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これからが難民支援の本番。でも、難民景気は終わりつつあった
バングラデシュ南部のコックスバザール。その南にミャンマーからのロヒンギャ難民のキャンプがつくられている。訪ねてみることにした。収容されている難民は100万人を超えるともいわれる世界最大の難民キャンプである。3年前も訪ねていた。とりまく状況は変わっていないはずだ。いや、悪くなっている? そのあたりを見てみたかった。難民キャンプに入るには許可を得なくてはならない。そこで聞こえてきたことは、キャンプの運営を危うくする世界各国からの支援の減少だった。キャンプのは難しい局面に入っていた。
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旅の期間:6月17日~6月20日
※価格等はすべて取材時のものです。
難民キャンプへは路線バスで行くことも可能だが⋯⋯
(旅のデータ)
難民キャンプは、コックスバザールからバングラデシュ最南端のテフナフに向かう道沿いにつくられている。キャンプに入るには許可が必要だが、このルートを走る路線バスは自由に乗ることができる。最大のキャンプがあるクトゥパロンまで100タカ、約151円ほど。コックスバザールのバスターミナルから、1時間に1本ほどのバスが走っている。終点は最南端のテフナフ。現地の人々は以前、テフナフからミャンマーに行くこともできたが、クーデターが起きた後は難しくなっている。ミャンマー側はラカイン州だが、いま、ミャンマー国軍とラカイン州の軍隊の戦闘が激化している。
100人以上いたスタッフがいまは17人
(sight1)
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難民キャンプの事情を訊きにコックスバザールにある難民支援NGOを訪ねた。そこで聞こえてきたのは、NGO運営が難しくなっている経済事情だった。NGOは世界からの支援で成り立っているが、その額が年を追って減少している。このNGOも支援プロジェクトを減らしはじめていた。あるNGOで働く知人にも訊いてみた。「私のNGOは一時、100人を超えるスタッフがいましたが、いまは17人。このままいったら、難民キャンプの存続すら難しくなるかもしれない」。難民支援事業は岐路にたたされつつある。
(sight 2)
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難民キャンプに入る許可は、コックスバザールにある難民救済・帰還委員会事務局で発行される。申請後に面談がある。「今日、クトゥパロンの難民キャンプで待遇改善を要求する大きな集会があります。治安問題もあり、今日は支援関係者も含めて全員、キャンプに入ることを禁止しました。明日以降、どうなるか⋯⋯」。担当者が最初に口にしたのは、そんなキャンプの実情だった。
実際の難民数を公表しないバングラデシュの裏事情
(sight 3)
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許可証を受けとるまでの待合室に、難民キャンプの地図が貼りだされていた。現在、7ヵ所の難民キャンプがある。最大規模のクトゥパロンキャンプを含め、100万人を超える難民が収容されているといわれる。「実際は60万人ぐらいという人もいます。キャンプへの支援が減り、環境が悪くなってきて、ミャンマーに戻る難民がこのところ多いんです」。同じように許可を待つバングラデシュ人が説明してくれる。実際の収容人数を公表すると援助額がさらに減ることを警戒し、バングラデシュ政府の発表する収容人数は100万人。3年前と変わらない。
(sight 4)
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難民キャンプに入る許可は出た。しかしキャンプ内の治安が安定しない。翌日、キャンプに向かうことにしていたが、はたして入ることができるかどうか⋯⋯。雨季に入り、キャンプ内では数か所で地滑りも起きているという。丘陵地帯につくられた簡素な収容施設。未舗装路も多く、雨季は車がはいることができなくなるエリアすらあるという。
抜け道から難民キャンプを眺める
(sight 5)
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翌日、難民救済・帰還委員会事務局に出向いた。難民キャンプの封鎖はつづいていた。軍の兵士が管理しているという。しかし難民キャンプを外側から見ることはできる。雨のなか、クトゥパロンに向かってみた。これがコックスバザールとテフナフを結ぶ幹線から眺めたクトゥパロンのロヒンギャ難民キャンプ。屋根に雨を防ぐシートを載せた家が多い。
(sight 6)
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ここはキャンプの非公式な出入口。抜け道だ。正式な入口にはチェックポイントがあるが、ここにはない。少なくとも50万人以上のロヒンギャ難民が収容されているキャンプは広い。正式な出入口まで距離があるエリアでは、有刺鉄線をちょっと切り⋯⋯といった出入口がすぐにできてしまう。抜け穴のような。しばらく眺めていると、出入りするルートがわかる。
これからが援助の本番? しかし撤退を考える業者も
(sight 7)
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難民キャンプの周囲には夥しい数の店舗が広がる。クトゥパロンのキャンプ内には市場が何ヵ所にもある。なにしろ少なくとも50万人以上の難民がいるのだ。するとそこに物資を納める業者が必要になる。キャンプの周りにできた店の多くは問屋。そこに横づけするトラック⋯⋯難民景気という言葉がリアリティをもって伝わる。
(sight 8)
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雨季ということもあるのかもしれないが、3年前に比べて店の密度が減ったような⋯⋯。「もう儲からないよ。難民景気も終わりだね。そろそろ撤退しようと思ってる」。野菜問屋の主人が語る。ロヒンギャ難民への世界からの視線と集まり、援助が難民景気を生む。しかしロヒンギャ難民問題は、その後のミャンマーのクーデターもあり、泥沼化しつつある。しだいに減る援助。難民救済の現実が横たわる。
(sight 9)
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クトゥパロンの問屋街にできたアパートに住むNGOスタッフを訪ねた。彼もこの日はキャンプに入ることができない。「キャンプの環境は悪くなっています。ミャンマーに資産がある人は続々帰っています。向こうは治安的な問題はあるけど、キャンプ内よりはいいってこと。残っているのは本当に貧しいロヒンギャ難民。これからが支援の本番? でもいまになって援助が激減している。うまくいきません」。
1週間暮らした村。家を探してくれたチョーバーシンさんは亡くなってしまった
(sight 10)
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3年前、僕はクトゥパロンの先にあるチョドリバラという村に1週間暮らした。バングラデシュの村に暮らしてみたかった。しかし家探しは難航した。ロヒンギャ難民が急増し、バングラデシュの軍や警察は、外国人への監視を強めていたのだ。そんななか、以前からの知り合いだったチョーバーシンさんが家を探しだしてくれた。しかし昨年、チューバーシンさんの訃報が届いた。しかしコロナ禍で行けない。やっと訪ねることができた。
(sight 11)
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チューバーシンさんの家は音がなかった。奥さんと娘さんが3人。奥さんは僕に会うと、急に泣きはじめてしまった。チィーバーシンさんが亡くなってから半年。奥さんはまだ過去のなかにいた。写真は僕が1週間借りた家。ここで阿部稔哉カメラマンと一緒に料理をつくり、洗濯をし、庭掃除という毎日。その日々は「12万円で世界を歩くリターンズ 赤道・ヒマラヤ・アメリカ・バングラデシュ編」(朝日文庫)に収録されている。
(sight 12)
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チョドリバラ村に暮らしたときは乾季だった。空気も乾き、夜はジャンパーが必要なほど気温がさがった。いまは雨季。しかし村は変わっていない。人口500人ほどの小さな村だから、隅々まで覚えている。毎日、ミルクティをご馳走になった家はこの先の角を曲がったところ。朝食を買ったのは手前の店⋯⋯。
(sight 13)
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村の人たちが昼食を用意して待っていてくれた。1週間、村で暮らしただけだったのだが。この村は金の装飾を生業にしている人が多い。ベンガル人の観光客が好みのデザインを注文するのだ。しかしコロナ禍で人の動きも制限され、生活はかなり苦しいはず。しかし村の人の笑顔はなにも変わらない。村の人や僕にとって、チョーバーシンさんの精進落とし?
ミャンマーを眺めることができなかった
(sight 14)
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チョドリバラ村で僕がいちばん好きだった場所がここ。村のはずれ、川の土手の内側にある東屋だ。村はミャンマーとの国境であるナフ川に沿っている。男たちは意味もなく、ここにやってきてぼんやりする。亡くなったチョーバーシンさんともここでよく話をした。今回もここに座った。コロナ禍、そして死⋯⋯。こんなことをいったい誰が予測できただろう。
(sight 15)
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東屋の少し先にあるこの坂をのぼると土手の上に出る。そこからナフ川の流れが見え、その先にミャンマー。その様子を眺めようとこの坂をのぼろうとした。しかし雨を含んだ泥の坂道で、途中までいくと、ずるッ、ぬるッと滑り、のぼることができない。何回かトライしたが無理。結局、ミャンマーを見ることはできませんでした。
【次号予告】次回は1回休載。9月30日の公開に。バングラデシュからタイに戻っていきます。
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