映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の正直な感想|もうちょっとジョーカーという夢を見ていたかった
公開初日に映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』を観てきた(以下、ジョーカー2)。いいか悪いかで言いたいのだが、どっちつかずだ。好きなところもあればそうでないところもあり、それが打ち消し合って、結果的に65点といったところである。
そんな歯切れの悪い状態ではあるが、事前の期待は高かったので、一応、感想を書き留めておこう。
「愛し合う二人の逃避行」ではなかった
事前のPVやタイトルから期待していたのは、ジョーカーとハーレイ・クインの愛の逃避行的な物語である。悪のカリスマとなったジョーカーにハーレイが接近し、牢獄を抜け出して社会をかき乱す——。そんな物語を期待していた。
たとえば「俺たちに明日はない」という映画がある。二人の男女が世の中のモラルを振り切って犯罪を犯しながらアメリカを旅していく話だ。最後は破滅に至るが、それもまた美しい。こうした系統の物語は一定数ある。
ジョーカーは一作目が「タクシードライバー」や「キング・オブ・コメディ」といった昔の名作を下敷きとしていただけに、2では「俺たちに明日はない」を下敷きとした作品になるのではないか、という期待があったのだ。
しかし、これは淡い期待だった。期待しつつも、「それは無理だろう」「そうはならないだろう」という予感もあった。なぜか?
まず、ジョーカーとなった男、アーサー・フレックの能力が低すぎる。
彼は売れないコメディアンでしかなく、知力もなければ体力もない。常人以下だ。カリスマ性すらない。ジョーカー1作目で「悪のカリスマ」になったように描かれるが、それは不意打ちによる一発が話題性を呼んだだけであり、彼自身のカリスマによるものではなかった。実際にはアーサーには何の能力もないし、ヴィジョンもない。そんな彼が外の世界に出てカリスマとして活躍することは土台無理な話だったのだ。
さらに、予告編の時点で映像が嘘くさかった。ハーレイと二人で歌ったり踊ったりするシーンはあるが、どうにも現実のシーンとは思えない。アーサーがテレビや舞台でスターになるとは思えない。なので、あの予告編を見た時点で「これはアーサーの妄想だ」というのは分かってしまう。
こうして淡い期待は予感した通りに裏切られ、ジョーカー2は別の物語として眼の前に現れてきた。
ジョーカーは人物ではなく現象
一作目を見た時点では、ジョーカーという名称はキャラクター名だと思っていた。アーサーという人物が変貌した別人、キャラクター、それがジョーカーだと思っていた。
しかし、ジョーカー2ではその理解の仕方が否定される。ジョーカーとは、ある個人ではなく、大衆を巻き込んだ現象なのだ。
アーサーはジョーカー現象を巻き起こした張本人ではあるが、それになりきれていない。実に中途半端だ。ジョーカーという現象に乗っかるようなこともあれば、みずから降りてしまう場面もある。
アーサー=ジョーカーとして見ていた人にとってはこのどっちつかずの状態が気持ち悪いのかもしれない。「こんなのジョーカーじゃない」と、まさに劇中の人物が後半で吐露したような落胆を覚えるのだろう。
しかし、ジョーカーとは現象である。その現象の幕引きを描いた今作はやはり「ジョーカー」というタイトルにふさわしいと思う。
淡々と期待を裏切っていくストーリー
ジョーカー2は、全体としてもそうだが、個々の場面、キャラクターにおいても、「淡い期待」をさせておいて裏切るというパターンが続く。
たとえば、地方検事のハービー・デントという男が出てくる。彼は「ダークナイト」ではジョーカーの策略によってトゥーフェイスという悪役へと変貌するキャラクターだ。
そういう予備知識があるから、今回のハービーも何か裏があるか、途中で寝返るのかと思いきや、何も起こらない。淡々とアーサーを追い込んでいくただの正義の男のままで終わる。肩透かしである。
あるいはアーサーの裁判に加わる陪審の人々がいる。裁判所の外ではジョーカーを支持する群衆が群がっているため、この陪審員たちももしやジョーカー支持者ではと期待させるが、これも違う。最後には冷徹に有罪の判断を下していく。
こんな場面もあった。途中、留置場(正確には病院?)の看守がアーサーにサインを頼むところがある。そうして、本人に聞こえるようにこんなことを言う。
「こいつが死んだら本が値上がりするからな」
いかにも侮辱的であり、後にはこの看守はアーサーに殺されるのではないかとすら思った。前作、電車の中でからんできたウェイン産業の会社員がアーサーによって銃殺されたように、何らかのカタルシスが用意されているのではないか、と。
しかし、それもない。この嫌味な看守はそのあと登場することすらなかった。
また、いちばん近くにいて合唱団に誘ってくれた看守やアーサーを慕う青年の囚人も、何か活躍してくれるのかと思いきや、何もない。やはり肩透かしである。
このように、ジョーカー2ではことごとく観客の淡い期待が裏切られながら物語が進むのである。
正当な続編だとは思うが……
ジョーカーという共同幻想、あるいは社会現象を描いた物語として、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は正当な続編だったとは思う。
しかし、前作によって掻き立てられた期待が大きすぎた。前半に書いたように「俺たちに明日はない」路線の2を見てみたかった、という気持ちは拭いきれない。アーサーの能力不足という難点はあるにせよ、そこはハーレイという有能な新キャラクターと工夫によって、何とかカバーできたのではないか。きれいな幕引きはそのあと、3に譲ってもよかったのではないかと思う。
とはいえ、ジョーカーは一作目の時点であまりに大きな熱狂を生んでしまい、ジョーカーを模倣したような犯罪も世界各地で発生した。その上で反モラルを賛美するような物語を作ることは不可能だったろうとも思う。そんなことをすればさらに犯罪を誘発するようなものだからだ。
それでも、もう少しジョーカーという夢を楽しませてほしかったというのが偽らざる感想だ。