孤独に気付く。
ああ、そうか。孤独が苦しいのか。
そう思えるまでに随分かかったなと思った。
引きこもって、途中アルバイトもしていたけれど、結局体調を崩して離脱して、まともに働いてないといえばもう1年が経つ。
この間に、社会が怖いと思いながら社会を忌避しながら、どうしても後ろめたさがあった。
ただ生きているだけの生活は居心地のよさはなかった。
ただ働くストレスに耐えられる体ではまだなく、すこし調子が悪くなると不眠がちになり、そこから体調を崩してしまう。
これが治るのか、よくなるのか、いまいち先が見通せない。病院に行くのも怖くて、一度通うのを辞めてしまってから行けていない。
昨日から、ゴミ屋敷の清掃をする動画を見ている。
大体の人が、徐々にゴミを出せなくなって、溜め込んでしまって、誰にも頼れないまま、何年もの間、狭く足場の悪い環境で住んでいたりする。
ゴミに埋もれている気分は、どうなんだろう。
それを考えることは失礼だろうか。
誰かにとってその環境は、救いや安心やメリットがあるのだろうか。
けれど、物質的な触れ合いに対する愛着なら分かる。わたしは抱き枕が好きで、腕の中に抱き込まないと眠れない。抱き枕がない環境では毛布を抱きしめて眠る。
物が与える触覚はダイレクトで、体感として安心出来る。ふわふわと温かければすこし満たされる。
性依存とも似たものを感じるけれど、対人が怖いと物質的な依存に傾倒したりするんだろうか。
わたしは人間は怖いけど動物は好きだし、触れ合うのもすきだから、対人に対してもう少し親近感があれば人と関われたのかなとも思う。
心に隙間があるのに、明らかにさみしいのに、それをさみしいと言えない時、さみしいが長く解消されない時、人は孤独になってしまうのかもしれない。
誰にも言えないほどに傷ついている時、哀しくも人は本当に独りになってしまうのかもしれない。
人に言えないさみしさは、埋まることがない穴となる。食べても、注いでも満たされない。
キラキラしたものは眩しくて落ち着かない。
日差しが疎ましい。
部屋はどこも湿っていると動画で聞いた。
窓を開けるのもきっと世界や社会と繋がる感覚があって、それすらも怖いのだろうか。
その感覚ならよく分かる。カーテンすら開けるのが怖い日がよくある。
思えばわたしは誰かといても疎外感を感じる子供だった。
それは、不登校になる前の教室でもそうで、不登校になった後の生活でもそうで、社会人として働き出してからも16で働いている人はいわゆるヤンキーのようなやんちゃな人達しかおらずはみ出しものの感覚が強かった。
高校に行き始めて、部活も生徒会もテストもやれるだけやったけれど、どこかでずっと物悲しかった。それをバレるまいと悟られるまいと鞭を打って走っていた。暇があるのが怖かった。
家には眠りに帰るだけで、バイトと学業、部活に励んだ。他者と繋がり他者と笑い、束の間満たされても、すぐに乾いてしまう。
このさみしさは、ほとんどの人から疎まれるだろうと、何となく分かっていた。
こういうさみしさを、もし動画の人たちも感じていたら。社会に出ても、引きこもっていても、どこへ言って何をやっても、結局ずっとさみしくて満たされないなら、そりゃ苦しいよなと思った。
これは全て憶測で、結局想像は主観から出ないから、見当違いな場合も多々あると思うけれど。
状況は違えど、わたしとあの家主たちとは、グラデーションであって、隔たりはないのではないかと感じたりして。
人はみな孤独だと子供の頃からずっと思っていた。けどそんなさみしさに、本当に死ぬまで耐えられるのだろうか。
人と人が繋がることはきっと自然で、その為の言語で、生き延びる為の多様性なのに。
わたしはわたしのさみしさを、疎ましく思っている。きっと認めた方がうんと楽になるんだ。
今まで培った色んな人の厚意をむざむざと踏みつけてきたわたしのエゴだ。
さみしさでも、人は繋がれないか。
そうして束の間一緒に居られないか。
いつかすれ違った時にその手を離してあげられたら、それだけでいいんじゃないか。
さみしさを認めた先で、どうにか癒していきたい。ようやくそう思えた。