なぜジャパンカップに外国馬は来なくなったのか?
2019/11/21初稿
2019年ジャパンカップ(G1・国際招待)では、出走する外国馬の出走がゼロという史上初めての事態となりました。ただ、これ以前からいわゆる"一線級"といえる馬たちの出走が少なくなったとは各所でいわれてきていました。そこで、本記事では、ジャパンカップになぜ外国馬の出走が少なくなったのか?について、ジャパンカップの歴史を振り返りつつ、考えてみます。
用語について
本稿にはたびたび、「レースレーティング」や「競走馬のレーティング」、「ホースレーティング」といった言葉が出てきますが、その言葉の意味は以下の通りです。
そもそもジャパンカップとは?
ジャパンカップ(以下、JCとします)は1981年に創設されたJRAのレースです。当時は、外国馬と日本馬では大きくレベルに差があるとされており、「世界に通用する馬づくり」を目標として掲げた時代でした。ちなみに、日本中央競馬会発足以降からJC創設までに海外遠征した、主な馬の成績は表1の通りです。
ほかにも、タガラマハラやフジノパーシアをはじめとしてワシントンDC国際(Washington, D.C. International)に出走した馬が大勢います。このレースは世界各国から一流馬を招待し、戦わせるレースでしたがBCカップ(Breeders' Cup Classic)創設による相対的な地位低下から1995年に競争が中止されています。
さて、上を見てもらえばわかるように、顕彰馬クラスであっても現地の馬やほかの招待馬たちにフルボッコにされてきました。唯一の成功例である、ハクチカラから得られた経験則は、「遠征をするには、少なくとも半年以上前から現地の環境に慣れる」ということでした。これは、1960年代に遠征し戦後日本調教馬として唯一、海外の障害レースを勝利したフジノオーの事例からも言えます。もちろん、高い能力が必要であったことは言うまでもない話ですが...
JC創設時の日本競馬の状況についても見てみましょう。1970年代の中央競馬では三冠馬が1頭もでませんでしたが、個性的な競走馬たちの多い時代でした。
・地方競馬から移籍して、一大ブームを作り出したハイセイコーとそのライバル、タケホープ
・TTGと呼ばれたトウショウボーイ、テンポイント、グリーングラスのライバル関係
・狂気の逃げ馬カブラヤオー、同期で同じく逃げて牝馬二冠を制したテスコガビー
・持ち込み馬ゆえにクラシックに出られなかったものの、8戦無敗、2回のレコード、生涯で61馬身差をつけたスーパーカーことマルゼンスキー
・気まぐれジョージことエリモジョージ
などなど、個性豊かなメンバーが大勢いました。
さらに、この時代のレース体系の特徴をあげると
・グレード制は導入されておらず、八大競走(桜花賞、皐月賞、優駿牝馬(オークス)、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞、天皇賞(春・秋)、有馬記念)が格の高いレース
・上記以外で格が高いとされた重賞は、宝塚記念、高松宮杯(当時は芝2000mで7月に施行)、函館記念(現在の札幌記念の時期に施行)、札幌記念(当時はダート2000mでダートの有力馬が参戦してきた)、目黒記念、京都記念(いずれも当時は年2回施行)、毎日王冠、ハリウッドターフクラブ賞(現在の京都大賞典)あたり[1]
・重賞レースも少なく、その代わりに平地でも単なるオープン戦が存在した(現在は平地の重賞ではないオープンクラスのレースでは、すべてに○○特別や○○ステークスといった名前がついています)。
などなど、現代とはまったく違うレース体系でした。
そのような時代に、JCは創設されました。1着賞金も日本ダービーと同額の6000万円で、先にあげた八大競走と同格のレースと位置付けられました。ちなみに、JCのような国際招待レースを作る構想はすでに1960年代後半にはあったものの、1969年の活馬輸入自由化に伴う生産者からの反発により、お流れとなってしまいました[2]。
ジャパンカップ創設から現在まで
さて、「世界に通用する強い馬づくり」の目標のもとで創設されたJCですがご存知の通り第1回となる1981年はアメリカの牝馬メアジードーツ(Mairzy Doates) が優勝しました。日本馬は、天皇賞馬ホウヨウボーイ、無冠の貴公子モンテプリンスなど強力なメンツが揃っていたのですが、本国でも決して一流とは呼ばれていなかった馬たちに、日本馬は掲示板(5着 ゴールデドスペンサー)が精一杯という結果でした[3]。その後、1984年についにカツラギエースが日本馬初の勝利を挙げ、さらに翌1985年にはシンボリルドルフが勝利し、日本馬が連勝しました。しかし、その後は苦戦が続き1992年のトウカイテイオー、1993年のレガシーワールド、1994年のマーベラスクラウンと日本馬が3連勝したものの、その後3年間はまた外国馬が勝利するという状況でした。特に1997年はエアグルーヴが直線での壮絶な叩き合いの末最後、5本脚のピルサドスキー(Pilsudski) に交わされ2着だったのですが、あの武豊ジョッキーをもってして「あれほど完璧なレースをしたのに、世界にはそれを交わす馬がいるなんて...」と述べたほどでした。
流れが変わったのは1998年のエルコンドルパサーからといえるでしょう。この年は馬券内を初めて日本馬が独占しました(と言っても4着と5着は外国馬でしたが)。優勝したエルコンドルパサーは、翌年長期海外を実施し凱旋門賞(Prix de l'Arc de Triomphe)2着やサンクルー大賞(Grand Prix de Saint-Cloud)優勝といった輝かしい成績を残したことから、当初の目標であった「世界に通用する馬づくり」の目的はひとまず達成されました。ただ、翌年も日本馬のスペシャルウィークが制したものの2-4着が外国馬、2000年のテイエムオペラオーでは3,4着は外国馬と少々の苦戦を強いられます。しかしながら21世紀になった2001年、ついに日本馬が創設以来初めて掲示板を独占します。これまで日本馬は優勝しても2着や3着は外国馬というケースも多かったのですが、ここにきてついに日本馬が5着までを独占しました。この年がJCにとってまた一つの大きな転換点となりました。
その後は、日本馬が掲示板独占することは珍しくなくなり、外国馬の優勝馬は2005年のアルカセット(Alkaased)以来出ていません。表2の通り外国馬の頭数も外国の国際GI勝利馬も2004年以降減少の傾向を辿っています。特に、2010年代に入ってからは1990年代前半までと比べると外国馬の出走頭数が半数ほどになっています。さらに、表には出ていませんがキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス(King George VI and Queen Elizabeth Stakes)や凱旋門賞、ブリーダーズカップ・ターフ(Breeders' Cup Turf)、英インターナショナルステークス(International Stakes)、英チャンピオンステークス(Champion Stakes)[4]といったレースレーティング上位のG1レースの優勝馬が出走してくることはほとんどなくなってしまいました。
ジャパンカップの価値
さて、こう見てみると2000年を境としてJCの持つ意味合いは大きく変化していると考えられます。それまでは「日本馬の一流馬と海外の一流〜一流半の馬が激突ししのぎを削るレース」という状況であったのけれども2000年以降は「秋古馬王道のG1レースのひとつ、ただ外国馬何頭か出るよ」という状況に変わってしまっています。日本馬の陣営からみると、天皇賞秋と有馬記念では間隔が開いてしまうので、一流馬にとってちょうどいい時期かつ、適距離馬の多いレースとなったのです。特に、日本では世界に比べるとミドルディスタンス(2000m)よりもクラシックディスタンス(2400m)寄りの馬の方が評価される傾向にあるというのも、JCの使い安さに一役買ってると言えるでしょう[5]。というか、そもそも創設以前は今のJCの時期前後に天皇賞(秋)を行っていたのです。
そういった影響もあってか、レースレーティングは近年日本国内のレースの中ではもっとも高い値であり、2018年はアーモンドアイのレコードもあり世界7位でした。そうみると、世界的な評価だけでいえばそこまでJCの評価は落ちていないことがわかります(レースレーティング:2012-2014年:8位 2015年:32位 2016年:28位 2017年:12位 2018年:8位)。東京競馬場の入場者数をみてもダービーに次いで二番手、年によってはダービー以上に多いこともあります。ただ、有馬記念や天皇賞・秋と見たときにメンツは良くても、2000年以降JCが名前負けして感覚的な意味で見劣りしてしまっていると感じる人はいるでしょう。
香港国際競走への日欧有力馬の流失
たびたび取り上げられていることですが、香港国際競走(HONG KONG International Races)へ出走馬が流失し、結果としてJCの外国馬のメンツのレベルが低下したということがあげられます。実際にJCと同じ2400mで施行されている香港ヴァーズ(Hong Kong Vase)が国際G1になった2002年以降の出走馬を見てみると、表4の通り多くの欧州馬が参加し優勝しています。
香港ヴァーズは、レースレーティングは84位(2018年)でLong部門では17位(JCは2位)に位置付けられています。ただ、他の3レース含めて香港国際競走に出走している馬が、もし香港ヴァーズがなければJCに遠征してきたかどうかはわかりませんし、次のようなツイートもあります。
香港は自国で馬産を行わないことから、オセアニアやヨーロッパの競走馬や調教師、騎手との結びつきが強いことも香港に遠征しやすい大きな要因であると考えます。騎手、調教師共に海外出身の調教師が非常に多い上、競走馬も海外から移籍してきた馬が数多くいます。昨年の香港ヴァーズの勝ち馬、エグザルタント(Exultant)もその一頭でもともとはアイルランドでIrishcorrespondentという名前で走っていました。
さて日本馬に目を向けてみると、検疫やローテーションの関係でJCから香港国際競走に出走するのは不可能に近いので、出走が減ってしまったことは事実でしょう。従来、ミドルディスタンスを得意とする馬は天皇賞(秋)のあと出るレースが無く、不適を承知でJCや有馬記念に出走することになってしまいました(例としては、ヤエノムテキやサクラユタカオーがあげられるでしょう)。しかし、香港スプリント以外の3レースが国際G1昇格した直後の2001年に日本馬が3勝したことで、日本馬の香港遠征に拍車をかけた面もあったか、多くの競走馬が出走するようになりました。欧州馬についても日本に比べた相対的な近さ、先のツイートのようなソフト面での充実、そして以下のリンクに書いてあるように検疫面での手軽さも理由の一つでしょう。
日本馬の競走能力向上
さて、ここまで見ていくと単純に日本馬が強くなったことがJCに外国馬が来なくなった一因では?と思われた方もいらっしゃると思います。まさしく、その通りです。少なくともホームグランドで行われるJCについては先に出た境目として挙げた2000年前後からは明らかに有利であると言えます。それゆえに、わざわざ欧州の有力馬たちが負け戦に望む必要は無いので、出走が減ったということは理由として十分に考えられます。ここら辺の関係者のJCに対する空気感は私にも良くわからないので突っ込んだことは言えません。ただ、JCだけでなく香港やドバイなどで日本馬が欧州馬に勝利している状況を見るとそのように考える陣営がいても不思議ではありません。
少々話はズレますが、欧州で活躍する日本馬は以前に比べて増えたものの、未だ多く無いのが現実です。本年(2019年)はディアドラがナッソーステークス(Nassau Stakes)を優勝しましたが、これは2000年のアグネスワールドのジュライカップ(July Cup Stakes)以来19年ぶりであり、イギリスのG1を優勝した馬はこの2頭しかいません。またフランスもシーキングザパール、タイキシャトル、エルコンドルパサー、アグネスワールド、エイシンヒカリの5頭です。アイルランドに至っては、今年のディアドラ以外過去に出走した馬はいませんし、ドイツ(当時は西ドイツ)もシリウスシンボリのみです。主な要因としてはアジアに比べて距離が遠いことはもちろん、招待レースでは無いため遠征の費用が支払われないこともあげられます[6]。凱旋門賞のように、日本競馬の1つの目標として定着(?)しているならともかく、他のレースに出走するのは特にクラブ馬の有力馬が増えている現在では厳しいものがあります。本来であれば、かつてのシンボリの和田共弘オーナーと野平祐二調教師のような海外遠征に対して積極的に資金を使えるオーナーと理解のある調教師[7]がいるといいのですが...そういった意味では、本年のディアドラの欧州長期遠征は非常に意義のあるものであったでしょう。
また、是非はともかくとして良く言われているように、欧州と日本では馬場の質が大きく違い日本の芝に比べて欧州の芝は重くスタミナを必要とされています。それ以外にも、競馬場そのものの構造も違います。例えばエプソムの2400mのコースはスタートしていきなり40m上らなければなりません。この高さはビル13階分と言えば、そのトンデモなさがお分りいただけるでしょうか?このような日本では絶対にありえないようなコースがあるのは、欧州と日本の競馬場の成り立ちの違いが原因です。日本の場合、近代競馬は西洋から輸入されてきたものであり、競馬を施行するために各地方の競馬倶楽部などによって経緯の違いはあれど、土地買収等を行った上で函館や目黒に競馬場が建設されたのです。しかし欧州は違います、競馬はそもそも貴族の遊びでありその貴族たちの庭がそのまま競馬場になったため、勾配がキツかったり、コースが複雑だったりします。コースが複雑なフランスのドーヴィルやドイツのバーデンバーデンなんて、山田くんは帰ってこれないかもしれません。
いずれにしても、欧州では馬場以外にもコース形態そのものの違い、費用負担の問題、地理的条件などからなかなか活躍馬を出せていないのが現状です。
ただ、そうはいっても競走馬のレーティングだけ見れば、ジャスタウェイのように欧州を走らず(当時)とも世界1位(130ポンド 日本馬歴代2位)の座につくことはできるわけなので、この節のはじめにあるようにやはり日本馬が強くなって、評価されていることは事実でしょう。最後に、表5の通り日本馬の歴代のレーティング上位馬をあげておきました。
まとめ:今後のジャパンカップはどうあるべきか?
さて、以上JCに関する歴史から外国馬が来なくなった理由や国内外での相対的な地位低下理由について考察してきました。結果としては、JCは本来の目的をとうの昔に終えており、日本馬の能力向上、検疫の煩雑さ、地理的条件から外国馬にとって旨みの少ないレースとなってしまったことが原因といえるでしょう。一方、日本馬においても距離適性の分散化や国外遠征志向により必ずしも有力馬が参戦しないという状況も相まって、JCの地位低下を加速させていると考えられます。とはいっても、現状日本ではレーティングのもっとも高いレースであり、入場者数も多いのですから廃止するという選択肢はあまり現実的な選択肢で無いでしょう。
そう、もう時代はとっくの昔に日本に来てもらう時代から日本馬から出て行く時代に変わって来ているのです。
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かつて、日本の競走馬たちの海外遠征が頻繁に行われた時代があった。育つ環境は違っても、サラブレッドとして同じ血を受け継ぐ優験達。馬の資質が変わらなければ、本場の技術を学ぶことで海外の馬に負けない馬を育てることができる筈だと、かつてのホースマンは考えたのだ ....
名馬と謳われた日本の優駿達はホースマンとファンの夢をのせ、次々と勇躍海外へ遠征した。だが彼らの多くは屈辱的な大敗を喫し、夢はことごとく破れた...
昭和56年にジャバンCが創設され、海外遠征を行う馬はごく稀になった。しかし、ホースマン達の海外遠征への情熱が消えたわけではない。まずはジャバンCを勝つ。そして世界の舞台へ…いつかは英ダービーへ、ブリーダーズCへ凱旋門賞へ…
(Winning Post エンディングより 一部省略)
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これから四半世紀たった現在再び日本の競走馬たちが海外遠征を頻繁に行う時代になりました。先にあげたように欧州でこそなかなか大きな成果は増えませんが、ドバイや香港での勝利、凱旋門賞ではアジア勢で最多の2着4回などすでに結果は出ています。安易な出羽守や欧州(海外)信仰も考えものですが、どのような形にせよ強い馬は、より強い馬と海を越え戦う時代が来ているのでしょう。もちろん、その馬の体質や体調の許す限りの話ですが。
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最後に、本稿では特に今後のJRAの施策についての提案や関係者への具体的な提言はあまり行いませんでしたが、一つ提案するならば、中山グランドジャンプの国際招待廃止は愚策だったのではないかなぁと感じます。国内の障害競走のレベルが低い中で、唯一外国馬を肌で感じ、レベルアップできる機会であったのではないでしょうか?かつてJCによって日本平地競走馬のレベルが上がったように障害馬にも同じような効果は期待できたと思います。んまあ、JRAも厩舎関係者もバカじゃ無いんで廃止は熟慮を重ねた上でのものと信じたいですが...
あと、レーティングの数値に関してはイロイロ意見があることも承知ですが、現状としてこれくらいしか数字で比べることのできるものがなかったので、使わせていただきました。
注釈
[1] ここらへんの感覚は筆者もよくわかっていないので、詳しい人がいたら教えてください。
[2]このレースに出走することを希望していたスピードシンボリ陣営は、1年引退を先送りさせました。
[3]当時、レースを見ていた筆者の父親はJCは向こう10年以上は勝てないんじゃないかと思ったほどだそうです。これが当時のファンの率直な肌感覚だったと思います。
[4]もっとも英チャンピオンステークスは2010年までは現在より賞金も少なかったり、コースも違ったりすることから、現在とは少し意味合いが違ってはいます。
[5]近年、イギリスでは三冠の価値が下がっていることからも、海外のミドルディスタンス寄りになっていることが読み取れます。
[6]遠征する国にもよりますが、馬一頭海外に輸送するのにはおよそ1000から2000万円かかるともいわれています。一応、重賞勝利馬はJRAから1000万円の補助が出ますが、ドバイ遠征の場合輸送費以外の登録料やら保険料、獣医師の人件費などが一口馬主全体での負担が800万円ほどになったそうです(つまりクラブ側もこの費用を一部負担しているであろうから、さらに増えると考えられます)。出典:https://www.sunzeus.net/news/?p=4668
[7]すでに、お二人とも鬼籍に入られています。もっとも、その和田オーナーと野平調教師もシンボリルドルフの海外遠征ローテを巡って対立するなど、決して両者の関係は良好なときばかりでは無かったそうです。