そろそろ、”当たり前”から抜け出してもいいですか。
東京大学の入学式、女性学の第一人者である上野千鶴子さんの祝辞。これが、やたら心に刺さった。
今まで、女性学とかフェミニズムに正直苦手意識があった。というのも、自分自身のセクシャリティがハッキリしていない分、男性・女性を分けて考えることに対して居心地の悪さを感じていたからだ。
ただ、カミングアウト後にして最近気がついたことは、自分のセクシャリティが明確でないからこそ見ることのできる男女の景色があるのだということ。(現時点で)男女で分けざるを得ないスポーツ界に身を置き続けているからこそ、気がつける男女の差があるということ。
だから、自分が見て感じてきた物事を言語化するには、女性学やフェミニズムの理解は欠かせないもので、実は自分自身が人生で感じてきたモヤモヤはその学問が土台にあってこそ語ることができるものでないかとも思ってきた。
このことに関しては考えすぎて、簡単な言葉を使って伝えることが難しいのだけれども…
この上野さんの祝辞を読んで心に湧き上がってきた想いが抑えきれなくなったので、書いていきたいと思う。
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さて、遡ることは24年前。
下山田志帆は女性として生まれた。
そして、下山田家の長女だった。
更には両祖父母の初女孫でもあった。
だから、ありがたいことに、下山田家の"初めての女の子"としてめちゃくちゃ可愛がって育ててもらった。
新品の可愛い洋服や人形もたくさん買ってもらった。
七五三でおろしたての着物を着せてもらった。
赤いランドセルを背負い、清楚なワンピースを着て参加した小学校の入学式。嬉しそうにしている両親の姿に、自分はこうやってお人形みたいにしていれば喜んでもらえるんだと思った。
女の子らしい習い事をしてほしいと母の願いでピアノを習うことになった。外で遊びたい気持ちを抑え、泣きながら教室に通った。
自分以外のいとこはみんな男子。1.2歳差のいとこ達がカッコいい洋服や靴を着ているのを羨ましがって泣いたり、青色の自転車やベイブレードが欲しくてダダをこねたりもした。スカートを履きたくないと泣きじゃくる自分に、1つ上のいとこがかけた一言が忘れられない。
「俺もスカート履くからさ!志帆も履きなよ!それでいいでしょ?」
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サッカーを始めた。
相手チームの保護者から「女なんかに負けるな!」と息子への激励の言葉が飛ぶ。試合が終わった後に、性別が違うだけで"男子より下手なやつ"と見られていたことが悔しくて泣いた。
女子だからという理由で地区の選抜選考会に参加させてもらえなかった。自分と同じくらいのレベルの男子選手たちが選抜されていく姿に、なんとも言えない奇妙な気持ちになった。
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ショートカットにした。短くて男みたいだと美容室に行くたびに親にため息をつかれた。それから14年間、そのため息は続いていく。
成人式、振袖を着るか着ないかで親と喧嘩した。「親孝行だと思って」の一言のために、家族で写真撮影をすることだけ承諾した。「お姉さん、いいね〜。綺麗に撮れてるよ〜。」というカメラマンのお決まりの褒め言葉。1番望んでいない言葉をかけられ続ける苦行だった。
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今までの人生、「サッカーをやりたい」という想いはあっても、これといってなりたいものは無かった。だから、人生において重要な選択をしなければいけない時に選択肢の幅が広がるように、勉強は絶対に手を抜かなかった。そのおかげもあって、高校も大学も自分にとっては最高の選択肢を選んだと思えている。
でも、大学を卒業する時、今までは努力次第で無限に広げられていたはずの選択肢が、意図せずにして狭まっていた。
女子サッカー選手になるということは、男子以上に様々なものを犠牲にしなければいけなかった。サッカーをとるか、将来の安定をとるか。サッカーをとるか、"立派な社会人"という肩書きをとるか。サッカーをとるか、収入をとるか。サッカーをとるか…
ドイツから日本に一時帰国したとき、知り合いにこう聞かれた。「サッカー留学ってさ、実際どれくらい費用がかかるの?」
大手企業で働く大学の同期と話をしていた時に、たまたま居合わせた知り合いに「お前はまだまだ親のすねかじり」と言われた。何も言い返せない自分が無性に情けなかった。
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最近、気がついたことがある。
自分が当たり前に苦しい嫌だと感じていたこと、それは別にそう思ってしまう自分が悪いわけでも、カッコ悪いわけでもなかった。
自分が、娘だから・女子選手だから・男性の中の女性だから、とひたすらにグッと押さえ込んできたモヤモヤは全部、「なんで?」と疑っていいもので、「嫌だ」と吐き出していいものでもあった。
だって、そうじゃないとそれが"当たり前のレッテル"だなんて誰も気がつかないから。
きっと、一生そのモヤモヤは無意識に自分の中に残り続けるから。
そして、自分の知らない誰かのモヤモヤにもなっていくかもしれないから。
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長女だからこう育てるべきだ。
女の子は可愛らしいものが似合う。
女性なんだから男性を支えて欲しい。
女子選手はプロアスリートとは言えない。
くそくらえ、だ。
性別の当たり前に囲われて、選択肢が奪われていく人生なんてゴメンだ。
上野千鶴子さんの祝辞の中に、こんな一節がある。
世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。
あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。
自分も、当たり前の裏側に隠れる辛さに気がつける人間でありたい。
そして、当たり前の裏側でいることに声をあげられる人間でもありたい。
それが、自分以外の誰かに「なんで?」を届けるきっかけになると思うから。
人生25年目、そろそろ、当たり前から抜け出してもいいですか。
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