三日間の夏休み


 一日目

 ドアを開けると一気にセミの声が強くなった。
 真夏の熱気が身体を包む。
「行ってきまあす!」
 河田凜は家の奥で引越しの作業をする両親に声をかけた。片道三時間のドライブを我慢してきたのだ。少しくらい遊びに出ても怒られはすまい。
 そもそも、凛は未だ小学四年生の男の子である。
 引っ越してきたばかりの土地への好奇心を抑えられるはずがない。

「まずは探険しないとな! 全然知らない街なんだから!」
 河田一家が引っ越してきたのは坂の上の一軒家である。
「この坂をチャリで下りたら超楽なんだけど、今はチャリがねえからなあ。地道に歩いて探検するしかねえか」
 長い長い坂道を見下ろして嘆息する。
 自転車は引越しのタイミングで粗大ごみと共に処分されてしまったのだ。新しい自転車を買って貰う約束は交わしているものの、それがいつになるかは分からない。実にもどかしい。
 ひゅうっ。
「うおっ。わっ」
 不意に、熱気を孕んだ風が吹き上がってきた。
 夏の風が撫でていく坂道の街並み。
 見下ろした先では家々の屋根が、窓ガラスが、夏の天日にきらきらと輝いている。そして、街を眺める凛を、巨大な入道雲がはるか頭上から見下ろしている。わくわくするような夏の一日だった。きっと、新しく住むこの街で新しい友達が出来て新しい遊びを知るのだ。
「最高の夏休みにしないと!」
 盛夏の風景が自分の背中を押している。
 凛の胸は期待ではちきれそうだった。

「まずは道を覚えるとこからだよな。それと、コンビニとか公園とかも」
 今は夏休みだが、九月になれば学校が始まる。そうなったときに「地元の事を何も知らない転校生」でいたくはなかった。それでは舐められる。「引っ越してきたばっかなのに詳しいじゃん」と言われるような、一目置かれる転校生になりたかった。そのためには、少しでもこの街を見知っておく必要がある。
 百メートルほど下ったところで、坂道は別の大きな道路と交差していた。信号こそないものの、開けた十字路になっている。右の通りは住宅街だったが、左の通りには小さな飲食店とクリーニング屋が軒を並べていた。
 コンビニだったら良かったのに――と思った凛の眼に飛び込んできたものがあった。
「あっ」
 ガチャガチャの筐体である。
 四台のガチャガチャがクリーニング屋の軒先に並んでいる。
「うわ! 小遣いを貰ってくればよかった!」
 何も考えずに家を飛び出してしまったのが悔やまれる。
 だが、とりあえず商品のラインナップだけでも確認しておきたい。
 凛は坂道を左に折れて、クリーニング屋の方へと足を向けた。

 その時である。

「おばちゃん、この機械だよ」
「たまに百円詰まってレバー回んなくなるんだよ」
「カプセル出ねえし!」
 三人の小学生と、一人の中年の女性がクリーニング屋から現れた。
 コインが詰まってガチャガチャが回らなくなったということらしい。
「今開けるからちょっと待ってね」
 中年の女性は、小学生達が指差すガチャガチャの筐体に鍵を差し込んだ。筐体の下方のコイン投入口を開くと、彼女はそこから二枚の硬貨を取り出した。
「じゃ、もう一回やってね。ゆっくりよ」
 回収した硬貨を小学生の一人に渡すと、女性はクリーニング屋へと戻っていった。残された三人組は顔を見合わせた。
「蓋開けたんだから選ばせてくれればよかったのにな」
「カプセルを? 選べせてくれる店なんてあんの?」
「あるらしい。タナカが言ってたけど……」
 タナカという恐らくは彼らの仲間の少年が、どこかのガチャガチャの筐体に硬貨を詰まらせたところ、店員が好きなカプセルを選ばせてくれたので、激レアなシークレットアイテムをゲットした――というような話しが始まった。
 クリーニング屋へ近付く凛の耳には彼らの話し声がはっきりと聞こえている。
「俺そう言えば、百円詰まったって嘘ついてガチャをタダで回したことあるぜ」
「え、金入れずに?」
「うん。そんで、その時に出たやつでコンプリートしたわ」
「ずりー!」
 大声でやりとりする彼らを道の反対側に見ながら、凛はゆっくりと歩いた。視線は向けずに、それでも意識はしっかりと彼らを向いている。

(そんなの嘘だよ。電気屋でバイトしてた一樹の兄ちゃんが教えてくれたけど、店員は百円玉が詰まってるかどうか調べられるんだ。それに、カプセルを出し入れ出来るのは専門の業者だけだって言ってた)
 引っ越す前に通っていた小学校の同級生と、彼の兄の顔が頭に浮かんだ。
 すると、急に過去への憧憬が胸を締めつけた。かつての同級生達と最後に顔を合わせたのは一学期の終業式だ。それから一週間しか経っていないのに、彼らの顔がとても懐かしい。
 逆に、見栄のために下らない嘘をつく眼の前の小学生達がとても詰まらない存在に思えてきた。
(わざわざ坂道から逸れてまで来るんじゃなかったな。でも、ここで急に引き返すのはみっともないし……)
 凛が彼らを見ているのと同じく、三人組も凛を視界に入れているのだ。そして、恐らく「見慣れない子供がいる」と感づいている。そんな状態で道をうろうろするのは恥ずかしい。凛は仕方なく、真っ直ぐに歩き続けることに決めた。

 クリーニング屋が背後に見えなくなってから、さらに二十メートルほど進んだ時の事だった。
 すうっと夏の大気が冷えたような気がした。
「……なんだろう?」
 視線を巡らせる。
 すると、建物と建物の隙間に作られた細い路地が眼に留まった。自動車では入れないほどに細い。舗装はされておらず、まばらな芝生の隙間に剥き出しの土が見える。路地の両側にはブロック塀と植え込みが続いていた。
 そして、路地の奥には――
「公園? 雑木林? っていうか、森?」
 黒々とした木々が繁っていた。
 夏の陽光を照り返してギラつく路地は、ある地点から真っ暗な木立の闇の中に消えていた。その鬱蒼とした様相は、まさしく森と呼ぶのに相応しい。
「道があるってことは入れるってことだよな……真っ暗だけど、ちょっと覗いてみるくらいなら大丈夫か」
 道の先が暗闇に飲まれているのはどうにもぞっとしない。
 しかし、その光景はある可能性を仄めかしてもいた。
「あの木の感じならいるんじゃないか!? コクワとかノコとか……もしかするとミヤマも! 赤茶色じゃないカブトムシもいるかも……!」
 都市部ではなかなかお目にかかれない甲虫への憧憬である。
 暗がりへの恐怖感は、あっという間にクワガタやカブトムシに対する射幸心にとって変わった。
「折角だもんな。行ってみようっと! 夏休みなんだし!」
 足早に路地を通り抜け、木立の中へと入った。
 頭上はすっかり木の葉に覆われている。乱反射する陽光がモザイク模様に凛の周囲を照らしていた。
「これ、絶対いるって! 樹液の出てる木とか……腐った木とかさえ見つければ!」
 獲物を求めて逸る気持ちが抑え切れない。けれど、見知らぬ森の中で無闇矢鱈に昆虫を探して回る愚を冒さない程度の理性は残っていた。
 森の中にはしっかりと踏み固められた小道が出来ていて、その両脇は高さ五十センチほどの土手になっている。そのため、道なりに歩くだけならば迷う心配はない。
「でも、土手の上に登るのはさすがにな……なんかもっと絶好の場所はないのかなあ」
 左右をきょろきょろと見回しながら、仕方なく前進を続ける。
 真夏に歩き通しであるため、背中はじっとりと汗に濡れている。しかし、森を抜ける風は如何にも涼しく、不快な汗がすうっと引いていくような感覚があった。
 その風に促されて、何気なく背後を振り返った。
 その視線の先で――
 
 何かが、道を横切った。

「えっ」
 三十メートルほど背後。森の入り口の辺りである。
 森の外から差す日光によって、その何かは黒々としたシルエットになっていた。
「なに!? 犬? 猫?」
 それとも狸か鼬か。
 どれでもなかったように思えた。
 全体的に丸かったが、妙な不定形さを感じさせる輪郭だった。はっきりと形を把握する前に、その何かは左の土手から右の土手へと消えてしまった。
「まさか人じゃあないよな?」
 土手の高さから推測すると人間より一回り大きい程のサイズだった。それとも、何かの仮装をした人物だったのだろうか。
「こんな真夏に森の中でそんな事する奴いるか? だとしたら絶対マトモな人間じゃないって。っていうか、俺はどうしたらいいんだよ……」
 戻るのは無理だ。あの何かが、まだ森の入り口付近をうろついているかも知れない。
 かといって進むのも恐ろしい
 もしもこの道の先が行き止まりだったら。
 引き返そうとした自分の背後に、あの何かがいたら。
 いつしか凛の全身は鳥肌に覆われていた。
 戻れば出くわすかも知れない。
 進めば追い詰められるかも知れない。
(こんなとこ、入らなければ良かった! 一人で冒険なんかするんじゃなかった!)
 お腹の奥がきゅっと締まるような感覚がある。膝に力が入らない。心細くて堪らない。
 その時、おろおろと見回した眼に飛び込んだものがあった。
「ポスト!?」
 森の下草に半ば埋もて、古ぼけた郵便ポストが立っていたのだ。
 深い緑の中の、鮮やかな紅。
 くっきりとしたそのコントラストが眼に焼き付いた。
「って事は、この先に誰かの家が……」
 ポストの前に立ち、視線を上げた。

 下草の奥に、古ぼけた家が建っていた。

 ペンキで塗られた茶色い門扉。
 その向こうには飛び石が玄関のドアまで五メートルほど続いていた。ドアの前には落ち葉がどっさりと積もっている。まるで森の中で風化でもしてしまったかのような家だった。
 さらに、一階も二階も見える範囲の窓全てが雨戸で閉ざされていた。雨戸の立てられていない天窓は苔と汚れで完全に曇っている。
「……空き家だ」
 森の中に一件だけ放置された空き家。
 恐ろしく思えると同時に、途轍もなく好奇心をそそられる存在だった。
 ついさっき眼にした何かのことなどすっかり忘れて、凛は門扉へと近付いていた。
「すっごいな……こんな森の中にどうして家を建てたんだろう」
 門扉の前に立ち、しげしげと玄関口を眺めた。
 ドアの脇の表札に「蓮田」と書かれている。
「何て読むのかな」
 四年生では習っていない漢字なので、かつての住人の名前は分らなかった。名の知れぬ住人は、いったいいつどうしてこの家を出て行ったのだろう。いつしか恐怖心は薄れ、逆に好奇心が増していた。
「よし。ここまで来たなら、探険し尽くそう! どうせ誰もいない空き家なんだし」
 凛は思い切って門の中へと入ってみることにした。
 ところが、どれだけ力を入れても門扉はびくともしない。
 門扉を閉ざすボルト式の錠が、がちがちに固着していて動かないのだ。横から入ろうにも、門扉の左右には垣根のように藪と木々が密生している。
「仕方ないな。どっか別の場所から入れないか探してみよう」

 そう考えて空き家に背を向けた。

「君。うちになにか用?」
「うわっ!」
 いきなり声をかけられた。
 驚いて背後の空き家を振り返る。
「君はこの近所の子?」
 ドアから顔を覗かせる人物は、凛と同年代の少年だった。
(空き家じゃなかったのか。この子の家だったんだ)
 痩せ型で、色素が薄い男の子である。ハーフパンツの裾から覗く脛がやけに青白かった。全体的に薄く儚い印象だったが、小奇麗な顔立ちで、その瞳は意思の力をはっきりと感じさせた。その眼にひたと見据えられて、凛はたじろいだ。
「え、あ、あの、俺……」
 焦る。
 すると不意に、目の前の少年が同級生となる可能性が脳裏に浮かんだ。そうなった時に「家を覗いていた妙な奴」という噂を立てられかねないと思った。
「ク……クワガタが採れるかと思って探してたんだよ。ここ、何かいそうな感じがするし!」
 早口でまくしたてた。口にしながら(上手い言い訳が出来た)と思った。嘘ではないし、アウトドア派な人間であるという印象も与えられる。
「クワガタ。ふうん」
 玄関口に立った少年は何か考える風に口を閉じた。
「そうだよ。夏だし。折角いい感じの森があるし」
「……ねえ、君さ。クワガタもいいけど、中へ入んない? 暑いでしょ」
 少年はいきなりそんな提案をした。
「え、君んちに? いいの?」
 少なからず驚きを覚えた凛だったが、いきなり家に呼ばれるという出来事に対する昂奮もあった。また、こんな計算が頭をよぎった。
(学校が始まる前に既に仲のいい奴がいるってのもアリなんじゃないか!?)
 少年は、微かな笑みを浮かべた。
「うん。おいでよ。誰かがここまで入ってくることなんてまずないしね。来てくれたら嬉しい」
「なら、ちょっとだけ」
 凛は少年に招かれるままに、彼の家へと入っていった。
 玄関に上がった時に(あれ?)と何か頭に引っかかるものがあった。
 けれど、いきなり同年代の友人が出来たことへの喜びを前にしては全てが些細な問題だった。

「何かゲームとかあんの?」
「ゲーム? ゲームねえ……」
 少年の後に続いて家の中へ上がり込む。
 そして、上がりばなの和室を見て驚いた。
 八畳間一面の青畳である。
 そこには、箪笥はおろか卓袱台や座布団といった和室には当り前に置かれているものが一切存在していなかった。ただの空っぽの部屋なのだ。
「すっげえ、引越ししてきたばっかみたい」
「そんなことないよ」
 改めて家の中を見回す。埃一つ落ちていない板張りの廊下は、窓から差し込む陽光をつるりと反射していた。同様に、障子も襖紙も真っ白の新品である。
「ふうん。ずっとここに住んでるの?」
 少年に問いながら、凛は再び何か小さな疑問が浮かび上がるのを感じた。しかし、凛の疑問が形を結ぶより先に少年が言葉を発していた。
「そうだよ。ずっとね。君は?」
「え、俺は……今日、こっちに引越ししてきたばっかなんだ」
「へえ。だからここまで普通に入ってきたんだね」
 薄笑みを浮かべた少年が畳に腰を下ろした。つられて凛も座り込む。ひんやりとした青畳が心地よかった。真夏であるのが信じられないほど、この家の中は涼しい。
「引越したばっかりの間は、お店の場所とかも分らないから大変だよね」
「そうそう。だから探検してたんだ」
「そううだったんだ。それじゃ、君の家族……兄弟なんかはどうしてるの?」
「え、俺は一人っ子だから」
 居心地の良い清涼感が、凛の口を軽くしていた。
 少年の質問に次々と答えてしまう。
 よくよく考えれば、この街に来て初めて同世代の子供と言葉を交わしたのだ。いきおい言葉が溢れていた。
 家族の話。これまでの学校生活の話。趣味の話。スポーツの話。
 少年が次々に質問してくれるのが嬉しかった。
 自分に興味を持ってくれる誰かの存在が嬉しかった。

「そうだ。オヤツ持ってくるよ」
 質問の途切れたタイミングで、少年が立ち上がった。
「いいの?」
「そりゃあ、おもてなしをしないと」
 薄く笑うと、少年は廊下の向こうへと消えた。
 ひとしきり喋り倒した凜は、少しばかり疲れていることに気付いた。
「よく考えたらあんなに色々喋ったの初めてかもしんないな」
 これまで四年間共に過ごしてきた小学校の友人達の中に、あれほど自分の事を知りたいと思ってくれた人間がいただろうか。
 凛はごろりと床に寝っ転がってそんなことを考えた。

 ――ぃぇ。

 小さな音が耳に届いた。

「え?」
 寝そべった凛の耳に、かすかに何かが聞こえた。
「畳の下から聞こえてくるのか?」
 確かめようとして、畳にしっかりと耳を宛がう。息を殺して耳をそば立てる。

 ――ぅるぅ――た――ふん――る・なぅ。

 何かが囁くような、唄うような、奇妙な音律だった。
 確かに何かが畳の向こう――床下――で音を立てている。
 やがて、途切れ途切れの音が徐々に明瞭になり――

「お待たせ」
「わっ」
 次の瞬間、少年が部屋へと戻ってきた。
「どうかしたの」
「ん、いや、何か……」
 声が聞こえたと言おうとした凛の前に、お盆に乗った菓子が差し出された。見計らったかのようなタイミングに、凛は自然と手を出していた。
「あ、ありがとう。いただきます」
 ビニールで個別包装された、何の変哲もないアソート菓子である。捻ってあるだけの包装を開けると、中身はチョコレートビスケットだった。
「ああ、こういうの好きだわ」
「そう? なら良かったよ」
 少年は再び腰を下ろした。自分でも菓子を手に取る。
(ゲームで遊ぶのもいいけど、ただ喋るだけってのも面白いな。そう言えば、一樹の兄ちゃんも携帯でずっと誰かと喋ってたもんな)
 リビングのソファでごろごろしながら喋り続けるその姿を(ただ喋ってるだけなのに、どうしてあんなに楽しそうなんだろう)と思っていたけれど、今はその気持ちが理解出来たように思えた。

 やがて、陽光がはっきりと夕刻の兆候を見せ始めた。
「あ、俺そろそろ帰るわ」
「なら、またおいでよ」
「いいの?」
「全然いいよ。友達なんだし、遠慮しないで」
 さらりと告げられた言葉が堪らなく嬉しかった。
 にやけてしまいそうになる顔に力を入れる。
「うん。じゃあまた来るよ」
「きっとね」
 部屋を出て玄関に向かう。入った時はきらきらと輝いて見えた廊下も、今は陰りが落ちている。靴脱ぎには凛の靴が一足、きちんと踵を揃えて置かれていた。入った時には当り前に散らかして脱いだ気がする。けれどまさか、自分と同年代の少年が友達の靴を揃えたりはしないだろう。ということは――
「あ、お家の人は?」
「ん? ああ、今日はいないよ」
 だとすると、眼の前の彼がわざわざ靴を揃えてくれたのだ。友達であると言ってくれた嬉しさ以上に、彼に対する尊敬の念が湧き上がる。
「……そいじゃ、またね」
「うん。また」

 ふわふわと浮き立つような気分で、凛は帰途に就いた。家に帰ってからも、気持ちはそわそわとしたままだった。
 引越し作業で手一杯のはずの両親も気になったようで、街で何かあったのかと尋ねられた。
「地元の子と遊んでいた」
 凜はそう答え、その日は布団に入った。
 暗い天井を眺めながら、あの少年のことを思い返す。
 幾つかの疑問と妙な胸騒ぎが頭に浮かんだ気がした。
 けれど、それを深く考えるより早く、凜は眠りに落ちていた。

 二日目

「じゃ、行ってきまあす」
 昼食を終えた凜は、昨日と同じように家を出た。午後二時近い頃合である。
 玄関の外は真夏の太陽に焼かれている。彼方には逃げ水の揺らめきが見えた。
 昨日は見知らぬ街への不安があった。けれど、あの少年という知己を得た今となっては、夏休みを楽しむ気持ちしかない。
「暑いなあ。早くチャリ買ってくんないかな」
 そうすれば彼にこの街を詳しく案内して貰えるだろう。遠出だって出来る。ショッピングモールや水遊びの出来る川だってあるかも知れない。
「今後に備えて色々教えて貰わないとな」
 これからの展望を考えると、凛の頬には自然と笑みが浮かぶのだった。

 昨日と同じく十字路を左折する。蕎麦屋とクリーニング屋の看板が眼に入る。さすがにあの三人組の男子の姿はなかった。だが、女の子が二人、自転車を停めて自販機の前でジュースを飲んでいた。
(学年が近そうな子達だ。俺もチャリだったら良かったのに……)
 暑い中をのろのろ歩いている姿を見られるより、自転車で颯爽と駆け抜ける姿の方が遥かにかっこいい。
 凛が内心でがっくりとしていると、件の二人がこちらを見ていることに気付いた。片方の女子――可愛い方の――と眼が合う。どきんと胸が跳ねた。しかし、凛はことさら何でもない風を装って、顔を逸らした。なるべく背が高く見えるように胸を反らし、わざとガニ股気味に足を運ぶ。
(新しい小学校は2クラスしかないらしいけど、もし同じ学年だったら、あの子と同じクラスになる可能性はすごく高いってことだよな)
 そして、ふと気付いた。
 あの少年は正確には何年生なのだろうか。
 いや、それよりも――
「俺、名前を知らないぞ」
 表札に書かれていた「蓮田」という苗字も、読み方が分らない。
 愕然とした。
 昨日、あれほど長々と喋っていたのに、どうして気にならなかったのだろうか。
「あの子はあんなに俺に興味を持ってくれたのに……」
 何だか自分がひどく不義理なことをしでかしたかのような気分になる。呆れられたりがっかりされたりしてはいないだろうか。
 家を出た時とはうって変わって、凛の足どりはひどく重くなった。

 やがて、森へと続く路地へ辿り着いた。
 昨日と同じく、森の入り口は黒々とした闇に沈んでいる。路地へと踏み込もうとした瞬間、脳裏で警告灯が点滅した。
(森の入り口を横切ったあれ! あいつがもしまた出てきたら!?)
 今の今まですっかり忘れていたことが信じられない。
 昨日のように、遠く離れた状況ならばまだマシだ。
 けれどもしも、森に入った瞬間に出くわしたら――
 思わず足を止めていた。
(せっかくここまで来たってのに。どうしようか……)
 そもそもあれはいったい何なのだろう。人間なのか野生動物なのか。
(でも、あそこが森になってるってだけで周りは住宅街だぞ。あんな大きな動物がうろつくなんてことがあるか? 絶対に近所の人達が大騒ぎするはずだ)
 路地の左右に建つ家に視線を向ける。垣根とブロック塀が高々とそびえている。その内側では、普通の人々が普通の生活を送っているに違いない。
「お?」
 ブロック塀に妙なものを発見した。
 星型のマークが描かれている。
 輪郭線だけの☆ではなく、全ての頂点を直線で繋げた一筆書きの星だ。
 中央の五角形の部分には眼のようなマークが描かれている。
 子供のイタズラ描きとは異なる、しっかりとした筆致とバランス感があった。
 かといってストリートペイントのような派手派手しい自己顕示欲は感じられない。
「星……いや、ヒトデ?」
 奇妙な印象を受けた。
 目印、紋章――守り印。
 見ているだけで身体の内側が強烈に揺さぶられる感覚があった。
「うっ……え、なんだこれ……っく」
 吐き気。眩暈、頭痛、酩酊感、そして恐怖感。
 眼も開けられないほどの不快感の塊が腹の底から込み上げて――

「あっ」
 眼を開けると、辺りの景色が一変していた。
 今の今まで眼の前にあった路地がなくなっている。
 代わりに凛の眼に入ったのは「蓮田」の表札だった。
「えっ……あの子の家だ……なんでいきなり?」
 森へと至る路地の手前にいたはずが、既に森の中にいるのだ。
 状況が理解出来ない。
「はっ? わ、ワープした……?」
 周囲を見回す。確かにあの森の中である。昨日見たのと同じ光景が広がっていた。
(どうしてここにいるんだ? 暑さで意識が飛んでたのか!?)
 例の奇怪な生物の存在が森への進入を躊躇わせていた。それは覚えている。けれど、それから自分はどうしたのだろうか。
「ぼんやりしながらここまで入ってきた!? そんなことあるのか?」
 直前に何かを眼にした気がする。ひどく気がかりな何かを。
 それが、おぼろげに意識に浮かび上がりかける。
 がちゃっ。
 その時、眼の前で玄関のドアが開いた。
「おっ。来てくれたんだ。入りなよ」
 ドアの間からはあの少年が顔を覗かせている。
 途端に凛の中に甦りかけた記憶は雲散霧消した。
「あ、うん。お邪魔します」
 どこか照れ臭いような気分で、凛は蓮田家の玄関をくぐった。
 家に入った瞬間、かすかな違和感があった。
(あれ? 昨日とはなんだか空気が違うような気がする)
 奇妙な感覚を抱いたまま玄関で靴を脱いだ。
 家を包み込む森の静寂の中、靴脱ぎに一足だけ置かれたスニーカーがやけに寂しかった。
 少年の後に続いて例の八畳間へと上がった。すると、眼に留まったものがある。
「あっ! ゲーム!?」
 昨日はなかったはずの、テレビとゲーム機である。
「そう。今日はこれをやろうよ」
 少年は当り前のようにゲーム機のコントローラを手にした。
 昂奮と歓喜が胸を突き上げた。
「え、マジ!? すげえ!」
 画面に映されたのは大人気のパーティゲームである。凛も友達の家で何度かプレイしたことがある。複数人で楽しむには最適のゲームだ。
「俺の家にあるのってプレステだから、普段はこのゲーム出来ないんだよね。超ラッキー」
「そう? なら良かったよ」
 コントローラを握った彼が隣で笑っている。
 何か彼に訊かねばならないことがあったはずだった。
 けれど、いざゲームが始まってしまうと、そんな引っかかりは呆気なく消え去ってしまった。

 凛がゲームに没入してから一時間ほどが過ぎた。
 隣の彼が、ふっと力を抜いた。丁度、ワンプレイが終ったタイミングである。
「お喋りするだけってのもいいけど、ただゲームをするだけってのも悪くないね」
 彼がコントローラを置いた。凛もそれにつられて釘付けになっていたテレビ画面から眼を離す。
 すっと、部屋に影が差した。
 何気なく振り返る。
 女性が立っていた。
「わっ」
 まさか彼以外に誰かがいるなどとは思ってもいなかった。いささかならず凛は驚いた。
「ああ、家族だよ。言ってなかったね」
(昨日と違って感じたのは、他の人がいたからか)
 その女性が静かに部屋の中へ入ってきた。
 お菓子と飲み物の載った盆を手にしている。
 若い女性だった。
 大学生か、もしかすると社会人かも知れない。
 彼とはまるで似ていないが、整った顔立ちをしている。
「あ、えと……河田です。こんにちわ」
 不意に現れた大人の女性にどぎまぎしつつ、凛はかろうじて頭を下げた。
 女性の口元が、にっ、と三日月形に歪んだ。
 ぎょっとした。
 無理やり浮かべた笑顔。むしろ、誰かが彼女の顔の皮膚を引っ張って作り上げた笑顔。そんな風に見える笑顔だった。美人であるだけに、ひどくアンバランスな印象である。
 奇妙な笑顔を張り付けたまま、その女性は手にしたお盆を畳に置いた。そして、無言で凛に軽く会釈をすると部屋を出て行った。
「……君のお姉さん?」
「ん? ああ、まあね」
「へえ……」
「今度は違う勝負にしようよ」
 少年が再びコントローラを手にした。凛もあわててコントローラを取り上げる。彼女のことをさらに尋ねようとした機先を制せられた形である。
 ゲームが再び動き始める。エンドルフィンとアドレナリンが脳を侵食していく。凛の意識は完全にテレビゲームへと集中していた。

「おっと!」
 掴んだコップが手の中で滑った。先ほど彼の姉が持ってきてくれたジュースである。きんきんに冷えていて、コップの表面に霜が降りていたのだ。こぼしこそしなかったものの、跳ねたジュースで指先をべったりと汚してしまった。
「ああ、やっべ」
 ティッシュで拭きたくとも、この部屋にはテレビとゲーム機以外のものが存在しない。
「あのさ、手、洗わせてくんない? ちっとべとべとしちゃって」
「いいよ。洗面所ね」
 面倒な顔一つせず少年は立ち上がった。彼の後について廊下に出る。最初の八畳間以外の部屋は初めてである。好奇心が刺激された。
(家具とか何もない家だもんな。他の部屋ってどうなってんだろう。さっきのお姉さんの部屋も……)
 あの女性のプライヴェートの事を考えると、何だかそわそわと落ち着かない気持ちになる。我が事ながら、凛にはそれが不思議だった。
 廊下の先には襖の閉ざされた部屋があり、その奥には二階へ上がる階段があった。階段の下のスペースがトイレと洗面所になっている。
「じゃ、僕は戻ってるから」
「あ、うん。ありがとう」
 少年が部屋へと引き返していく。
 蛇口から出る水で手を流しながら、凛は洗面所を見回した。
「ここにもなんもない……」
 普通ならば石鹸、歯磨き用品、洗顔用品、髭剃り、整髪料などが何かしら置いてある場所である。だが、この家の洗面所にはそれらの必需品が何一つ置かれていなかった。手を拭くためのタオルすらない。そして何より――
「鏡までないぞ」
 実に奇妙だった。
 普通ならば大きな鏡が嵌っているはずの洗面台は、ただ無機質なFRPのフレームがあるだけなのだ。
「普段、どうしているんだろう」
 あの少年も彼の姉も、きちんと身奇麗な様子だった。身だしなみに無頓着とは思えない。
「やっぱ、変な家だよな」
 八畳間へ戻りかけて、足を止めた。
 すぐ横に、二階へ上がる階段がある。
(二階にもなんもないのかな。あのお姉さんは上にいるんだろうか)
 階段は途中から暗闇に閉ざされていて、上の階の様子は掴めない。
(上がってみようか……)
 好奇心が膨れあがる。しかし、以前のクラスメイトに、友達の家の冷蔵庫を勝手に開けた事で気持ち悪い奴として扱われるようになった少年がいた事を思い出した。
(そうだよな。普通はそんな、他人の家を詮索するような真似はしないんだよ。さすがにヤバいよ。よその家を探検するのは)
 かろうじて理性を働かせる事が出来た。
 あの少年とはクラスメイトになるかも知れないのだ。絶対に嫌われるような事があってはならない。
 そう思って凛が踵を返した時だった。

 ずうぅっ。ずうぅっ。

 奇妙な音が二階から聞えてきた。
「何かをこすってる? 何の音だろう……」
 彼の姉が箒でも使っているのか。そんな想像が咄嗟に思い浮かんだ。
「でも、箒で掃除をしているのとはちょっと違うっぽいぞ」
 ずうぅっという一回の響きが、やや重く長い。それに、トーンが均一すぎる。掃き掃除をしているのならば、もっと音にばらつきが出るのではないだろうか。
「どうしたの」
「うわっ!」
 飛び上がった。
 振り返ると、廊下の向こうに彼が立っていた。
 心臓の音が身体の奥でやかましい。
「びっくりした……すげえ静かだったのに、急に声かけるから……」
「それはごめんよ」
「って言うか、最初にあった時もこんな風だったよね」
 階段を上らなくて良かった。内心で安堵しつつ、凛は苦笑を浮かべた。
「そうだったっけ。二階に興味あるのかい」
「いや、あの……興味って言うか、掃除でもしてるみたいだったからさ」
 凛のそんな言い訳をどう取ったのか、少年はくるりと背を向けた。
「二階はまた今度ね。それより、続きをやろうよ」
「あ、うん。そうだね」
 慌てて彼の後を追う。その時、凛は何気無く二階を見上げた。
 階段に、彼の姉が立っていた。
 こちらを見下ろす彼女の口元が、にっ、と三日月形に歪んだ。

「どうかしたかい」
「え……や、何でもないよ」
 コントローラを手にしても、胸の動悸は収まらない。
(いつの間にか階段にいたのは驚いたけど、何だろ。この不思議な感じ)
 彼の姉の、整っていながらもどこか歪な容貌が頭から離れない。
 彼女の奇妙な佇まいに、胸がざわつく。
(おかしいな。本当に、何なんだろう) 
 あれほど昂揚したゲームだと言うのに、今の凛はまるでプレイに集中出来なくなっていた。
「ずっと座ってやってると疲れるね」
 コントローラを置いた彼が、盆の上の菓子を手に取った。昨日と同じようなアソート菓子である。凛も彼と同じように、その菓子を口に放り込んだ。
(そうだ。この子に色々と訊かないといけないんだった)
 不意にそんなことを思い出した。友達として、彼のことをきちんと把握しておきたいのだ。
「でも、暑い中、外を走り回るのもイヤだよね」
「ん、え?」
 はっきりとした口調で彼に問われ、凛の思考は断ち切られた。
「だからさ。こうして涼しい家の中でただ座ってゲームしてるだけってのが、結局はベストなのかなって事だよ」
「あ、ああ、うん。そうかもね。そうだね」
 質問しようとする鼻先を上手に抑えられたような気がした。
(もしかして、自分の事を訊かれるのが嫌なのかな。だとすると、会話の流れはこの子に合わせた方がいいよな。きっといつかいろいろ訊けるタイミングは来るだろうし)
 そう思い直した凛は、最後の一つになったお菓子を口へと運んだ。

 そして、黄昏時が訪れた。
「じゃあ、そろそろ帰ろうかな」
「そう? なら、明日もまたおいでよ」
「いいの?」
「いいさ。それに誰か来た方が家族も喜ぶしね」
 彼の姉の姿がふわふわと脳裏に浮かんだ。
「あ、うん。なら、明日も来るよ」
「待ってるよ」
 靴を履き、玄関扉を開く。その瞬間、凛は微かな不安を覚えた。
(そうだ。森の入り口を横切ってったあれ……)
 あの奇妙な体験を思い出したのだ。
「どうかした?」
「いや、あのさ……昨日なんだけど」
 そして、凛は最初に森に入った時に遭遇した謎の存在について少年に語った。
「……だからさ、何か怖い生き物でもいるのかなって……いや、大きさとかは俺の勘違いなのかも知んないよ。でも何かがいたのは確かで……」
 途中で、彼が自分のことをとても臆病な人間だと思うのではないか、という危惧が生まれた。そのため、凛の説明は徐々にトーンを落としていった。すると、少年はさも当り前のようにこう言った。
「それ、心当たりがあるよ」
「え、嘘」
「本当だよ。明日来た時に詳しく教えて上げるよ」
「マジ? 明日?」
「うん。明日ね。とりあえず、今日の帰りは心配しなくていいよ」
「そうなの?」
「僕は君より長くここに住んでるから、いろいろと知ってるんだ」
 頼もしい言葉に胸を撫で下ろす。
「そっかあ。そしたら、明日教えてよね」
「うん。約束だ」
「じゃ、もう帰るわ」
「じゃあね」
 そして、凛は実に平穏な気持ちで帰路に着いた。
 もちろん、少年の言葉通り何の怪しい存在とも遭遇はしなかった。

 布団に入り室内灯を消した瞬間、かすかな不安感が脳裏をよぎった気がした。それでも、夏場の疲労感は容易に凛を眠りの底へと引きずり込んでしまった。

 三日目

 何かひどく気がかりな夢を見た気がするが、それもベッドから身体を起こした時には頭の中から消え去っていた。
 窓から差し込む強烈な夏の日差しにうんざりしていると、母親から家の片付けを手伝うよう命じられた。うんざりが加速する。
(どうして夏場に引越しなんてするんだよ。もっと動き回るのにちょうどいい季節があるじゃんか!)
 そう思いながらも、凛は母親の指示に従って、あの食器をこの戸棚へ、この衣類をあの箪笥へ、と忙しく立ち働いた。
(ついでにお駄賃を貰っちゃおう。あの子と出かけた時に買い食いも出来ないんじゃ詰まらないし)
 いつもインドアでは少々味気ない。
 そろそろ外へ出て地元の同年代の子供達に自分を紹介して欲しい。そうなった時に、小遣いが無くて他の子達の散財に付き合えません――では少々格好悪い。
 そうやって凛は午前中いっぱいを母親の手伝いに費やした。昼食の素麺を啜りながらお駄賃を要求したところ、五百円の提供があった。手持ちの小遣いの残りと合算すれば、まずまずの金額にはなる。
(これならマックで食事しても余裕があるな)
 地元の四年生達はもうマクドナルドに出入りするのだろうか。
 春先に、数人のクラスメイトと共に子供達だけでマクドナルドへ入った時の事を思い出した。とても大人びた行動をしたという達成感があった。あの少年を含めた同年代の子供達の前で「じゃあみんなでマックでも行こうぜ」と言ってみたい。そうすれば確実に「一目置かれる転校生」になれるだろう。

 午後一時。
 夏の日差しがいよいよ厳しくなる時間帯である。
 例の坂道を下り始めて十メートルほどで、凛はすでに汗まみれになっていた。
「誰も外出なんてしてないもんな。ヤバい暑さだよ……」
 灼熱の日差しから逃れるように顔を俯ける。時間帯もあって日陰がほぼ存在しないのが、より熱気に拍車をかけている。焼けたアスファルトを見詰めながら、一歩また一歩と足を運ぶ。
「お?」
 アスファルトの路上に妙なものを発見した。
 星型のマークが描かれている。
 輪郭線だけの☆ではなく、全ての頂点を直線で繋げた一筆書きの星だ。
 中央の五角形の部分には眼のようなマークが描かれている。
 子供のイタズラ描きとは異なる、しっかりとした筆致とバランス感があった。
 かといってストリートペイントのような派手派手しい自己顕示欲は感じられない。
「星……いや、ヒトデ?」
 奇妙な印象を受けた。
 目印、紋章――守り印。
 見ているだけで身体の内側が強烈に揺さぶられる感覚があった。
「うっ……え、なんだこれ……っく」
 吐き気。眩暈、頭痛、酩酊感、そして恐怖感。
 眼も開けられないほどの不快感の塊が腹の底から込み上げて――

「あっ」
 眼を開けると、辺りの景色が一変していた。
 住宅街を歩いていたはずが、いつの間にか辺りには鬱蒼と木々が繁っている。靴底に感じるのはアスファルトの道路でなく、しっとりとした土の存在だ。
 そして、「蓮田」の表札が眼に飛び込んできた。
「あの子の家……あ、あれ? なんで!?」
 あの坂道の途中から、どうやってここまで来たというのだろう。あそこから森の中まで来るには、十五分は歩かねばならなかったのに。
「どうなってんだよ」
 周囲を見回す。確かにあの森の中の少年の家だ。
「……あれ? 昨日は? 昨日もなんかこんな感じじゃなかったっけ? 俺、いつもどうやってこの家まで来てるんだっけ」
 寒気のようなものが襲ってきた。
 不安と恐怖。
 何か思い出さなければいけない気がする。
 きちんと考えなければならない気がする。
 早くしないと――

 きいぃっ。

 蓮田家のドアが開いた。
 だが、あの少年の顔は見えない。
 ただ玄関のドアだけが開いていた。
「あれ……えっ、何で」
 ドアの内側は真っ暗で、中の様子は分らない。
「中で待ってるって事かな」
 凛は仕方なく門扉を抜けて玄関へと向かった。手が放せない事情でもあって、ドアだけ開けたのだろうか。
(もしかして、あのお姉さんかも)
 思い返せば、彼女は昨日一言も喋らなかった。もしかすると、今も無言でドアを開けたのかも知れない。彼女の事が頭に浮かぶと、凛はやはりそわそわと落ち着かない気持ちになった。意味も無く髪を撫でつけながら、玄関へと入る。
 果たして、そこに彼女はいなかった。
 少年の姿もない。
 家の中は寂として静まり返っている。
「か、河田だよ。遊びに来たよう」
 靴脱ぎに立って小さく声をかけた。
 返事はない。
(え、どうして!? ドア開けてくれたじゃん。誰もいないって事はないよね)
 少しばかり不安になる。勝手に上がり込んでいいのだろうか。それともここで待つべきだろうか。
「どうしよう……でも、今日来るって約束したし、ここで帰る訳にはいかないよな」
 上がり框に腰を下ろして、しばし考える。
 じっとしていると、耳が痛いほどの静寂が襲ってきた。
(こんな静かな事ってあるか!? 本当に誰もいないの!?)
 普通は時計や冷蔵庫やエアコンの音がするのではないだろうか。
 しかし、この家にそれらの物品があるのかどうか疑問である。
(あれ? でも、待てよ?)
 何かが引っかかった。

 ――ぃ・ぁ。

「んっ!?」
 不意に小さな音が凛の耳に飛び込んできた。
(今なんか聞こえたぞ。どこから?)
 顔の向きを変えて、音の出所を探る。

 ――ん・が――ぐ――た・ぐん。

 何かが囁くような、唄うような、奇妙な音律だった。
 確かに何かがどこかで音を立てている。
 人の声にも聞こえるけれど、途切れ途切れなので意味は掴めない。
(あれ? 聞き覚えがある気がするけど……何だっけ。どこで聞いたんだっけ)
 頭を捻る。けれども、記憶がはっきりとしない。
(あのお姉さんの声かな)
 少年の声とは違うような気がした。
 彼の姉の声だとしたら、いったい何と言っているのだろう。
 凛は何故だかどうしてもそれをはっきりとさせたくなった。
(そもそも声だってかけたんだし、部屋に上がったって悪くはないよな。第一ドアを開けてくれたじゃないか)
 頭の中で理論武装すると、ゆっくりと靴を脱いだ。音を立てないよう、そっと靴脱ぎに置く。そして、足を忍ばせて廊下へと進んだ。

 ――ぃぇ――なぐ――ぶ――ぃぁ。

 途切れ途切れの声はかすかにそれでもはっきりと聞こえてくる。
(多分、二階だ)
 そう言えば、昨日彼が二階へ招待してくれると言っていた。
 いつもの八畳間を覗いてみる。
 まっさらな青畳が敷かれただけの、何もない部屋だった。もちろん、誰もいない。
 痛いほどの静寂に支配された蓮田家の中をゆっくりと進み、ようやく階段の下へ辿り着く。雨戸が閉ざされているせいか、真っ暗である。けれど、見上げた階段の上部はほんのわずかに明るい。
(どこかの窓から光が入ってるんだ……い、行ってみようか。あのお姉さんがいるかもだし……)
 彼女の姿を確認したい。
 そんな欲求が抑え切れなかった。
 ゆっくりと、音を立てぬように階段を上っていく。暗闇の中で足を踏み外さぬように注意をしつつ。
 半分ほど階段を上がると二階の廊下が視界に入る。突き当たりに部屋が一つあった。ドアが軽く開いている。視線が吸い寄せられる。
(中に誰かいる? 爪先が見えるっぽいけど……)
 わずかなドアの隙間に、そこだけ切り取られたかの如く、じっと動かぬ足の指先が見えていた。
 一歩また一歩と、廊下を進んでいく。細心の注意を払った忍び足。近付くにつれて、ドアの向こうに見える光景が大きさを増していく。
 きちんと揃えられた爪先。すっと白く細い足首。つるりと滑らかに伸びた脛。膝に被るスカートの裾。スカートの上に置かれた手は軽く握られていた。 
(やっぱりあのお姉さん……だ)
 そうと察してはいたものの、彼の姉だと分ると凛の胸は早鐘のように打ち始めた。
(じっとしてるけど、寝てるのかな)
 ちょうど昼寝の時間帯ではある。もし彼女が寝ているとすると、こちらの訪問に気付いていないかも知れない。まるで眠り姫のように。そう考えると、不思議な昂揚が凛を包んだ。
(寝てるとしたら、起こしちゃ悪いし……そおっと……)
 ドアの隙間に顔を近付け、中の様子を探る。
 四畳半ほどの洋間だった。
 中央には、椅子に腰掛けた彼女がいた。その背後にはクローゼットと天袋が見える。部屋は雨戸が閉ざされていたものの、天窓からは光が差している。
 部屋の様子をざっと確認した凛は、改めて彼女へと視線を移した。
 首はかっくりと前へ倒れている。やはり寝ているようだ。その無防備な姿に、頭の奥が赫と熱を持つ。
 気付けば、凛はドアの隙間から身体を滑り込ませていた。
 項垂れたままの彼女が、手を伸ばせば届くほどの位置にいる。
(どうしよう……俺、どうしたいんだろ。どうすればいいのかな)
 その時、ふと気付いた。
 彼女はじっとして動かない。
 微動だにしていない。
(おかしくないか?)
 寝ている時というものは呼吸に合わせて身体が上下するものではないか。その動きは起きている時よりも大きいくらいのはずだ。
 けれど、彼女は完全に静止していた。もちろん、寝息も聞こえない。
(どういうことだろう)
 凛は膝を屈めて、俯けた彼女の顔を下から覗き込んだ。
「うわっ!」
 彼女は寝てはいなかった。
 起きてもいなかった。
 両目と口元が緩く開かれていた。左右の瞳は、それぞれが互い違いの方向を向いている。まばたき一つしないどんよりと濁った眼には何も映されてはいなかった。
「どっ、どうしたんですか!?」
 返答はない。
(病気なのか!?)
 咄嗟にそう考えた。
 肩でも揺すれば目覚めるのだろうか。
 彼女を起こそうとして伸ばした手の先に、妙なものを見た。
 うなだれた彼女の後ろ髪の間――本来ならば項の肌が見える場所――に何かがあるのだ。
「これ……これって……なんだよ」
 震える指で、後ろ髪を掻き分けた。
 そこには、皮膚を割り開く大きな裂け目があった。
 後ろ髪の生え際から背骨に沿って衣服の中まで続く、長大な裂け目だった。
 その内側に見えるのは血管や粘膜――彼女の内部だ。
 以前、母親が買ってきた生のスペアリブを思い出した。焼く前の、くすんだピンクの肉。死んだ生き物の肉。
「な……どう、して、なんで……っ」
 身体が勝手に震え始めた。膝に力が入らず、凛は床にへたり込んだ。
 その時、視界の隅に動くものがあった。
 閉まっていた天袋がゆっくりと開いている。
 内側から開けられている。
 一センチ、五センチ、十センチ。
 半分ほど開いた天袋の内部には、深く深く闇が蟠っていた。
「えっ……え、えっ……?」
 その闇が、どろりと溶け出した。
 闇ではなかった。
 黒々とした、芋虫のような何かだった。しかし、昆虫ではない。もっとずっと大きな――人間ほどの大きさをした、不定形の何かだ。
 光すら飲み込むほどに深い黒色のそれは、表面を微細に波打たせながら、ゆっくりと床へと降りた。しかし、芋虫で言えば尾に当たる部分は、未だ天袋の中へと続いている。短く見積もっても全長二メートルはあるだろう。
「これ……こいつ、あの時の、あれだ!」
 初めて森に入った時の記憶。
 凛が振り返った先を通り過ぎた、あの正体不明の何か。
 あれが、これだった。
 驚愕と恐怖に身体が竦み上がる。
 すると、眼の前のそれの表面が大きく蠕動し始めた。
「な……なに!? なに!?」
 巨大な芋虫がのた打ち回るかのように、膨張と収縮が繰り返される。
 実に穢らわしく忌まわしい光景だった。
 やがて、膨張しきった部分が、そのまま長く伸び始めた。
 いつかどこかで見た、アゲハチョウの幼虫の臭角が伸びていく映像が凛の脳裏をよぎった。
 「あ、な、や……やめろぉっ!」
 悲鳴を上げていた。
 長々と伸びた触手のようなそれが目指す先に気付いてしまったのだ。
 触手の先端は、ひくひくと不規則に痙攣しつつ、彼女の首筋へと到達した。そのまま、首筋に開かれたあの裂傷へと潜り込んでいく。彼女の内奥へ向かって。
 ずるり、ずるり、ずるり。
 そして、長さにして五十センチほど彼女の内部に入ったところで、触手は母体である黒い芋虫から、ぶつりと切り離された。
 分離して別個の存在となった触手は、なおも彼女への侵入を続ける。
 みちみち、ぐちぐち、ぶちぶちっ。
 肉を捏ね、握り潰し、引き千切る音がした。
 彼女の身体ががくんがくんと揺れている。鼻から口から目元から、濁った赤茶色の液体が流れ出る。
「わ、あぁ……そんな……やめて、やめてぇ……」
 涙声で懇願する。
 しかし、触手の尾がぴちぴちと跳ねたかと思うと、その最後の突端は彼女の中へちゅるりと収まってしまった。
 あっという間に、触手は彼女の中へと充填されていた。
 彼女の両目がぐるぐると回転し、唇がぱかぱかと開閉した。
 その背筋がすっと伸びる。次いで、両肩がごきごきと回される。
 肉体の動作を一通り確認したとしか思えない挙動だった。
 そして、肉体の調整を終えたそれが、椅子から立ち上がった。

 尻餅をついたままの凛に、それの視線がひたと当てられ――
 口元が、にっ、と三日月形に歪んだ。

「うわあぁっ!」
 尻餅をついたまま、必死で後じさりした。
 腰にも膝にも力が入らず、手のひらで懸命に床を擦る。
 すると、今度は床に転がっていた母体の芋虫がゆっくりと凛のほうへと動き始めた。
 ずうぅっ。ずうぅっ。
「わぁっ! うわ、うわっ、うわぁっ!」
 心臓が冷たいもので絞られたような気がした。
 板張りの廊下を靴下の踵がつるつると滑る。
 ずうぅっ。ずうぅっ。
 芋虫のような概観からは想像出来ないほどの速度で、それが這い寄ってくる。恐怖と恐慌とが爆発した。
「ふあぁっ、やだっ! やだっ! ぶわあぁっ!」
 すでに凛の顔は涙と汗でぐしゃぐしゃになっていた。
 鼻水で息が詰まり、酸素供給量が激減する。それが余計に思考を鈍らせ、焦りを助長する。
 這い寄るそれの表面が波打った。
 ぐちぐちぐちっ。
 穢らわしい音と共に、新たな触手が現れた。
 小さな子供の手だった。
 一本だけではない。二本、三本と、幾つもの小さな細い腕が凛の方へと伸びてくる。
「ぎゃあぁっ!」
 絶叫が抑えられない。空しく床を擦る足が、小さな手に捉えられた――
 そう思った瞬間、凛の身体は宙に浮いていた。
「ひゃあぁっ!?」
 疑問。そして、背筋が凍るような浮遊感。
 背中から階段を真っ逆さまに落ちていた。
 上から四段目の段差に右の肩甲骨をぶつけた。何かの割れる音が身体を貫いた。次いで、頭頂部に重い衝撃が走った。上下の歯がぶつかり合い、口腔に赤錆の味が拡がる。視界が黄色くなり、赤くなり、暗くなった。大きな音。一瞬の冷たさの後に、猛烈な熱が押し寄せてきた。
 自分がどういう姿勢で落下し、どういう体勢になっているのか把握出来ぬまま、凛は一階の廊下に転がっていた。
「ぁ。っく、は、う、あっ」
 息をすると胸と背中に激痛が走る。大声で泣く事も出来ず、凛は浅い呼吸を繰り返した。起き上がる事はおろか、指の一本すら動かせない。ただ、全身を包む熱と痛みとが凛を支配していた。

 ――る――いぇ――

 その時、右の耳に何かの音が届いた。
(あの声だ……)
 この家で幾度か耳にした、あの不可思議な声である。

 ――な・ふぅ――る――ぐん――んるぅ。

 細切れだった音の粒が、徐々に形をとり始めていた。
 やがて、はっきりと明瞭な声が耳に飛び込んでくる。

 いあ――いあ――いぐ・よぐ・るるいえ――ふんぐるい・むぐぅるぅ・むぐるなう。

(外国語だ……いったい何て言ってるんだろう)
 朦朧とした意識の中でそんな事を思った。だが、その奇妙な音律は何故か凛の耳に心地よく響いた。

 あい・あい・るるいえ――いあ・よぅぐ・そうと・ほうとぅ。

 誰か一人の声ではなかった。
 数知れぬ何かが、声を嗄らし斉唱するそれは祈りの言葉だった。
「い、あ……いぁ」
 いつしか凛のもだせる舌は彼らと同じ言葉を紡いでいた。
 無窮なる星々より来たれる無貌なる神々への祈りを。

 その時、ぼやけた凛の視界に映ったものがある。
「やあ。今日も来てくれたんだね」
 あの少年だった。
 膝をついて、凛の顔を覗き込んでいる。
 凛の様子を心配するどころか、実ににこやかで愉しげな様子だった。
「きっと来てくれるいえと思っていにぐよ。君のためにゲームやららぃ家族やら、色々とむるぅ用意したんだし」
 少年の言葉に奇妙なノイズが混じっていた。彼の言葉に重なって幾つもの声が響いているのだ。
「あまり派手にふるぐるぅ子供を集めるわけにはいかなむるふいからね。でも、とてもいい具合にるれ、ら・るぅ・る・るるいえ! にゅぐ、いおす、しゅぶ・にぐらす!」
 いつしか彼の口からは無数のなにものかの声が斉唱となって紡ぎ出されていた。
 滑らかに響くその言葉に、凛はうっとりと耳を傾ける。
「永劫なる時の彼方の住人よ! 星辰の刻を告げる客人よ! 父なるダゴンと母なるヒュドラよ! 外なる宇宙の神々よ! 我は求め訴えたり!」
 轟音の如き祈祷に応えて家屋がごうごうと揺れ始めた。地の底に棲まうなにものかが、自らを求むる祈りの声に歓喜しているかのようだった。
 それとともに、廊下の隅の暗がりから何かが現れた。
 しゅるしゅるとのたうつ、漆黒の触手だった。
 ついさっき、二階の天袋から出現したあれと同じような、忌まわしく穢らわしい黒々としたものである。
 暗がりのそこかしこに発生した幾本もの触手が、凛の肉体へと這い寄ってきた。
「あ、うぅ……」
 身動き一つ出来ない凛の身体に触手どもが絡みつく。手に足に胴に首に。ぎゅうぎゅうと締め付けられる感覚。しかし、不思議なことに痛みはなかった。むしろ、その圧迫は触手どもとの心地よい一体感を凛へともたらしていた。
「とこしへの眠りは死ではなく、妙なる永劫のなかで死すらも終はりを迎へるのだ」
 満面の笑みを浮かべた少年の顔が、その表情ごとどろりと溶け落ちた。
 顔だけではない。服を着た肉体までもが、ずるずると床に流れていく。
 あっという間に彼は黒々とした芋虫状の物体へと変化した。
 それは貌を持たぬ暗黒の男。
 夜に吼え闇を徘徊する蕃神どもの頂き――這い寄る混沌。
「ぐ、ぅ、あ、ふうぅ……」
 その様子を見る凛は、自分が触手どもに溶け合いつつある事を感じていた。巨大なる混沌の一部へと。
 しかし、そこに恐怖や絶望や苦痛はない。
 あるのは圧倒的な多幸感と充実感。
 暗黒の宇宙より飛来する星々の智慧に身を委ねる満足感。
 虚ろな視線を転じた先には、彼女の姿があった。
 凛と眼が合うと、その口元が、にっ、と三日月形に歪んだ。
 そして、歓喜が溢れ出す。

 ――ぎゃあてい、ぎゃあてい、はらぎゃあてい、はらそうぎゃあてい、ぼだいそわか、んが、なぐる、ふぐん、るるいえ、うがふなぐる、ふたぐん、くとぅぐぁ、ふぉうまるはうと!

 ――いあ、いあ、くとぅるふ、ふたぐん!

 それが凛自身の唱える言葉なのか、頭に響く言葉なのか、もはや判然としない。しかし、混沌に融溶した凛にとってそれは些細な事だった。
 祝詞は永劫より出でて響き渡る。
 外宇宙の彼方から深い水底に至るまで、大いなる存在を言祝ぐ声が地をあまねく満たしていた。

「ああ。最高の夏休みじゃんか」

 そして、凛の意識と存在は途絶えた。

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