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いまの自分を"正解"にしていくという考え方を捨てる
前の投稿から久しく、3カ月が経とうとしてます。
今回も気持ちの備忘録です。
"正解""不正解"が刷り込まれた言葉にあふれている
最近は、正解だ不正解だをいいあう会話につかれたなと感じています。
仕事内でのディレクションや方法論、戦略的判断がいる各種のゲームについては、もちろん正解不正解はあるだろうなと思うんですが、
ここでいうのは、日常での生活で起きることや人生の分岐点でのお話。
あの人と関わったことが"失敗だった"とか
ここでの生活送れて"良かった"とか
ほとんどこんな会話しかどの時代もしてないんじゃないかと、そんな頻度でよく耳すると思うんですけど、そのたびに、窮屈になる感覚が残って。
さらに、それを自分に言い聞かしているような投稿を見かけたりするのもそう。
あのときの選択肢を選ばなかったから、今がある、今を感じられるとか。
昔に思い描いていた形とは違うけれど、別の形で表現することができたとか。
結果として生まれた"いまのもの"を、”絶対的な正義”として自分の中に置いて進んでいくことは、危ういなーと感じています。
自分の気持ちも"ミス"はする
勘違いしないでほしいのは、
「自然体でいることは良くない!」ってことは言ってないよ
"あなたの思う正解や不正解"を否定してるんじゃないよ
ってことです。
むしろ自然体でいること、いま感じること、思うことは、個人的にものすごく大事なことだと思ってます。
でもだからといって、自分の気持ちから生まれ出た感情や、言葉というものが間違いなくすべて正しいかと問われれば、そうじゃないんじゃないかなと思うんです。
余地に可能性を見出す
もし仮に、今の感情が正解だとはっきり色付けてしまえば、もうそれについては、そのときの視点視座についてのみしか持たないことになってしまう。
「あのときに選んだものがこちらでよかった、だから今がある!」よりは、「どちらを選んでもよかった。たまたまこっちを選んだだけだ」と思えたほうが素敵だと思う。
考え方に白黒をつけず、余地を持たせることに可能性を見いだすことができるから。
選択した結果に対して白黒をつけていくことを、特に、「人生」にしてしまうこと、ましてや(自分のも他人のも)人生の良し悪しを図らないでいいよと感じました。