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【小説】石に介す 〜第59回北日本文学賞一次選考落選作〜

 昭和十二年七月の盧溝橋事件の後、生活に射す戦争の影は目に見えて濃くなっていた。日の丸弁当、スフ、廃品回収、木炭自動車と、日に日に身の回りは貧乏臭くなり、閉塞状況を打開するはずの戦争が、かえって社会をいっそう息苦しいものにしているように思われた。
 同年十二月の南京陥落に世間が沸く中、はんこ屋「印房あかし」の店主で篆刻家の明石素山は印材を紙やすりで擦っていた。印材は鶏血石と呼ばれる貴石で、その名の通り鶏の血のような赤い斑が入っている。
 擦った鶏血石をガラス板に当て、印面が平らかどうか確かめる。少しぐらつく気がする。平らにすることに慣れているはずなのに、鶏血石は少し勝手が違うのかと思いながら、石をガラス板に圧しつけ、指に伝わる感じの違いから傾斜していると思しき部分に力を入れて擦り直す。再び擦れ具合を確かめると、今度はガラス板と石が貼り付く感じがする。
 上手く擦れたと安心したら疲労感が襲ってきた。石の粉を吸わないよう注意しながら深呼吸した後、弟子で女性篆刻家の前沢宇蓮を呼んで擦ったばかりの鶏血石を見せた。
 宇蓮は川底で見つけた綺麗な色の小石を眺める子どものように、鶏血石を矯めつ眇めつ眺めた。
「篆刻の本で見たことはありますが、実物を見るのは初めてです。鶏血石、確かに、鶏の血のような赤い部分がある」
「鶏の血を見たことがあるのか」
「ありません」
「一度、見ておいた方がいいんじゃないか」
「鶏の血なんて、どこで売っているんですか」
「自分で鶏を捌くんだよ」
「先生は、鶏を捌かれたことがあるんですか」
「田舎育ちだからしょっちゅう捌いていた。そう言えば誰だったか、ある実業家が書生だった時分、師匠の飼っていた鶏を捌いて食ってしまったという話を聞いたことがある」
「野蛮とは無縁の都会育ちでよかったです」
 鶏を捌きもしないのに肉はしっかり食う都会者の方がよほど野蛮な気がするが、宇蓮はまだ二十代だからと大目に見た。五十男の素山は、思ったことをそのまま口にできる宇蓮が羨ましい。文は人なりと言うように印は人なりも真実であって、宇蓮の彫る印は爽やかに吹き渡る青田風のように気持ちがよい。それは宇蓮の屈託無い性格に加えて、若いからでもあるのだろうと思う。
 鶏血石は中国の浙江省で採掘される昌化石の一種であること、貴重なだけに偽物も多いこと、赤い斑の正体は辰砂で実際は毒だが古代中国では不老不死の薬として珍重されたことなどを宇蓮に話した素山は、もう遅いからと彼女を帰宅させた。
 鶏血石に彫る文言は決まっていなかった。折に触れて考えるものの、適当な文言が浮かんでこない。
 ――待つしかない。
 素山は鶏血石を絹布で包んで木箱に収めた。それから寝室で横になり、鶏血石に刻むべき文言を頭の中で探し続けた。

 達筆すぎると揶揄されるほど悪筆だった素山の父は、我が子には自分と同じ思いをさせまいという親心と、素山が上手に字を書けるようになったら代筆してもらおうという下心から、幼い素山を町の書道教室に通わせることにした。
 講師の宇津井静阜はお伽噺に出てくる仙人のような風貌で、眉も顎髭も真っ白で長かった。初めて静阜と会ったとき、このひとの前世は山羊に違いないと素山は思った。
 幸い、山羊の生まれ変わりは偉ぶった態度をとらない、気さくで茶目っ気のある書道の先生だった。今使っている筆はさっき自分の髭を抜いて作ったんだよと冗談を言っては生徒を笑わせていた。素山は静阜のことが大好きになった。
 書道教室に通ううち、素山は書の素晴らしさに惹かれていった。先生の字は美しくて自分の字は美しくないのはなぜか、美しい字の条件とは何かと、素山の中で書や美しさについての問いは深まる一方だった。
 あるとき、手本を眺めている素山に静阜が声をかけた。
「漢字って、いいもんだろう」
 さぼるな、手を動かせ、などと頭ごなしに叱らず、生徒の個性や自主性を尊重する先生である。
「先生の書く字はどうして美しいんだろうと考えていました」
「長く書道を続けていると誰でも上手になる。亀の甲より年の功というやつだ」
「わたしの父は、上手ではありませんが」
「君のお父さんは字を書くことを仕事にしていないからね。本当は、字なんてものは読めるように書ければそれでいいんだよ。あいにくわたしはそう思えない性分だったから、こんなところでこんなことをしている」
「どうして、漢字は美しいんでしょう」
「自然を象って作られた字だからだ。漢字の美しさは畢竟、自然の美しさだ。漢字には、象られたものの美しさが溶け込んでいる。書道は、文字の美しさを引き出す技術と言ってもいい。森羅万象と書いて、それがただの四文字熟語にしか見えないようでは、書としては不十分だ。見る者に、森羅万象の豊かさや深さを感じさせ、畏敬の念を抱かせてこそ、本物の書と言える。宇宙という字を書いた瞬間、茫々たる宇宙に漂っている自分を感じる。見る者にもそう感じさせる。それが理想だ」
 そんなものかなと素山は思ったが、先生の言うことが少しおかしいと思うのは、自分がまだ先生の境地に至っていないからだろうと思うことにした。
 調子が出てきた静阜は話し続けた。
「今は筆やペンで文字を書くが、昔は牛の肩甲骨や亀の甲羅に熱した金属棒などを当てて罅を入れることで文字を刻み付けた。これを甲骨文と言う。時代が下ると、青銅などの金属に文字を鋳込んだり刻んだりするようになる。これを金文と言う。紀元前三世紀に古代中国が統一されて秦王朝ができると文字も整理される。これを小篆、篆書体と言う。やがて小篆より書きやすい隷書が生まれ、さらに実用的な楷書や行書、草書へ発展していく」
 静阜は素山を自席に呼び、資料を見せながら説明を続けた。
「小篆、篆書は、こういうはんこの字体として使われる。はんこは印、印章とも言うが、篆刻とは、こういうはんこを作るための、書道と彫刻が融合した美術工芸のことだ。篆刻芸術と呼ぶひともいるが、さしあたって篆刻でいい。篆書で彫った印自体を篆刻と言うこともある。それからこちらの本は、古今の優れた印影を集めて載せた本で印譜と言う。この分厚い本は字典と言って、小篆などの書体の手本が載っている」
 素山は、印影と篆書の美しさに惹き込まれた。
「篆書って面白い書体ですね。それにしても、どうして篆書ではんこを作るんですか。楷書の方がはっきりしていて読みやすいと思うのですが」
「今、君が言ったように、書体自体が面白いからだ。風格もあるし、神秘的でもある。だが、もっと重要な理由がある。篆書は、水のような書体だからだ」
「どういうことですか」
「老子の言葉に『上善水の如し』というのがある。水はいかようにも形を変えられ、しかも水のままで、集まれば勢いも生まれる。篆書も水のように自由に変形でき、それでいて文字の美しさが損われることがなく、見る者の心を打つ。楷書、行書、草書は形が決まってしまっているのが仇となって、伸縮させると途端に不自然になる。実際にやってみよう」
 静阜が「華」の字を篆書で書くと、半紙の上にとりどりの形の「華」が咲き乱れた。まるで、筆先から美しくも神秘的な新種の花が次々と生み出されていくかのようだった。それに引き替え、字の縦横の比率を変えた楷書や行書の「華」は乱雑に積み上げた板のようで見るに堪えなかった。
 素山は静阜に頼み込み、特別に篆刻も教えてもらった。印刀で石を彫るときに手に感じる抵抗と、石が砕けるときの緊張がたまらなく面白かった。書と違ってある程度修正がきくところも素山の性に合っていた。
 数年後、素山は上京して、高名な篆刻家で書家でもあった中田鋼舟の弟子になった。滅多に弟子を取らない鋼舟が素山の入門を許したのは、静阜の推薦状のおかげだった。
 富岡鉄斎を襲う文人との呼び声高い芸術家はどんな気難しい男かと素山は内心びくついていたが、会ってみると縁台将棋にいそうな好好爺で、安心しつつも拍子抜けしてしまった。だがその好好爺の篆刻は、見る者の時間を止め、感覚を麻痺させる美を湛えていた。文字どころか人間が生まれる前からの時の流れ、その古さと静けさを感じさせた。素山にとって、鋼舟の篆刻は霊妙な魔法だった。
 静阜がそうだったように鋼舟も弟子の自主性を尊重したが、篆刻の原理や原則は繰り返し教えた。
「欧陽脩が唱えた『多く読む、多く書く、多く推敲する』の三多は篆刻にも言える。古今の名品を数多く鑑賞すること。特に古代の封泥と漢印から学ぶところは多い。そして篆刻に限らず、第一級の芸術作品には絶えず触れておくこと。一顆でも多く篆刻を彫り、手直しをすること。いつも、文字に、石に、美しいものに向き合うこと」
 ところで、素山とほぼ同じ時期に、二見幽泉という男が鋼舟の弟子になった。
 幽泉は素山と同い年だったが、大酒飲みで金に汚く、聞くに堪えない暴言もよく吐いた。借りた金を返したことがなく、飲み会でも自分が金を払わなくていいようにわざと遅れて参加し、酒を飲むだけ飲んでそのまま中座するので、そのうち誰も幽泉と関わらなくなった。
 だが、問題の多い性格を埋め合わせるかのように、幽泉には篆刻の才能があった。
 篆刻には、文言を選ぶ「撰文」、字典から自分のイメージに合う篆書を選んで紙に書き出す「検字」、印稿という完成図を石の印面に転写する「布字」といった作業がある。だが幽泉は、石材の頭を紙やすりで軽く擦るや、布字もせずいきなり彫り始めるのが常だった。
「完成図は石の中に埋まっている。俺にはそれが見える。後は刀を入れて完成図が表に出るようにしてやるだけだ。難しくも何ともない」
 こんなことを得意満々に言う幽泉だったが、そのうち急に姿を見せなくなった。我流を改めない幽泉の態度が鋼舟の気に入らず破門された、債権者に居所を掴まれて逃亡したなどいろいろな噂が流れた。
 幽泉の失踪が気がかりだった素山は、鋼舟と二人きりのときに事情を聞いた。
「『しばらく旅に出たいので失礼します、お世話になりました』と言って出ていったよ」
「破門されたんですか」
「破門も何も、向こうが出ていっただけだから」
「どうして急に旅に出ようと思ったんでしょう」
「それは本人に直接尋いてもらわないと。まあ、単純に旅に出たくなったんじゃないか。無鉄砲な面白い男だ。個人的に、ああいう男、嫌いじゃないよ」
「先生は、幽泉の篆刻についてどう思われていますか」
「天才だね。なぜうちに入門したのか分からないくらい」
 ここだけの話だが、と前置きして、鋼舟は話を続けた。
「実は、幽泉の印を模刻したことが何度かある。印影を頼りに、彼が彫ったのと同じ印を作ったんだな。ところが、それをどう手直ししても上手くいかない。作品が良くなった感じがしない。手を入れれば入れるほど、作為めいた下品さが加わってしまう。手直しする必要のない作品ということだ。幽泉がわたしより上手であるのは認めないわけにはいかない。別に悔しいとも思わないが」
「その完璧な幽泉から、『君の彫っているのは篆刻やない。はんこや。君はただのはんこ屋や』と言われたことがあります。先生。わたしに、篆刻の才能はあるのでしょうか」
 鋼舟は顔を曇らせた。
「そんな無礼なことを言ったのか。怪しからん奴だな。それで君は、篆刻の才能は無いと思っているのか」
「思っていないと言えば嘘になります。実は、近々はんこ屋を始めようと思っています」
 鋼舟は満足げに頷いた。
「真面目で研究熱心な君ははんこ作りに合っていると思う。はんこ屋の開業には賛成だ。だが、それはそれだ。篆刻は諦めないように。幽泉の言うことは気にしないで、自分に才能が有るかどうかくらい自分で決めたらどうだね。才能があると思うのなら、ある。無いと思うのなら、無い」
「才能の有無を自分で決めてしまってもいいんですか。独り善がりになりませんか」
「君がやるべきことは、自分に才能があるかどうか気に病むことじゃない。己の生きた証としての篆刻、それを携えて神の前に立てる印を作ることだ。印の良し悪しや篆刻の才能の有無なんて、世間が勝手に決めてくれる」
「わたしでも、いつか素晴らしい印を彫れるようになるのでしょうか」
「それは分からない。できなかったらそれまでだ。それが芸術の厳しさというものだろう。だが、何事も臆病であっては、絶対にものにならないよ。それに、成長するための時間は意外とあるものだ。刀を握れなくなるまで、目が見えなくなるまで、一心不乱に印を彫り続ける。それ以外に道はない」
 素山は鋼舟の言葉に救われる思いがした。
「分かりました。篆刻を続けます」
 弟子の決心に師匠の表情が緩んだ。
「易経に『石に介す』という言葉がある。石のように固い意志を持つという意味だ。諦めないで石に向き合う、向き合い続けることだ」
「肝に銘じます」
「それでは、この件は解決だ。ところで別件なんだが、頼みがある。前沢宇衣子という二十代の女性が篆刻を学びたいとうちのところに来ているんだが、わたしの代わりに彼女を弟子に取ってもらえないか。篆刻は男の世界だからと断っても、それは古い考え方だと言って譲らない。自分の号も宇蓮と決めたとか言って、なかなか自由で頑固だ。たが見込みはある。彼女の作品は君を彷彿させる。印も書も、竹を割ったような明快な作風だ」
 声の調子から鋼舟が自分のために嘘をついているのが分かって、素山は嬉しくも胸が痛かった。
「わたしに師匠が務まるでしょうか」
「務まると思うから頼むんだよ。わたしの弟子にしてもいいんだが、最近目が痛くなったり足がむくんだりすることが増えた。それに正直、孫ほども年の離れた女性に教える自信もない。篆刻の手順や精神をきちんと守る君なら、安心して任せられる」
「承知しました。彼女をわたしより立派な篆刻家にします、出藍の誉れと言われるように」
 鋼舟が笑って答えた。
「その前に、君がわたしよりも立派な篆刻家にならないと。頼むよ、明石素山君」
 素山のはんこ屋「印房 あかし」は繁盛した。はじめは「篆刻の大家・中田鋼舟の弟子の店」という師匠の七光りもあったが、素山の彫る実用印の芸術性が評価されるのに時間はかからなかった。上得意が素山のはんこを政財界に紹介してくれたのも追い風になった。
 遠方からの依頼も入るようになり、多忙で腰痛や腱鞘炎に悩まされるようになった頃、左半身が不随になった幽泉が突然訪ねてきた。素山がはんこ屋を開業してから四年ほど経っていた。
 金剛杖をつき、ぶん回し歩行をしているところから、中風の後遺症に苦しんでいることが一目で分かった。
「はんこ屋、繁盛しているみたいだな」
 幽泉は目を細めた。
「中風か」
「ご明察。だがまあ、それはどうでもいい。藪から棒だが頼みがある。君の弟子にしてほしい」
 幽泉は素山に頭を下げた。
「冗談を」
「本気だ。木印を勉強したいんだ」
「はんこ屋からか」
「俺が言ったことを、根に持っているか」
 当たり前だろうと言いたかったが、さすがに大人げないことだと、素山は黙っていた。
「どうして木印を?」
「先日、うちの篆刻を気に入ってくれた顧客から蔵書票をもらってね。そこに捺された印影の出来が素晴らしかったので、作者を聞けばまさかの明石素山だ。住所を聞き出してここまで来た――木印特有の線の鋭さを勉強してからもう一度篆刻に向かいたいんだ。今のこの体ではまだ石が彫れないというのもある。篆刻もそうだが、一流の人間から習うのが上達の早道だ。篆刻は鋼舟から、木印は素山から学びたい」
 幽泉の目は、自分が今学ぶべきことを自覚している初学者のそれだった。
 素山は心が揺らいだ。木印製作で篆刻の天才と仕事をしたい気持ちもあった。
「一緒に、木印を勉強しよう」
 幽泉は深々と頭を下げた。
「ありがとう。この恩は、忘れないよ」
 幽泉は生まれ変わったのだ、中風が幽泉を変えたのかもしれない、大病が人間を成長させることもあるのだろう――素山は自分に言い聞かせた。
 内弟子を取るほど経済的にゆとりのない素山は、工房の近くに幽泉を下宿させ、通ってもらうことにした。幸い、幽泉の生活費は彼の長兄が仕送りをしてくれることになった。また姉弟子として宇蓮を紹介したが、資質も性格も違う二人を一緒にすると何かと問題が起きそうだったので、二人が鉢合わせにならないように気を配った。
 幽泉は熱心に木印製作に取り組んだが、なかなか上達しなかった。中風の後遺症で手が自由に使えない上、すぐに疲れて休んでしまう体への苛立ちを隠せないようで、突然叫んだり印刀を投げたりした。
「幽泉、君は急ぎすぎる。石や木はいつでも目の前にある。慌てることはない」
「俺に残された時間は、長くはない」
「医者に言われたのか」
「占い師に言われたんだ」
 素山は呆れた。
「占いなんか信じるのか。君らしくない」
「まあ、聞いてくれ。幼い頃、祖母が評判の占い師のところへ俺を連れていってね。観相と言うやつだ。占い師は俺の顔を見るなり、『座り仕事をさせればこの子は日本一になる、だが中風になり、二度目の発作で死ぬ』と言ったんだ。祖母は占い師にそれはもうひどく怒ってね。帰り道、占い師に俺を占わせたことを頻りに悔やんでいたのを覚えている。ところで、今のところ、その占い師の予言通りだ。あと一発だ。それはいつやってくるか分からない。今君と話している最中かもしれない」
「ばかばかしい。中風は君の不摂生な生活が原因じゃないのか。第一、酒を飲みすぎる」
「俺だって偶然だと思いたい。中風の発作は酒のせいだ、酒を止めれば問題ないと思いたい。でも、占い師のあの確信に満ちた顔が脳裏に蘇るたび、たまらなく不安になるんだ」
 俯いて人差し指と中指の指紋を眺める幽泉に何と声をかけたらいいか、素山は困った。幽泉がそんな暗い予言に怯えて生きていたことなど想像もしていなかった。
 素山はぬるくなった煎茶を飲み、口の中に残る茶の芳香を感じながら、言葉を慎重に選んで答えた。
「中風の発作のことはよく分からないが、わたしは、死ぬときは死ぬがよろしかろうくらいにしか思っていない。死は才能と同じで、気にすればするほど身動きできなくなるから」
「禅僧みたいなことを言うな、君は」
「そのうち君も似たようなことを思うようになるよ。君だって苦労しているんだから」
 暗い秘密を打ち明けて心が軽くなったせいか、幽泉の木印の出来は少しずつ良くなっていった。幽泉の表情に明るさと力強さが戻ってきて、素山は嬉しかった。
 素山が添削する必要もないほど素晴らしい木印を作れるようになったとき、幽泉は旅に出たいと言った。
「君という男は、文字通りの風来坊だね。ここで木印や篆刻を続けていいんだよ」
「一箇所に留まるのができない性分なんだ。木印の彫り方も体得した今、これまでにない新しい篆刻を彫れる気がする」
「きっと、君自身が思っている以上のことができるよ」
「鋼舟先生と同じことを言うな。もう、師匠を超えているんじゃないか」
「とんでもない。うちは、ただのはんこ屋だ」
「俺の言ったこと、まだ気にしているか」
 素山は目をそらした。
「あのときなぜそう言ったか分かるか。君が字のことしか考えないで彫っていたからだ」
「当たり前だろう、字を彫るのが篆刻だ」
「印材の、石の個性を考えたことがあるか。彫り易いかどうかくらいしか思わなかったんじゃないのか」
 素山は、はっとした。
「あの頃の君は、どんな石にも布字した通りに彫ろうとした。石を支配しようとしていた。それでは石は心を開かない。洒落ではないが、石にも意思があるんだよ。それに、自分の思い通りにいくことが最上とも限らない。思わぬ方向にいった方がいいことだってある。もっとも、今の君に言うのは釈迦に説法だが」
「どうして、そう思う」
「はんこを作っている君を見たからだよ。薩摩柘植でも象牙でも、印材の性格を確かめながら注意深く彫っていた。はんこ作りが、生業が、君を成長させたんだな。そして、そうやって成長し続けている君が、俺を立ち直らせてくれたんだよ、負けてはいられんなって……日本政府も、君を見習えばいいんだ」
 素山は苦笑した。
「比べるものが違いすぎないか」
「いやいや。中国に驕慢な態度をとるわが国は、はんこ屋になる前の君そのものだ。書や篆刻を発明した偉大な国を自分の思い通りにしてやろうとしか考えていない。勝てるわけがないよ。君はどう思う」
「勝つかどうかは分からないが、勝てばいいというものではないと思う。戦争はすべきじゃないよ、いかなるときも」
 幽泉は目を細めたまま、何度も頷いた。
 その幽泉が旅立ったのは木枯らしが吹く頃だった。別れ際、素山は自作の木印を幽泉に贈った。文言は「百齢眉壽」で、側款には「二見幽泉ニ與フ 明石素山」と刻んだ。
 幽泉は素山の木印に苦笑した。
「百歳まで生きる気はないなあ。こっちはもう人生に飽きているんだから」
「それなら君の生きたいだけ生きればいいが、酒の飲みすぎには注意して」
「ありがとう。努力するよ。そうそう、大事なことを忘れていた。一番大事なことだ」
 幽泉は鞄から木箱を取り出して素山に渡した。中には、一寸二分角で丈は二寸弱の鶏血石が一本入っていた。
「これは、ある金満家の顧客からもらった鶏血石だ。篆刻するには難しいところもあるが、今の君なら彫れるだろう」
「君が持っていればいいじゃないか。君の顧客は君に彫ってほしくて渡したんだろう。それに、これだけ見事な鶏血石なら高値で売れる。旅先で金に困ったとき当座の足しになる」
「貧乏臭いことを言うな。この鶏血石は、木印の彫り方を教えてくれた君への謝礼だよ」
「海老で鯛を釣るみたいで、申し訳ない」
「そんなことあるか。今度会うときに、その石に彫った篆刻を見せてくれ。楽しみにしているよ。それにしても、今度会うときって、いったい、いつになるんだろうな」
 二人は笑った。
「ありがとう。必ず彫る」
 素山は幽泉の姿が見えなくなるまで見送った。見えなくなってもしばらく佇んでいた。幽泉とはもう会えないかもしれないという予感がしたのだった。

 昭和十三年五月、日本軍は徐州を無血占領した。町は祝賀に沸いていたが、素山の気は塞がる一方だった。
 篆刻家として今の自分に何ができるのか、幽泉からもらった鶏血石にどんな文言を彫ればいいのか……
 印面を整えてから見ていなかった鶏血石を久しぶりに見ることにした。鶏血石は変わらず美しかった。
 素山は石を手にとり、そのまま軽く握って目を閉じた。
 手の中の冷たさが解けたとき、素山は見たことのない大自然の中にいた。
 鮮やかな色彩、水の流れる音や鳥の囀り、若葉や草花の青臭い香り、山林を吹き抜ける涼風が素山の感覚を心地よく刺激した。大自然を体の中に入れるように素山は大きく息を吸い、そっくりそのまま体の外に返すように息を吐いた。
 息を吐ききったとき、素山を包んでいた大自然は消え、のどかな里が目の前に広がっていた。農作業に勤しむ村人たちを眺め、家畜の鳴き声や遊びに興じる子どもたちの笑い声に耳を傾けるうち、老子の「鶏犬相聞」の文言が思い出された。
 ――鶏犬、相聞こゆ。
 目を開け、半紙に筆で何度も書いてみた。書けば書くほど、鶏血石に刻む文言はこれしかないという確信が深まっていった。 
 次の晩、「鶏犬相聞」の印稿を眺める素山に、宇蓮が声をかけた。
「先生。鶏血石に刻む文言、決まりましたか」
「『鶏犬相聞こゆ』にした」
 素山は宇蓮に印稿を見せた。宇蓮は一頻り印稿を眺めた後、なるほど、と声を上げた。
「分かりました。鶏血石だから、鶏の字が入った文言にしたんですね」
「まさか。駄洒落じゃあるまいし」
 素山は笑いながら、案外そうかもしれないと少しだけ思った。
「老子が唱えた理想的な世界だよ。鶏と犬の鳴き声があちらこちらから聞こえてくる、長閑な農村の情景を表している」
「何だか楽しそうですね。伸び伸びとしていて、賑やかで」
 宇蓮の無邪気な感想に、素山は吹き出した。
「まったくだな。まったくだよ」
 戦争がひどくなれば賑やかに騒ぐこともできなくなるだろう、自由にものを言えなくなるだろう、鶏血石に限らず、中国産の石材や資料も手に入らなくなるだろう……
 宇蓮が帰って再び誰もいなくなった工房で、素山は鶏血石に布字を施し、左手でしっかりと石を固定した。意識を印刀の切っ先に持っていき、その意識の力で石を削る気持ちで印刀を押し込んだ。刃を当てていたところが微かに砕け、白い粉が出た。
 鶏血石は硬くて扱いづらかった。一通り彫れはしたものの、素山の気に入らなかった。
 いくら推敲しても、古代の金属印にある、ところどころ潰れてはしても消えることのない文字の永遠性、金石之気と言うべき豊かな古味が出てこなかった。それを求めれば求めるほど、かえって鶏犬相聞こゆの世界が鶏血石の内部へ潜り込んでいってしまうように思われた。
 推敲を諦め、彫ったばかりの印面を紙やすりで擦って平らにする。擦るたびに石は短くなっていくので何度もやり直すわけにはいかない。挑戦できる回数は限られている。
 ――日本人と中国人が理解し合えるときはきっとくる。それぞれの国が互いを尊重し、平和に共存する、鶏犬相聞こゆの世界はきっとくる。自分の願いをこめて彫る印が、来るべき世界の象徴となるまで、自分は石に向き合わなければならない。石に介す、石に介す。
なあ、幽泉。鶏血石をくれたとき、金持ちからもらっただの木印指導の謝礼だの言っていたけれど、あれ、嘘だろう。けちな君がそんなに簡単に気前のいいことをするはずがない。自分は遠からず死ぬと思ったから、わたしも君と同じくこの戦争に反対だから、世に二つとない貴重な石をわたしに託したんだろう、二見幽泉に代わって鶏血石を彫るのにふさわしい篆刻家は明石素山しかいない、と……
 素山の目から涙が溢れた。
「石をよく見て。石からの声に耳を傾けて。大事なことはすべて石が教えてくれる」
 素山の後ろから声が聞こえた。幽泉だと思ったが、声の主は鋼舟のようにも、静阜のようにも思えた。
 素山は骨を鳴らして背筋を伸ばし、深呼吸して体勢を整えた。涙を拭い、この世界には自分と鶏血石しかない、彫るのは今しかないという心持ちで、「鶏犬相聞」の印を決然と彫り始めた。   
(終わり)

※著作権は作者・本木晋平にあります。無断での引用・転載・複製を固く禁じます         

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