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【小ネタ】かつて中央競馬で存在したオープン競走とは?

                             2021.5.1 初稿
昔の競走馬の戦績をみると、競走名に「オープン」と書かれただけのレースをみかけることがある。最近では、ウマ娘ブームもあってか昔の競走馬にも注目が集まっているようで、例えばウマ娘最年長(?)のマルゼンスキーの戦績をみると、

年月日 競馬場 競走名 距離 頭数 馬番 人気 着順 タイム 着差 騎手 斤量 体重 (2着馬)
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1977 1. 22 中京 オープン 芝1600m(良) 5 2 1人 1着 1.36.4 2 1/2馬身 中野渡清一 57 508 (ジョークィック)
1977 5. 7 東京 オープン 芝1600m(良) 5 2 1人 1着 1.36.3 7馬身 中野渡清一 57 520 (ロングイチー)
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と、このように「オープン」と書かれただけのレース名に出走している。また、1964年に三冠を達成した今でも史上最強馬の一頭として名の上がる、シンザンも8回このオープンに出走し3回負けている。一体、シンザンほどの馬が負けてしまう、このオープンというレースはなんなんだろうか、、、と思う人もいるかもしれない。
種明かしをすると、オープンとは特別戦や重賞ではないオープンクラスのレースのことである。
現在、中央競馬での平地レースの階級(クラス)は、下から順に新馬・未勝利、1勝クラス、2勝クラス、3勝クラス(通称:準オープン)、オープンと分かれており、それぞれの競走馬は勝利数と賞金によりクラス分けされている(中央競馬のクラス分けについての詳しい説明はこちら)。このうちの、オープンクラスのレースにあたり、かつ特別戦や重賞レースのように特別登録が必要ないため「〇〇特別」や「〇〇ステークス」のようなレース名の付いていない競走である。特別戦でないことから、「平場オープン」とも呼ばれていた(以後、本稿でも「平場オープン」と呼ぶ)。現在では、3勝クラスですらほとんどのレースが特別戦であるが、1980年代前半まではこの平場オープンが多く存在した。なお、最後のレースは1995年9月24日の3歳オープン(勝ち馬:エクセレトシャトー)である[1]。
もうすでに20年以上実施されていないが、JRAの賞金規定にはしっかり残っている。詳しい賞金は以下の通りである。

平地2歳 1,150(1,600) 平地3歳オープン芝 1,350(1,900) 平地3歳オープンダート 1,350(1,800) 平地4歳以上オープン芝 2,100(2,400) 平地3歳オープンダート 2,100(2,300) 
カッコ内は特別戦の賞金                                                                                    

以上のように、特別戦より少し賞金は安く設定されている。ちなみに、現在でも障害レースでは平場オープンが多く設定されている。
さて、この平場オープン一体なぜ設定されていたのか。その理由は、オープン馬の出走機会の確保である。かつては、いまよりも重賞競走は少なかった。その割に今のように調教技術が発達していないかったので、レースを使って馬の調子をあげることは多々あった。一流馬が前哨戦(G1レースの前に似たような施行条件で行われるG2,G3のレースのこと)に出走しないことすら増えている現代では隔世の感があるが、レースに出走し馬の調子をよくしていくのが当たり前の時代がかつて(およそ1990年ごろまで)あったのである。例えば、菊花賞の前哨戦として現在はセントライト記念か神戸新聞杯のどちらかに出るか、あるいは夏の開催から直行で出走するケースが大半である。しかしかつては、神戸新聞杯と当時10月開催であった京都新聞杯の2レースに出走したのちに、本番の菊花賞に進むケースが多かった。もちろん、当時の菊花賞が11月開催であったことも影響していることもあるが、他にも皐月賞とダービーの間に行われていたNHK杯に1976年には皐月賞に勝ったはずのカブラヤオーが出走するなど、レース間隔が短くなっても前哨戦を叩いて調子を整えたうえで(時には2レース以上前哨戦に出走し)、本番のG1(グレード制導入前は八大競走)に出走することは一流馬でもよくとられたローテーションだったのである。ちなみに2000年ごろになると前哨戦には出走するものの、充分に本番のレースと間隔をあけて出走する一流馬が大半となっていった(例えば、2011年の三冠馬オルフェーヴルも翌2012年阪神大笑典に出走したのち、天皇賞・春に出走した)が、近年では先述の通りそもそも前哨戦に出走しないケースすら増えてきている。
また、平場オープンに見習騎手を乗せて出走することで、斤量面での恩恵を預かることができるメリットもあった。現在も同様だが、経験の浅い見習騎手を斤量面で優遇する「減量制度」は一般戦(一般戦とは、特別戦や重賞レース以外のレースのこと)のみでの適用である。そのため、特別戦や重賞レースでは減量せずほかの騎手と同じ斤量でレースに出る必要がある。しかし、平場オープンは一般戦であるため、見習騎手が騎乗することで減量されたのである。例として、先にあげたシンザンもこの恩恵を受けるため、オープン戦では当時見習い騎手であった武田博氏が騎乗している。シンザンの場合、あくまで調教の一貫で平場オープンに出走したという理由もあったため、3回も負けたらしい(そして栗田騎手は泥酔した)。なお、平場オープンは別定重量の設定であったが、八大競走の前哨戦として行われていた平場オープンは、賞金を稼いだ馬が出走しても、通常の別定重量に比べ負担があまり増えないような設定がなされていた[2]。

さて、この平場オープンであるが、重賞レースの増加や、グレード制に合わせた各距離路線の整備、売り上げが少なくなってしまうといった理由から、正規の設定は1984年以降行われることはなく、先述の1995年の最後のレースまでは番組変更などで行われる程度になってしまった。ただ、1980年以前に活躍した馬なら、多くの馬が出走したことのあるレースである。競馬の歴史の1つとして覚えておいてもらえれば、より当時の雰囲気というものがわかるのではないだろうか?

注釈
[1] レース詳細 https://db.netkeiba.com/race/199502020808/
[2] 競馬通信社 「沢田準【競馬を楽しく】」http://ktsn.jp/magazineIssue?genre_id=3&magazine_id=579&id=34733

余談
ちなみに、オープンレースより下の階級にあたる○勝クラスなどもかつては違う名前で呼ばれていた。これは、降級制度廃止に伴って最近変更されたばかりなのでご存知の多いだろうが、それぞれ500万下(1勝クラス)、1000万下(2勝クラス)、1600万下(3勝クラス)となっていた。ちなみに、さらに以前は400万下、900万下、1500万下であった。私の身の回りにもいまだに2勝クラスを「900万下」と呼ぶ人が約1名ゲフンゲフン...
いずれにしても、賞金額の上昇によって条件戦のレース名は変更されていったのである。ただし戦後、競馬の再開した1946年から1948年までは「A4歳」「B4歳」といった今の地方競馬のような、アルファベットによるクラス分けが行われていた(1948年6月までは戦前の競馬施行主体である「日本競馬会」が施行していたためと推測。その後、1948年9月から1954年9月までは国によって施行される「国営競馬」であった)。このあたりのクラス分けの変遷をまとめたデータについては、後日"【資料】中央競馬におけるクラス分けの変遷(仮題)"として、公開予定である。


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