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火葬場と部屋の隅と波打ち際

カレンダーを見ると、7月9日で、週末は三連休らしい。
海の日が近い。ということは父の命日も近い。墓参りの返事も忘れていた。
毎年この時期になると11歳の頃に引き戻そうとするような引力を感じる。


父を火葬場で見送った後、母が
「海に行っちゃったんだろうね。海の日も近いし。」と呟いた。
私に言ったというよりは、
自分で別れを咀嚼するようなゆっくりとした物言いだった。

母と父の馴れ初めは、ダイビングで知り合ったと聞いていた。
そのせいか2人とも海が好きだった。
海水浴にはよく連れてきてくれたし、
はじめての家族旅行も沖縄だった。
夏休みに、私が居間でダイビングの写真を見ていると、
父が仕事中なのに、図鑑を持ってきてサカナの詳細を教えてくれた。
海の話をする父は饒舌で、何より少し嬉しそうだった。
だから私も海が好きだった。
新婚旅行でオーストラリアのグレートバリアリーフに行った話もよく聞いた。
さっきの海は、きっとオーストラリアの海のことなんだろうと思った。

きっとあの時、母は、母なりの言葉で父を偲び、弔ったのだろう。

一方、私は、ただ空っぽの気持ちで見送った。
父の死には、正直、実感が湧かなかった。

吐血し、ゆっくりと気を失っていく父を見たのが最後だ。
辛そうな顔をしていたが、それでも父は生きていた。

その後、母は何度か病院に通ったが、
私は知り合いの家に居候していた。
父はよく出張で家にいなかったし、別に会わないことは平常運転だった。
そのうち、仕事の遅い時みたく、23時とかに帰ってくるような気がしていた。

ただ実際、次に見た父は棺桶の中だった。

棺桶にいるのは、父のようでもあったし、なんだか他人のようでもあった。
多分やけに肌が白かったせいだ。
私は、これが誰なのかを訝しげながら、
大きな百合の花を右耳の辺りに入れた。
なんだか顔が二つあるようなバランスの悪い感じになってしまい、
ミスった。と思って細かい花で誤魔化した。

葬儀中、母が隣からいなくなり、戻ってきた。
母が弔辞を読んだらしい。
私は、何も覚えてなかった。
御坊さんの装束の色が綺麗だったことや、木魚は意外と大きいことなんかに気を取られたり、焼香のやり方を見様見真似したり、忙しかった。


父が焼かれて灰と骨になった後も、
どうやって箸で持ち上げるんだっけ?とか、
作法を間違ったら怒られないか。などの心配ばかりだった。
母やじいちゃんが泣いているのを見て、
自分だけが父の死を空っぽの気持ちで過ごしていることに気づいて、焦った。

一回頑張って泣こうとした。
もう会えないもう会えないもう会えない
父は死んだ父は死んだ父は死んだ
頭いっぱいに念じてみたけど、涙は出なかった。
少し絶望した気持ちになった。

「父親が死んだことを悲しんでない」みたいに見えていないか心配だったし、
実際、涙が出ないことで、自分が欠陥品のように感じられて不安だった。
焼却場の独特の臭いも気が滅入った。
服にこの臭いが付着して、
居候しているお宅にこの臭いが持ち込まれるのが嫌だった。

そうこうして、ようやく長い葬式が終わった。
ばつが悪く、ぎこちない気持ちで過ごすのが終わったことに安堵していた。
その矢先に母のあの呟きが聞こえた。

「海に行っちゃったんだろうね。海の日も近いし。」

母は20年近く父と一緒に過ごした。
思い出も多くて私より辛いはずの母が偲んでいるところを見て、
自分がなんて愚かなのかを突き付けられた気がした。

海や父の好きなものを考え偲んだか?
私は、何をしていた?
知らない誰かじゃないかとか、何を、呑気に抜かしてたんだろう。
全く父に向き合っていなかった。

まだ、
まだ顔があるときに、
もっと見つめるべきだった。
目に焼き付けておくべきだった。
百合の花なんか持たず、頬や耳を触るべきだった。

礼儀正しさを、周りの目を気にしている場合ではなかったのに。

葬儀場には父の姿はもう見当たらず、
少し先の机に、灰と骨を入れた白い陶器が、じっと置いてあった。

私は、さよならのチャンスを逃した。

その事実を理解した時、急に涙がでてきそうになり、狼狽した。父のための涙ではない気がして、泣いていいのか分からなかった。けど確実に泣きたい気持ちもあった。
大混乱だった。

呼吸が乱れていたところを、じいちゃんが背中をトントンしてくれた。おかげで涙は引っ込んだ。しかし泣きそびれた。恨めしくも、有り難くもあった。


父が死んで今年で15年が経った。
父のことよりもいつのまにか、仕事の納期だとか、娘の身支度であるとか、そういったことに勘案している。
日常がそうさせてくれた。

15年という月日は、私に味方をしてくれているらしい。他の素敵なものとくだらないものに溢れ、父を思い出すことは、ほとんどない。

ただ、海の日の三連休が来るたび
正直いまでもバツが悪い気持ちになる。

葬式、告別式と呼ぶ、あの儀式は、いったい誰のためのものなのだろう。
いろんな大人たちが、きっと上手に父とさよならをしていった。
母も父の死を飲み込んだように思ったが、
あの後もよく泣いてキッチンの隅でタバコを吸っていた。
私に見られていると分かると母は吸うのをやめるので、リビングの端から私は音楽を聴くフリをしながら、
換気扇に吸い込まれていく煙と、小さく丸めた母の背中をゆっくり見ていた。
私たちだけが遺されて、みんなは進んでいった。
悼むには早く、偲ぶには短い、弔うにも堅苦しい。
11歳の私にできることは、あまりに少なかったとは思う。

ただ、あの時の私が愚かだったのは、間違いない。
あの日から私は、父に言いたいことを蓄えてきたように思う。これも日常が運んできてくれたものだ。
木魚も僧侶も大人もいない、部屋の隅から、
今は、父を偲んでみたい。


母によると、父はいつのまにか綺麗な海にいるらしい。
私もそうであるといいなと思う。穏やかで安らかであればいい。死ぬ前は痛かっただろうし、
地獄に落ちろと恨んではない。
ただ、1人だけ好きな海に行ったことは、今は一周回って許せない。
海にもなかなかいけないし。(そもそも実家が埼玉で海がないところに住むのもどうかとおもう。)
オーストラリアなんて円安で当時より大変だし。
連れてってほしいくらいだ。

棺桶に備えるのは、あの世で使うものらしい。
花なんか好きじゃなかったくせに。母に花を渡したこともないのも聞いた。
父なら顔の横に置いても、花粉が痒いとか言いそうだ。

棺桶には、きっと、食虫植物とか
飼っていたヘビの脱皮の皮とか
自慢げに弾いてたレスポールとか
ダイビングカメラとか。
変な色の海パンとか。
他のもっとくだらないもので溢れさせてやればよかった。
私の趣味とは1ミリも合わない父の好きだったものを。
砂浜で1人花だらけでいるよりは幾分かマシだろう。

口を悪くあけすけに言えば、お前が死ななければ、とさえ思う。
一命を取り止めろよ。と。
そしたら、いつか死ぬ時、私も大人として、もっと上手に、告別できたのだと。無意味とわかってても主張したい。

さらに言えば、
お前が死んだせいで、辛いことがたくさんあったのだと私の慟哭をきかせてやりたい。

酒を酌み交わすことや、
仕事の相談をすることや、
孫の顔を見せることや、

他の人が叶うことが、叶わないこと。

こういった小さい波に当たってきたこと。
たまに波で咽せて、塩辛い水を飲んできたこと。

父が私の浜辺にいてくれたらよかったのだ。
そしたら、私が溺れる心配なんてなかったのに。


私は今、割と楽しく暮らしている。母も元気だ。
娘もいて、ソファーの上でくだらないことを繰り返している。
父がいた時と同じように。

この日々の中に、父がいないことが寂しいとおもう。
定番失恋ソングのような月並みな言葉で書くしかないなんて、惨めな気持ちすら感じる。

それでも
生活から父がいなくなったことが、今とても悲しくて寂しい。
今更、涙など出てきても困るのに。腹が立つ。
本当に。。

15年経った今、今までの小さな波も重なって一つの大きな波となって押し寄せているのだと思う。

この波は、寄せて返すあとに、どこにいくのか。
果たして、この波は、父の海にも伝わっているのだろうか。
父も同じように、感じるのだろうか。

酒を酌み交わしたり
仕事のアドバイスをしたり
孫の顔をみたり
そう言ったことが、したかった。
そんな後悔や無念はあるのだろうか。
もしかしたら、父が先にそう感じた向こうの波が、私の元に届いているのだろうか。

もしこの波が、向こうの海と繋がっているなら
「おあいこ」な気がしてそれはそれで悪くないのかもなと思った。

何かが腑に落ちた。それはドスンとではなく、パシュッとした、上手な3ポイントシュートのような音で、軽快に私のお腹を揺らした。

腑に落ちた感覚からまたカレンダーに目をやる。
今年の墓参りは、お盆と一緒にしていい気がしてきた。
父のことはもうお腹がいっぱいだ。
これを書いたことを免罪符に墓参りをサボるくらいは、許されるだろう。

父のこととは反対に、少しお腹が空いてきた。
「生きてりゃ腹も減るもんだ。」
こういったことに何度か救われた。
この15年で、こうした喪失感や後悔は、私を構成する大切な要素ではあるが、「人生の真ん中に置いておく必要はない」ということを知っている。

今は、今この瞬間は、「冷蔵庫に何があるのか」の方が大事だと知っている。

これを書いても、きっとさよならができたことにはならないのだろう。
波のように。きっと繰り返すことなのだと思う。多分来年のこの時期も。
これからも、小さい波にもまた当たり続けることを知っている。
父の知らなかったこと、父に伝えたいことは、生きてく限り増えていく。重なって大きい波として到達する時もあるのだろう。

思い出したときに思い出し、悲しみ、お腹が減った時にはご飯を食べる。
忘れててもいい。次にまた波が来た時に。その時また考えよう。


この夏は雨の日が多い。
珍しく趣味のあった少し大きめのSASのレインコートを着て、娘と保育園に向かう。娘を自転車に乗せる。今日は娘の機嫌が良さそうだ。

遺ったものと日常が溶け合うのを感じながら
私は自転車のペダルを前にすすめた。

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