見出し画像

6.28 五十一歳の審判~サグレシュ

巡礼63日目。今はポルトガル南部の古都・ファロの宿の屋上でこれを書いている。この宿、公園に面しているのはいいのだが、公園で放し飼いになっているクジャクが横の道路にもしゃしゃり出てきて、昨日は夜じゅうクワッ! クワーーーーッ!とさかったように吠えていた。犬猫と同様にクジャクが歩く国・ポルトガル。さすが私が愛する国だけのことはある。

ちょうどリスボンを離れて1週間になる。リスボン以降、私が何をしていたかといえば「漁師の道(Fishermen's Trail)」呼ばれる道をフラフラしていた。これはポルトガル南部の小さな漁村を結んだルート。サンティアゴ巡礼の途中で会ったケイティが「こんなんあんねん」と教えてくれた。びっくりするくらい美しい砂浜と奇岩が織り成す断崖絶壁、そして田舎ならではのスロウな空気と港町ゆえの新鮮な魚介……そうしたもろもろを堪能しながら、私は少しずつバスで南に進んでいたのだ。

そのイベリア半島西岸を南に下った突き当りにサグレシュという町がある。言葉で説明するより地図で見た方がわかりやすい。


ここだ、サグレシュ。見てわかるように、突端のサン・ヴィセンテ岬はユーラシア大陸の最南西端。崖も垂直に切り立っていて、まさに地の果て、世界の終わり、ヨーロッパの終着地と呼んでいいような場所である。

最初に旅のルートを考えたとき、サグレシュは寄れるヒマがあったら寄ってみるかくらいのイメージだった。しかし漁師の道を歩いている途中から、私は妙に緊張してきた。「もしかしてこの旅の本当の目的地はサンティアゴ・デ・コンポステーラではなくサグレシュなんじゃないか? サグレシュこそ今回の巡礼旅の真のクライマックスなんじゃないか?」――そんな想いが日に日に増してきたのである。

どうしてそんなにサグレシュが重要なのか?

それは沢木耕太郎が『深夜特急』の旅で最後に訪れる町がサグレシュだからである。多くの若者をバックパック旅に駆り立てた『深夜特急』は香港を皮切りにマカオ、インド、トルコ、ギリシャと進むが、主人公が最後に辿り着いたのがこのサグレシュで、彼はこの地で1年以上に及んだ長い旅を終えることを決意する。つまり物語のラストシーンの舞台がこのサグレシュなのである。


私は『深夜特急』に影響を受けてこうした旅をはじめたクチだが、それ以上に沢木耕太郎という作家に強い影響を受けてきた。ある種の人たちがYAZAWAやAYUと書くことでその敬愛の情を表すように、私にとって沢木はSAWAKIであり、十代の頃にその作品を読んで「自分もいつかこんな硬質でロマンチックな文章が書ける人になりたいものだ」と心動かされた人物だった。いわば自分の原点、人生の目標、夢の出発点にいたのが沢木だったのだ。

その彼が旅の終わりを決めた場所に自分も立つ――お気楽に考えればそれは作品の舞台を訪れる、昨今流行りの「聖地巡礼」に過ぎないだろう。しかし私はサグレシュが近づくにつれ、次第にプレッシャーを感じるようになっていった。南に向かう足取りが重たくなっていった。「へ~、ここに沢木も来たんか~」。そんなお気楽なミーハー精神などまずない。私は柄にもなく神妙な心持ちでサグレシュの町に降り立った。

沢木がここに来た50年前(!)と違って、サグレシュはサーフィンやマリンスポーツのメッカとして盛り上がっていた。もっと最果て感が強いかと思っていたがおしゃれなリゾート宿があちこちに建っている。私が着いた日は37度の猛暑で外を歩いている人は誰もいなかった。私はサン・ヴィセンテ岬で夕陽が沈むところが見たいと思った。この日の日没は21時、宿から岬まで7キロなので歩いて1時間強。私は軽く昼寝して、19時すぎに宿を出ることにした。

岬に向かう道は一本道だった。私はまるで審判を受けに行くような気持ちで一歩一歩を踏みしめていた。審判なんてこれまでの人生で一度も受けたことはない。しかし、たぶんこんな感じなのだろう。

「どうやった51年間?」
「どうだったって……まあ見てのとおりですよ」
「なれんかったね、なりたかったものに」
「一応文章で生計立てられたから完全になれなかったわけじゃないけど……まあ、なれなかったですよ。憧れた人たちみたいにカッコいいことはできなかったっすね」
「チャンスがないわけじゃなかったよな。でもいつも凡打。勝負所に弱いっていうか、ハートが弱いっていうか。で、最終的にいつも逃げる」
「一応必死で頑張ったんですよ。背伸びして背伸びしてセノビックも飲んで。でも結果はコレ。ここが私の限界だったんですかね?」
「そんなもんわしに聞かれてもわからんよ。自分ではどう思うん? 自分の51年間、どう思っとるん?」
「どうなんですかねぇ……幸運で恵まれた51年間だったとは思うけど、結果という意味では夢は叶えられなかった……ってことでしょうねぇ……」

一体誰に答えているのか、私は一人で会話していた。審判を下すのは沢木の亡霊(まだご存命だっつーの)か、十代の頃のとがった私か。まるで私を叱るように強烈な海風が吹き付ける。私以外に道を歩いている人など一人もいない。もう太陽は傾いて、あたりは熟したオレンジ色に染められている。

本当に何者にもなれなかったなぁ……私は自分の51年間を振り返ってそう思う。私は沢木耕太郎にも吉行淳之介にも宮本輝にも色川武大にも開高健にも吉田修一にもリリー・フランキーにもポール・オースターにもなれなかった。いつか自分も憧れの人たちみたいに誰かの人生を揺り動かす素晴らしい文章が書けるんじゃないかと思っていたが、そんなことはなく、51歳の私は地の果てを目指して歩いている。相変わらず意味の分からないことをやっている。

「で、これからどうすんの?」
「これからって?」
「あんたの人生、フルフルで使えるのあと10年ちょっとだよ。どうすんの、日本に帰って何すんの?」
「それがいまだによくわからないんです」
「出た! そのよくわかんないなぁって感じ。あなた、これからもずっとそのままだよ。きっと『なんか違うな~、よくわかんないな~』って思いながら死んでいくんだろうね。人ってさすがにもう変わんないから」
「ぼんやりしたままぼんやりした生涯を閉じる……そういうのも自分らしくていいのかもしれませんね……って、それでいいのか??」

岬の先にはたくさんの人がいた。バスタオルで海風をよけながら、思い思いに座っている。子供がはしゃいで歌っている。カモメがグライダーのように浮いている。まっすぐな水平線に太陽が沈んでいく。一日が終わる様子が刻々と見える。足元に目をやると絶壁の荒々しさに身震いする。

3、2、1……心の中でカウントダウンをしている間に、太陽は一縷の細い線になって、フッと消えてしまった。夕焼けも何も起こらない、シンプルであっけない日没だった。

その瞬間、後ろから拍手の音がした。誰かがこの雄大なサンセット・ショーにオベーションを贈ったのだ。ブラボー大自然。今日の日よさようなら。私も「花火大会みたいだな」と苦笑しながら拍手した。拍手は一瞬あたりに広がったが、すぐにみんな立ち上がって帰り支度をはじめた。帰り道にはすでに長いテールランプの列ができている。それもどこか日本の花火大会のようだった。

私はあたりがすっかり暗くなるまで岬に残っていた。60歳ではなく40歳でもなく、51歳でこの旅をしてよかったと思った。太陽は沈んだが、まだ夜は残っている。私の51年間は結局憧れに届かなかったが、それでも消えない大切なものが砂金のように残っている。これを一体どうすればいいのか? 

確かに残りは少ないかもしれない。51歳から何ができるのか。だが、この旅もまだ途中。旅は終わるまでが旅である。


宿に戻って世界の終わりつながりで、カーペンターズ「THE END OF THE WORLD」「TOP OF THE WORLD」「青春の輝き」とYouTubeで聴いた。そしてコレ。Wi-FiやYouTubeのある時代、沢木の頃とは違う旅の感興があるのだろう。ちなみにセカオワさんのことはよく知らない。







いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集