ジャニーズJr.オーディションに落ちた僕が35歳でわかった「なれなかったもの」との距離
ジャニーズという“自分の叶えられなかった夢”を叶えた人たち
自分の“なれなかったもの”になれた人がいる。
自分より成功している、同い年がいる。
彼らのことをどう見つめていけばいいのだろうか。
いつになったら、彼らに追いつけるのだろうか。
僕がジャニーズになりたいという初めての夢を持った頃、既にその夢を叶えた同い年がいた。
山下智久・1985年生まれ。
僕の悩みが定期テストだった頃、彼の悩みはドラマでの自分の演技の仕方だった。
僕が童貞を脱出しようと必死だった頃、彼の恋人と噂されたのは後藤真希だった。
僕が大学受験に苦しんでいた頃、『山下智久明治大学合格』の報が流れた。
僕が就職活動をしている頃、彼は200万枚のCDを自分の名前で売っていた。
山下智久だけではない。
僕は、ジャニーズを追いかけながら、人生を重ねてきた。
彼らの人生スピードは早く、一生追いつけないように思える。
ジャニーズが僕に与えてくれたのは、たくさんの希望と、ときどき絶望。
僕がジャニーズを見る眼差しは、羨望と嫉妬が入れ代わり立ち代わりやってきた。
この世界には、与えられて生まれてきた人と、与えられずに生まれてきた人がいて、僕は後者なのではないか……。
憧れでしかなかったジャニーズが最初に絶望を与えたのは高校入学直後だった。
「偏差値を高くすれば、いい大人になれます」
1995年、小学3年生の終わり。阪神淡路大震災が起こった後くらいから、街中で『がんばりましょう』が流れる機会が多くなっていた。
テレビには『愛ラブSMAP』や『味いちもんめ』が映り、CDラジカセから『胸騒ぎをたのむよ』や『木村拓哉のWhat's UP SMAP!』が流れる家で、9歳の小学生がSMAPに興味を持つのはそう、珍しいことではなかったように思う。
その中でも、“中居クン”は、話も面白ければダンスも演技も上手く、小学校4年生男児がはじめて意識した理想の大人だった。
「中居くんみたいになりたいから、ジャニーズ事務所に応募したい」そう母に告げたのは、小学5年生、中学受験塾の夏期講習の帰りの小田急線の電車の中だった。
「いい学校にちゃんと入れてからね」
そう返すのも、親としてはそう珍しい反応ではなかっただろう。
第一志望の学校に落ちた僕の“いい学校に入る”と“ジャニーズ事務所に応募する”は同時に先送りになった。高校受験に集中し、辿り着いた先は、日本で一番偏差値の高い共学の高校だった。
「いい学校に入ればいい仕事につけていい生活がおくれていい大人になれます」
2度の受験の中で、大人たちにそう刷り込まれてきて、僕自身もそう信じ込むようになっていた。
2001年・4月。土曜の深夜につけたテレビ朝日のジャニーズJr.の番組『裸の少年』を見て愕然とした。
亀梨和也・田中聖・高井宙也・宮城俊太・五関晃一etc……そこでメインを張っていたメンバーは僕と同い年や、年下が中心だった。
同じ1985年生まれ、前年のTBSドラマ『池袋ウェストゲートパーク』で脚光を浴びた山下智久に至っては、人気がありすぎて『裸の少年』には出演していないくらいだった。
『裸の少年』を見てから高校に行くと、周りの友達がつまらなく見えた。
“勉強をして、最高峰の偏差値にまで辿り着いた人は、素晴らしい”んじゃないのか!?
ここに通ってるのは“いい大人”予備軍じゃないのか?
テレビをつけると映る同い年のジャニーズJr.たちのほうが、楽しそうで、社会的にも価値を生み出していて、お金も稼いでいる――。
今まで僕が信じてきた「偏差値を高くすれば幸せになれます」は嘘だったのではないか―――。
中1の頃見ていた『8時だJ』ではまだ、滝沢秀明や小原裕貴など、自分より年上の少年たちが活躍していた。中3の1年間、勉強に集中してあまりテレビを見ない生活をおくっていたら、事態はとりかえしのつかないことになっていた――。
焦った僕は、ジャニーズ事務所に初めて写真と履歴書を送った。
返事は来なかった。
高校生になってからジャニーズJr.になろうとするなんて、もう遅いのかもしれない。
それからも1年に1回、新たに履歴書と写真を送り続けた。
学校から帰ると、期待を込めてポストを空け、自分宛の郵便がないと、そのまま部屋で、ビデオテープに録画した『少年倶楽部』を繰り返し見る每日。CD化されていない曲も全部ソラで口ずさめるようになった。
そのうち大学受験の時期がやってきた。
『山下智久AO入試で明治大学合格』の報が流れた。もう学歴さえも勝てないかもしれない。
なんとか大学に入学した後の、18歳の夏、4通目の履歴書を送った。
初めて来たジャニーズ事務所からの返事には、オーディションの会場と日時が記されていた。
会場となったテレビ東京系のジャニーズJr.番組『Ya-ya-yah』のスタジオの中は、小学生から中学生の子どもたちが溢れていて、いつも背の順では小さい方だった僕が、この日だけ“大きいほう”だった。
1日かけて1曲の振り付けを教えてもらい、ダンスを踊って、カメラの前で自己紹介をしたオーディションの最後にこう言われた。
「皆さんはここに呼ばれた時点で、ジャニーズJr.研修生です。すぐに連絡が来なくてもあきらめないで待っていてください。すぐに連絡が来なくてもあきらめないで待っていてください」
大学1年生の夏、僕は誰とも遊ばずに、家に引きこもって電話が鳴るのを待った。
夏休みの終わりに見たミュージックステーションでデビュー曲『浪花いろは節』を歌う関ジャニ∞のバックに、オーディションで隣にいた男の子の顔を見つけた。ああ、僕は選ばれなかったんだ、と感じた。
後日、雑誌で、その子の名前が山田涼介というのだと知る。
就職活動も恋もすべてがうまくいかなかった
ジャニーズになるのが無理ならば、ジャニーズに少しでも近づける仕事に就こう……。
アナウンサー試験を受験することにした僕は、各局をまわった。
今日も落ちたかもな、とテレビ局のエントランスで少し上を見上げると、吹き抜けの天井の上のほうから、山下智久の主演ドラマの告知の垂れ幕が大きく掲示されていた。20メートルはあっただろうか。そのまま、人としての大きさの差に感じた。
2007年9月24日。僕の21歳最後の日。2周目の就職活動が始まった頃、山田涼介のデビューが発表された。ユニットの名前はHey!Say!JUMP。
昭和生まれの僕は、1歳年を取るだけで急激にうまくいかなくなる就職活動も重なって、もうどこにも自分が生きていける場所はないように感じていた。
ジャニーズにはなれなかった。アナウンサーにもなれなかった。
自分の想いが届く場所は、この世界にはないみたいだ。
それでもジャニーズの曲はいつも、奇跡や愛を歌い、子どもが大人の作った世界をひっくり返すことを歌っていた。
自分の哀しさと対話するときには、常に堂本剛の言葉がよぎった。
横浜で行われたENDLICHERI☆ENDLICHERとしてのライブに警備員のアルバイトとして入り込み、ひたすら背中越しに剛の声を聞き続けた僕は、MCを暗記できるほど、剛の言葉が、每日頭の中で鳴り響いていた。
「自分はここまでって決めつけちゃダメだし、本当はもっと行けるはず、って思わないと」
気づいたら、大学5年生の春休みで、就職先の決まらないまま卒業が迫っていた。
「システムっていう言葉に運命っていう奇跡的な言葉が負けていく」
新卒一括採用というシステムに絡みとられてはいけない気がした。僕の運命は、何なのだろう?
誰にも受け入れてもらえなかった就職活動の日々を、言葉にすることにした。
生活がままならないから、小学生の頃に通っていた中学受験塾で国語教師のアルバイトをはじめ、22時に帰宅すると、翌朝5時まで近所のマックで書き続け、2時間寝て、9時にはまた授業をした。だが文章を書くことは、全く苦にならなかった。
「自分がしんどいながらも『楽しい』と思える場所を発見出来た」
かつて、堂本剛が自分の音楽にたどり着いたときに言っていた言葉を思い出した。
卒業直後の2009年6月『テレビ局就活の極意 パンチラ見せれば通るわよっ!』というタイトルでその文章は商業出版された。23歳だった。
絶賛してくれた大学教授と、アナウンサーがいた。それでも、増刷はされずに終わった。
タイトルだけで拒絶する人もいた。
また、剛の言葉が響く。
「感じようとしない人は一生わからないものだとも思う。でも僕は投げ続けようと思った」
翌年も、アナウンサーになれた人をインタビューした本を書き続けた。
2011年2月12日。2冊目の本の発売の翌日、Kis-My-Ft2のCDデビューが発表された。
1985年生まれ、僕より8日早く生まれた北山宏光は、当時、ジャニーズ事務所史上最年長・25歳でのデビュー決定だった。事務所入りも遅く、2002年・高校2年生でジャニーズJr.入りしている。
同い年の山下智久や亀梨和也のバックで踊ったり、平成生まれの年下に先をこされたりしながらも、デビューを果たした北山は、“奇跡を現実にした人”に見えた。
僕が『裸の少年』を見て、焦りながらも半分諦めていた頃、挑戦を始めた北山宏光は夢を叶えた。「もう遅い」なんて、なかったんじゃないか。
デビュー決定後、Kis-My-Ft2の東京ドームコンサートは涙が出るくらい感動的だった。
同じ東京ドームという空間の中にいる、同い年の男。
北山はステージから客席を向き、僕は客席からステージを見上げている。
その2つの視線の方向が真逆で、交わることのないように、僕の人生も一生、彼と交わることはないだろう。
ライブのラストで、感極まった北山が泣いていた。
でも、それは僕が流している涙とは決定的に種類が違った。
彼が流しているのは、得た者の涙であり、僕が流しているのは得ていない者の消費の涙だ。
僕はいつか、得た者としての涙を、流せるのだろうか。
2冊目の本も、増刷されずに終わった。
26歳。定職にもつかずに、文書を書き続けているのは社会性がないように思えた。話が合う同級生は少しづつ減っていった。
でも、剛は言っていた。
「自分が何らかの考えを持って生きているなら、<こいつ頭オカしいな、うるせえな>って思われても、その考えを主張したほうがいいはずだ」
僕は自分の言葉で主張をし続けることにした。徐々に雑誌での寄稿や、大学での講演の機会も増え、コミュニティFMながらもラジオで自分の番組も始まり、このままいけるか、と思った矢先だった。
自分の人生を変える本が出版された。だが、それは僕の本ではなかった。
『ピンクとグレー』(加藤シゲアキ)
NEWSのメンバーである加藤シゲアキの出した小説は、芸能界と渋谷の街という、彼が見てきた風景と心の葛藤が描かれた、彼にしか書けない傑作になっていた。
ジャニーズになれなかったから、本を書いてきたのに、ジャニーズに僕より面白い本を書かれ、そして売れてしまった今、どうすればいいんだ……。
僕は、加藤シゲアキが見ていない風景を見に行かなければならない。
数年前に決別をしたはずの、就職をすることにした。
会社員になって見える景色があるはずだ――。
面接の2日前、大学時代の終わりから5年間つきあっていた彼女に、部屋でこう言われた。
「君と一緒にい続ける未来が見えない」
別れを告げられたその瞬間、部屋の奥に飾ってあった山下智久の写真と目があった。
さらに遡ること2年ほど前に、彼女がアルバイトしていたテレビ局の番組で使われたボードを僕のために持って帰ってきたものだった。
小学5年生の入所当時、ジャニーズJr.の端っこのほうで踊っている山下智久の写真が貼られたもの。その日の番組は、そこから売れるようになるまでを振り返るトークだった。
「山Pも最初は脚光を浴びてなかったんだって!」と、持って帰ってきた日の彼女は、嬉しそうに僕に報告していた。
「だから、君も――」と続けたかったのかもしれない。
山下智久の大きな目がこちらを見続けている。もしかしたら、山下智久があのまま端っこで踊っている未来、もありえたかもしれない。
だとしたら、僕がもし小学校5年生のとき、親の反対を押し切って応募する勇気さえあれば――。あの写真の中で踊っているのも、ありえたかもしれない未来、なのではないか――。
僕はいつも、「もう遅い」のかもしれない。
いや、「もう遅い」なんてないって北山宏光が教えてくれたんじゃないのか――。
27年。それでもやっぱり、取り返しのつかないくらいの時間は生きてきてしまっていた。
そうだ、剛は言っていた。
「絶対幸せになってはいけないと。幸せになった瞬間なにを唄っていいかわからなくなったりとかね」
このまま僕は幸せにはならないかもしれない。
でも、幸せにならない限り、紡ぐ言葉はあるはずだ。
堂本剛が『これだけの日を跨いできたのだから』という曲を横浜で歌っていたのも、27歳のときだった。
これだけの日を跨いできたのだから、幸せになれる、ではなく、
これだけの日を跨いできたのだから、悲惨な出来事なんてあるのが当たり前だと歌う曲だった。
「なれなかったもの」を見つめ続ける
あれほどできないと思っていた就職は、いきなりの社長面接の数分の会話と、持っていった1冊の本で、その場で決まった。
「パンチラ見せれば、通るの? あはは、面白いー!」
業界内でやり手だと噂されていた女社長は、想像以上に優しい笑顔で、僕を受け入れ、面接後そのまま僕をオフィスフロアに連れていき、全社員の前で「来週から一緒に働く霜田くん。みんなよろしくねー」と言った。
挨拶をしながら、そういえば、ジャニーさんって、オーディションにやってきた子を当日にステージに上げたりするんだよな……そんなことを思い出していた。
もちろん、どこに籍をおいても、僕の第一志望は、ジャニーズ事務所のままだ。
今でも、あの時のまま、待っている。
待ちながら“なれなかったもの”を見つめ続けた。
それは、大人になれなかった、ということでもあるのかもしれない。
3冊目は、“なれなかった”アナウンサーの本になった。
そして、会社員になる前から書き続けた本が、4冊目として出版できることになった。書き始めてから10年が経っていた。
この世界には、与えられた人と、与えられなかった人がいるのではなく、頑張った人と、頑張らなかった人がいるだけだ――。
そんな想いを込めてタイトルは『ジャニーズは努力が9割』になった。
ジャニー喜多川論と銘打った章の結論は「ジャニー喜多川は時計の針を自ら止めた大人である」だった。
書きながら気づいた。僕自身もジャニーズが好きすぎて、時計の針を止めてきたのだ、と。
時計の針を止めたまま、“なれなかったもの”を見つめ続けてきた。
その“幸せではない時間”の中には、紡ぐべき言葉がたくさんあった。
会社に入って3年が経って、WEB媒体ひとつ任されたときに提案したコンセプトは“オトナ童貞”だった。青春時代の心を持ったまま、大人を生きている人のためのメディア。あの頃の感情を忘れない、忘れたくない、という決意のようなものだった。
「みんながなりたかったものになれるわけじゃない」世界の中で
そして、2019年7月。
10年分の集大成になる本のあとがきを書いている最中に、ジャニーさんの訃報が届いた。
待ち続けていたら、ジャニーさんが僕に下した最後のジャッジは『研修生』になってしまった。でも、これで一生、僕は研修生だ。
研修生のまま、針は止まっている。
大人にならず、完成することなく、満足することなく、未完成を武器にし続けられるのが、研修生であり、ジャニーズイズムのはずだ。
もうひとつ『ジャニーズは努力が9割』をまとめ、取り上げた16人について考えながら、気づいたことがある。
亀梨和也の中学生の頃の夢は野球選手で、北山宏光の夢はサッカー選手。
もともとジャニーズになりたくて自ら応募した積極派は中島健人くらいのもので、ジャニーズの彼らですら、最初の夢を叶えたわけではなかったのだ。
色々な局面で、選ばれる人と選ばれない人がいる。
みんなが、なりたかったものになれるわけじゃない。
それでも自分の物語を紡いでいる。
叶わなかった夢に近づいたり、離れたりしながら、誰かが、誰かの夢の上に立って、この世界は成り立っている。
僕も、叶わなかった夢を想い続ける。
ジャニーズの努力は僕に、頑張った先にある“ありえたかもしれない未来”を見せてくれた。
そして僕は僕で自分の人生の物語を紡いでいこうとする。
そういえば15年前のあの日、山田涼介たちと一緒にオーディションで踊った楽曲のタイトルは『夢物語』だった。