共同研究の難しさ
久方ぶりである。
共同研究について。
私の分野である、社会学は正直言ってまだまだ共同研究は優勢ではない。そして共同研究といえば多くのケースは計量研究がおもで、質的研究をやる人の多くは一人でやる人が周りを見渡すと多い気がする。
私自身質的研究のPJを一つやっていて、質的研究をやっている後輩も誘ってみたがあんまりやる気がなく、音沙汰がなくなってしまった(まぁ自分の人望のなさだろう)。
まず手法で切り取って共同研究のASis/Tobeを考えてみたい。
共同研究の多くが計量研究なのは、分業のしやすあがあるためであろう。
サーベイの設計、先行研究のレビュー、実査、データの前処理、実際の分析、解釈・議論の執筆。
第一著者がPM的に振る舞えばコレらを複数の得意分野が異なる人で一つの論文を書くことは難しくはない、というか、一人でやるよりも明らかにスピードは速くなると思う。そして計量手法という共通言語があるので比較的テーマやトピックが違う研究者でも関心を共有しやすいし、抽象化すれば当該PJからのimplicationも自身の研究に対して良い効果があるかもしれない。
対して質的調査の研究、例えば半構造化インタビューのケースを考えてみる。同じ社会調査でもこちらは幾分か事情が異なる。
まず、インフォーマントとの接触・交渉、先行研究のレビュー、分析・カテゴリー化、そして論文化など。
トピックやテーマがsensitiveな話題など日本の社会学にありがちな問題設定だと、そもそもインフォーマントはそんなに自分の存在を知られたくないはずであ離、共同研究のハードルが高くなる。対象がそうではなくとも、sensitiveな質問を投げかけるケースなどは第一著者がクオリティコントロールするのが大変なケースも多い。下手したら人権問題になるのはいうまでもない(まず持って社会調査は基本迷惑なのである。私だって人に聞かれたくないことは2-3つある。それを物見遊山に根掘り葉掘り聞かれるのは腹たつし、しゃべるギリなんてねぇだろと一個人としてよく思う)。
また自分のトピックやテーマにしか興味がないケースもあり、これは手法の共通言語が量的ほど強くないことによるのかなと思う。質的調査の方法論的妥当性について、厚い記述などととクリシェのように言われ、その内実が職人芸化した功罪かなと思っている。
私自身は比較的何事にも興味が持てるタイプなのだが、実際周りを見渡すと自分の問題系しか興味がないというケースはかなり多い。良いとか悪いとかではなく、まず持って人間の本性はそういうものなのかなと思う。
当たり前だがとっかかりがないと共同性は生まれない。相補的でありつつ、共同性の良さを持ってないと共同研究する意味はあまりない。
共同研究が生まれるべきとも思ってないし、みんなが好きなようにやれば良いと思ってるが、私は共同研究を積極的にやっていきたいと思っている。
そのほうが気づきもあるし、生産速度や自分一人では進まないことも進むと思っているからである。
共同研究を行う場合注意したいのがauthorshipの問題である。
誰が第一著者になるのか、コレで揉めるケースは2つほど聞いたことがある。最初に決めておくべきだが、PM的な振る舞いの人が明確な分業が引けないマネジメントをやると、結局貢献の度合いに対して決まる著者順において問題が起こる。
当たり前だが、こんなにやったのに端っこだと?と。ちゃんと研究計画を立案した人間が分業をしっかり行い貢献の度合いを峻別しないといけない。
あとは教員が院生にやるケースは暗黙な搾取にならないように留意したい。院生はおそらく大抵の場合指導教員にNoとは言い難い(俺は結構そう言う性格なのでY/Nは明確に言うし、めんどくさい時は普通に断る)。そして役に立ちたいと思う。結果見えない裏側で自分の研究を蔑ろにしてやる人もいる。そう言う権力勾配を認識した上でちゃんとやっていくのが大事である。コレはもちろん企業でも同じことが言える。
このくらいであろうか。
査読対応で年末が潰れそうだし、論文の執筆があるし、分析も終わらせないといけない。研究者は24/365やるべきだとか、いやホワイトあるべきとかいうが、そんなこと知らん。各々が自分で好きにマネージメントすれば良いのだ。語る意味がそもそもない。時間の使い方に公的言説が浸潤するなどあり得ない、自分でどうしたいのか私は私で決められる。
良いお年を。