【エッセイ】『複合汚染』の宿題 〜第1回有吉佐和子文学賞落選作 応募総数2077〜
『複合汚染』の宿題
和歌山が生んだ有吉佐和子の代表作は何かと訊かれたら、迷わず『複合汚染』と答える。
初めて読んだのは大学生のときだった。理系で化学を専攻していた身には、農薬や防腐剤、着色料や中性洗剤などの乱用と、それを容認する社会を糾弾する『複合汚染』は新鮮だったが、もう少し科学を信頼してほしいと思わないでもなかった。科学や文明の産物である化学物質が自然と生活を破壊するというなら、その化学物質の毒性を軽減させたり、より毒性の低い化学物質を開発したりすることで、破壊された自然と生活を再建していくのも、科学や文明の力だと思うからだ。
大作家の有吉佐和子に意見するなど生意気千万、おまけに議論好きな彼女のこと、結局は言いくるめられることになるかもしれないが(有吉佐和子が無類の議論好きなのは、彼女自身、同書で「私が三度の御飯より喧嘩が好きだということは、もう文壇の外にも漏れている噂らしくて、誰も私と議論する人がいなくなっているのは、さびしいことである」と書いているくらいである)、より深く本質的な自然の理解、人間の幸福と繁栄を願ってこその科学だという点は、たとえ彼女に言い負かされても譲らないと思う。
とは言え、同書に感動したのは事実である。白状すれば、「あとがき」に一番感動した。
先日、『複合汚染』を読み直し、感動を新たにした。「あとがき」から数箇所抜粋する。
一人でも、より多くの人が、日本の現実と物質文明の危険性について、少しでも知識を持って下さるならば、それに小説書きが力を貸すことができるなら、書いたものが小説と呼ばれようと呼ばれまいと、そんなことは問題ではないと思っています。 (有吉佐和子『複合汚染(上)』、新潮社、一九七五、「あとがき」二六九ページ)
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私は漬物やエンジンの宣伝をしたのではなく、現状で最も必要とされている良心と勇気のある人々の行為について書きました。できるなら多くの方々にも一緒に考えて頂きたいと思ったのです。 (有吉佐和子『複合汚染(下)』、新潮社、一九七五、「あとがき」二三八―九ページ)
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日本文学古来の伝統的主題であった「花鳥風月」が危機にさらされているとき、一人の小説書きがこういう仕事をしたのがいけないという理由など、あるでしょうか。DDTとBHCが規制されて、ホタルやドジョウが息を吹き返してきていますが、都会にも農村にも奇妙な病人が増発している現状で、私は何もせずにはいられませんでした。 (有吉佐和子『複合汚染(下)』、新潮社、一九七五、「あとがき」二四一ページ)
有吉佐和子は職業作家である前に、ひとりの生活者、ひとりの人間として、どうしても訴えなければならないことを、正直にありのまま書いた。これこそ、『複合汚染』が有吉佐和子の代表作であるのみならず、戦後日本文学の傑作である理由だと思う。
『複合汚染』が出版されてから半世紀が経とうとしているが、環境問題はいっこうに無くならない。フロンガスなど解決に向かっている問題もある一方、たとえば地球温暖化はいっそう深刻になり、「寒さで死ぬことはあっても暑さで死ぬことはない」と言えなくなってしまった。あるいはPFAS(有機フッ素化合物)の問題がある。ALPS処理水の海洋放出問題がある。マイクロプラスチックの問題がある。『複合汚染』が提起した環境問題は、決して過去のものではない。
本の向こうから、有吉佐和子に頼まれている気がするときがある。『複合汚染』という、戦後日本の、ひいては現代文明の「宿題」を必ずや解いてください、と。
「宿題」が解けるかどうかは分からないが、解こうと努力することはできる。それはきっと特別なことではないと思う。
ひとりの生活者、ひとりの人間として生きているか、社会問題に向き合っているか、どうしても訴えなければならないことを、正直にありのまま訴えているか、有吉佐和子自身そうありたいと願っていただろう「現状で最も必要とされている良心と勇気のある人々」のひとりとして、今の社会をより良く変えるための行動を起こせているか――『複合汚染』を読むことの最終目標は、「人間・有吉佐和子」になることだと思う。
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