それとはまた別の理由があるように思えてならないのです……
そろそろあなた様に告白しなければなりますまい。
武士を蛮勇に走らせる噂を広めたのは、わたくしです。
出来心とは言え、ひと一人殺すことになろうとは――わたしは地獄に落ちるでしょう。いや、従容として地獄に向かうことでしょう。
武士が死んでからというもの、一日も欠かさず赤い単衣を眺めています。僧都殿は、罰せられない罰という最も苦しい罰を受けるための悪所となったのでございます。
(終わり)
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