ハイデガーが嫌いな理由
ハイデガーという哲学者が嫌いである。どうにも受け付けない。その哲学に価値があると思えない。
これは学部と院で哲学を学んでいるときからうっすら感じていたことだ。だから、ハイデガーはまったく読まなかった。読もうという気にすらならなかった。
しかし、さすがにまったく読まずに嫌いだと言い続けるのもよろしくない。それはフェアではない。というわけで、つい先ごろ、食わず嫌いしていた『存在と時間』を読んでみた。だいぶ難解で大部な書物ではあるが、ようやくそれを紐解いてみた。
結果、上下巻のうち上を3分の2ほど読み進めたところで止めた。というか、やはり私の中でのハイデガーのイメージは何も変わらなかった。というより、「ここがいやだ」という漠然とした負のイメージが確信に変わった。思った通り、ハイデガー哲学は、私は受け付けない。
理由をいくつか挙げてみよう。
ニーチェとショーペンハウアーへの相反する態度
まずいくつか、『存在と時間』とは無関係な部分から触れていきたい。
ハイデガーは『存在と時間』が有名だが、哲学史の研究者として優秀だったようである。中でもニーチェ研究には定評がある。
ただ、ニーチェ哲学を深く研究する一方で、ショーペンハウアーのことは軽視していたようだ。「分かりやすさの次元」との言葉でショーペンハウアー哲学を評しているらしいのである。
これには首を傾げざるを得ない。ニーチェはショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界』に衝撃を受けてその哲学を構築していった。ニーチェのコアにはショーペンハウアーがある。にもかかわらず、ハイデガーがニーチェを評価しながらショーペンハウアーを軽視しているのは解せない。
ナチスへの傾倒と反省のなさ
これはよく言われていることだが、ナチスが台頭してきたとき、ハイデガーはフライブルク大学の学長としてナチスに協力的だった。ピーター・ドラッカーやフランクフルト学派の哲学者たちが早々とその危険性を察知して亡命したことを思えば、時代のせいにもできないだろう。
ハイデガーが悪質なのはそれだけではない。戦後も、ナチスへ加担したことを反省していないのである。かつての教え子、ハンナ・アーレントが戦後にナチスとの思想的対決によってその哲学を構築していったのとは対照的である。
加えて、近年はハイデガーの日記、通称・黒ノートの研究により、彼が戦後もずっと反ユダヤ的思想を持ち続けていたことも明らかになった。
こうしたハイデガーの態度には、哲学者として、さらに人間としても、かなりの不誠実さを感じる。
思索は真理を発掘することができるか?
さて、『存在と時間』の話に移ろう。
この書物は師匠であるフッサールの現象学を用いて、西洋哲学が忘却していた存在そのものを問うという試みである。存在を自明のものとするのではなく、「存在とは何か」という根本的な問いに取り組もうという野心的なテーマが掲げられている。
そうして、この問いを深めていくために、まず存在そのものではなく、世界-内-存在という存在が取り上げられる。これは平たく言えば人間のことだ。さまざまな規定をはぎとり、現象学的に見られた人間を世界-内-存在と呼び、その存在の根源を問うていく。
こうしてさまざまな独自の概念と言葉を駆使しながら、『存在と時間』の叙述は進んでいく。
私もしばらくは、理解度は別として、この探求に付き合ってみた。ハイデガーが少しずつその思索を進めていくさまを見ていた。見ていて、一つ感じたことがある。それは、ハイデガーの思索がまるでスコップで土を掘るようだということだ。
ハイデガーは存在という、いわばすべてのものの根底、地面を、思索(Denken)によって掘っていく。そのまま掘ろうとしたり、硬いところはいちど避けて別のところから掘ってみたり、そんなふうにして足元を掘り崩し、真理を「発掘」しようとするのである。
私には、この態度自体が受け入れられなかった。
はたして、哲学的真理というのは「埋まっている」ものなのだろうか。それは「考える」という作用によって手に入るものなのだろうか。比喩的な言い方にはなるが、このような根本的な疑念が消えなかった。
もし思索によって存在という地面を掘り進み、真理を掘り出すことができたとしよう。しかし、それは本当に地面に埋まっていたものなのか? 実は、掘っている当人がそこにこっそり埋めたものに過ぎないのではないか? そんなふうにすら思ってしまう。
真理は聖者に啓示され、哲学者が説明する
ショーペンハウアーの考えでは、真理はブッダやイエスのような聖人にもたらされる。真理は、いわばその人間の外部から飛来するように与えられるのである。哲学者はそれを説明することができるに過ぎない。決して、哲学者が思索によってそれを掴み取ったり掘り当てたりするようなものではないのだ。
私も、哲学はそのようなものだと思う。哲学は物事を整理したり、解釈したり、究明したりすることはできる。しかし、そこまでだ。いかに思索を深めようとも、宗教的な真理そのものや神からの啓示に類するものを直接手に入れることはできない。もしそれができたと思うならば、それは錯誤に過ぎないだろうし、そんなことができると思うこと自体が哲学者の傲慢だろう。
ハイデガーという人は、『存在と時間』を読む限り、常人離れした思考力を持っている。それは認めないわけにはいかない。その思索のキレを見ているとまるでオリンピック選手の身のこなしを見ているような気分にすらなる。これには多くの人が圧倒されることだろう。私は読んでいないが、ニーチェ解釈をはじめとする西洋形而上学の整理も飛び抜けているのだろう。
しかし、そのことと哲学者としての正しさは別だ。私には、『存在と時間』という試み自体が、哲学という学問として、お門違いなものに思えてしまう。
さようなら、ハイデガー
本当はハイデガーの『形而上学入門』やニーチェ研究も読み、『存在と時間』も最後まで読了した上でしっかりと彼の哲学を批判したかった。だが、そこまでやる時間がない。「読まずに批判するのはけしからん」というのはもっともなのだが、人生の時間は有限なので、このあたりが限度になりそうだ。
本国ドイツでは、黒ノートの件もあってか、ハイデガー哲学を研究する人は減っているそうである。いわば、ほとんどキャンセルされた哲学者のようだ。これを残念に思う人もいるのかもしれないが、上に書いたような事情を考えると、それが自然な流れではないかと思う。